政権交代について

鳩山首相の辞任というちょうどいいきっかけがあり、またいま飛行機のなかでヒマなので、まったくの門外漢ではありますが、昨今の日本の政治状況についてつらつらと書いてみたいと思います。

鳩山首相の辞任直前、内閣支持率は20パーセントを切るまでに落ち込んでいました。この原因については多くのことが言われています。政治と金、普天間、高速道路無料化、統治能力の欠如などなど。それらの要素はマスメディアなどでは一言で、政権の担い手である「民主党への失望」という言葉で表現されているように思います。いわく、多くの有権者が大いなる期待をもって迎えた鳩山民主政権が、その期待を完全に裏切ってしまい、いま国民は民主党に失望してしまっているのだ、と。結論から言うと、僕は、この失望の図式というものはそもそも間違っている、という風に考えています。それは別に、みなが思っているより民主党はよくやっているということを言いたいわけでも、成果が上がるのをもっと気長に待つべきだと言いたいわけでもありません。では何を言いたいのか。それを明らかにするためには、そもそも政権交代というものが何であったのか、という点についてもう一度振り返ってみる必要があるかと思います。

言うまでもなく、「失望」は「期待」があってはじめて生じます。ということは「民主党への失望」というものが生じているとすれば、その裏には、「民主党への期待」があったということです。ところで、僕の考えが間違っていなければ、衆院選挙で民主党を政権の座につかせたのは、「民主党への期待」というよりは、むしろ「自民党への失望」であり、もしそこになんらかの期待があったとすれば、民主党という政党に対するポジティヴな期待というよりは、「政権交代」という根本的な変化の契機に対するぼんやりとした期待であったように思います。この考えが間違っていないとするならば、そもそも「民主党への失望」というものはお門違いであるということになります。もし、何かに失望すべきであるとするならば、それは民主党に対しではなく、政権交代に対してでなければならないからです。

だからなんだというのだ?という声がいかにもどこかから聞こえてきそうです。もとにあったのが「政権交代への期待」であったのだとしても、結局はその政権交代を担ったのは民主党なのだから、それは「民主党への期待」と同じではないか、と。そしてその民主党がまったく期待に応えられていないのだから、それに失望するのは当然ではないか、と。でも本当にそうでしょうか?「政権交代への期待」は、「民主党への期待」と等価でしょうか?

政権交代への期待」を「民主党への期待」と等価であると考える人は、「与党」という観点から政権交代というものを考えているように思えます。つまり政権交代とは、「与党」を交代させるものである、という発想です。これは一見当たり前の考え方のようですが、しかし実はそうではないのだ、ということをここでは主張してみたいと思います。

いわゆる「民主党への失望」と呼ばれるものの内実を考えてみると、政治と金という問題ももちろん大きいですが、やはり一番の問題は、選挙前に掲げられていた非現実的な公約と、政権を運営していく上でぶつからざるを得なかった現実的困難とのギャップである、という気がします。普天間であれ、子供手当であれ、高速道路無料化であれ、どう考えてもその通りには実現できないような公約を掲げて選挙を戦い、勝ったのはいいが、実際に政権についてみると、できもしない公約のために右往左往することになり、それが国民の失望を招いた、というところが中心にあるのではないか、ということです。

さて、ここで一つ問いかけをしたいのですが、もとから実現不可能な公約を実現することができない、というとき、そこでの問題は、いったん掲げられた公約をちゃんと実現することができない点にあるのでしょうか、それとも実現不可能な公約を掲げてしまった点にあるのでしょうか?答えが後者であることは明らかです。それに比べれば、実現不可能な公約を軌道修正していくのは、むしろまともな選択であるといえます。

もちろん不可能な公約を掲げたのもそれを実行できないのも同じ民主党なのだから、その二つの段階を区別することに意味などない、端的に民主党が悪いのだ、と主張する人もいるでしょう。しかし、公約とその実行との間に、選挙という決定的な契機が入っており、そしてその前後で、民主党のステータスが「野党」から「与党」へと変化している、という点を考慮するなら、事態はそれほど簡単ではないことがわかります。

野党の存在価値は、第一義的には与党の政策を批判的に検討していくことにある、とひとまずは言えると思います。しかし一口に「批判的」と言っても、その内実は一様ではありません。たとえば二大政党制が根付いている国における野党による批判と、55年体制時の社民党共産党による批判とは、大きく性質を異にしています。というのも、前者の場合、次の選挙の結果によっては与党の座に就くことがありえ、それゆえかつて与党に向けていた批判が自身に帰ってくる可能性があるのに対し、後者の場合はその可能性が(ほぼ)ゼロであるからです。この相違は、批判にともなう責任性という点に如実に現れてきます。二大政党制の野党は、やがて自身が権力を担い実際に国家を運営していく可能性があるため無責任な批判や対案を出せないのに対し(その後のしっぺ返しを予期するため)、日本の旧社会党共産党の場合、いくら言いっぱなしにしてもその責任をとらなくても済むからです(どのみち政権につくことはないため)。政権につく可能性があるのか、それとも万年野党であるのかによって、一言で「野党」と言ってもその内実はまったく異なるのです。

日本においては、昨年に民主党が政権をとるまでは、野党が選挙によって政権を獲得するということまったく起こったことがありませんでした(政治家による数合わせによって与野党の交代が起こったことはありましたが)。しかし今回の政権交代によって、はじめて野党が与党となり、責任ある立場に立たされるということが起こりました。このことがもつ帰結はなんでしょうか?

一般的な答えは、すでに述べたように、政権交代は与党を変える、というものでしょう。しかしここでは次のように主張したいと思います。すなわち、政権交代が変えるのは、与党ではなくてむしろ野党である、と。つまり、無責任な批判を言いっぱなしの野党を、やがて自身が政権を担うかもしれないということを予期する、責任ある野党に変えるのです。

このように考えてみた場合、日本における政権交代は現在どのような地点にあるでしょうか?鳩山首相の辞任に象徴されるように、与党民主党はほとんど地の底を這っている状態です。今の民主党をこのように苦しめているのは、「野党」時代の公約です。ところでここでの「野党」は、政権交代以前のモデルが実現する以前の、いわば55年体制の最後の残滓としての野党です。実現不可能な公約や政府への対案を掲げる、結局は無責任な野党です。現在、民主党に向けられているさまざまな批判は、実は与党民主党に向けられた批判ではなく、実のところ、政権交代前夜の「最後の無責任な野党」の呪縛に向けられた批判であるのではないでしょうか?だとするならば、無責任な野党を責任ある野党に変えていくプロセスとしての政権交代は、実はいまこの瞬間に佳境に入っている、と言えるのではいでしょうか?

それゆえ今というこの段階では、失望する必要などまったくなく、そのうえで民主党の公約違反を厳しく追及していけばいいのだと思います。そうすることで、無責任な批判を政府に向けたり実現不可能な公約を掲げて選挙を戦ったりすることの恐怖を、「政権交代以後」のあらゆる野党に植えつければいいのです。そうすることで、政権を担う「与党」が立派になるのではなく、むしろ政権を批判し対案を提示する「野党」が立派になることによって、真の政権交代が実現するのだと思います。

だから失望するのはあまりに早すぎる。なぜなら政権交代はまだはじまったばかりであり、ようやくその佳境に入ったところなのだから。首相がころころ変わるのは確かに困ったものですが、これは政権交代という「野党を変革する」大きな試みに付随するやむを得ないコストとしてしばらくは受け入れるしかないでしょう。別に民主党そのものを長い目で見る必要はありません。しかし政権交代というプロセスについては、いましばらくは失望することなく長い目で見る必要があると思うのです。

 将棋と時間―将棋に見る有限性の考察

 つい先日まで、将棋の名人が戦われていました。羽生名人が4連勝で防衛、というニュースを読んだひとも多いかと思います。その羽生名人に挑戦したのは、三浦弘行八段という棋士でした。この三浦八段は、対局中のアクションがきわめて大きな棋士で、手を読んでいる時の様子は、まさに命がかかっているという風情です。三浦八段についてのひととなりについては、こちらのブログで素晴らしい紹介がされています。

羽生名人の四連勝で終わった今回の名人戦ですが、全四局のうち三局は、最終盤で三浦挑戦者が正しく指せば勝ちという局面がありました。しかし残り持ち時間の差し迫った応酬のなかで、三浦八段はことごとく勝ち筋を逃してしまったのでした。切羽詰まった状況のなかで、なんだかんだと曲折があっても最終的に勝ちを手繰り寄せてしまうというところに、羽生名人の強さが光ったシリーズでした。

ところで将棋の名人戦の対局は、各自9時間の持ち時間で、二日間にわたって行われます。一日目の夕方には封じ手といって、つぎの一手を紙に書いて密封し、翌朝それを開封してつづきを指し継ぐ、という方式をとります。プロ棋士の将棋を見ていて素人目によく抱く印象は、持ち時間がこんなにたくさんあるのに、なんで最後の一番切羽詰まった状況のときに、秒読みになってしまうまでに時間を使い果たしてしまうような時間の使い方をするのだろう、ということです。序盤のそれこそなんでもないようなところで一時間とか長考しながら、最後は一分一秒を争い、そこで勝敗が決してしまうのです。だったらもっと時間を残しておけばいいのではないかと。

今回の名人戦では、三浦挑戦者というきわめてアクションの大きな棋士が登場したこともあって、そのような素人考えをさらに強くしました。名人戦は毎回NHKのBSで放送されていて、今回も最終盤の一番の佳境の場面での両対局者の姿が映し出されたのですが、盤上にまさに没我している三浦挑戦者の姿には、鬼気迫るものがありました。少し長いですが、上に紹介したブログの一節を引用します。

しかし、なんといっても三浦の最大の魅力はほとんど忘我状態に近い対局姿勢である。終盤、三浦が渾身の勝負手△2三角を放って猛烈な追い上げ、それでも羽生が厳密には残しているのではないかといわれていたが、羽生の対応にも問題があり、三浦が逆転したのではないかというところで、NHKのBSは10分間の生中継に突入した。
いきなり三浦が映る。いつもながらの驚異の極限の前傾姿勢で、左手を開いて頭を鷲づかみに抱えて必死に読み耽っている。手に隠れて表情はよく見えないが、なんとか見て取れる左目だけからも、頭脳がフル回転であることを雄弁に物語っている。まるで、間違って世界核戦争が発生してしまい、10分以内に重大な決断をしなければいけない大統領が「正解」を探して体裁など一切無視して必死に苦悩しながら考えているかのように。
その三浦の姿勢は中継中の10分間全く不動のままだった。悟りをこれから開こうとして瞑想中の仏陀のように。これだけでも、見た甲斐があったというものである。
(ものぐさ将棋観戦ブログ、「4タテをくらった挑戦者が主役だった不思議な名人戦ーー名人戦2010第四局 羽生名人vs三浦挑戦者」より)

いかがでしょうか。

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さて、今回書こうと思っているのは、将棋における時間という問題です。上の引用文にあるような三浦挑戦者の姿は、もちろん彼自身のもつ類まれな性質にもよるのでしょうが、同時に、そこでは時間的制約という要素も大きな役割を果たしていることは間違いない気がします。持ち時間は着実に減っていき、対局者の心理を真綿のように絞めていくわけですが、しかし不用意な手を指してしまえばいっぺんに負けになる。時間はできるだけ残しておかなければならないが、しかし同時に正しい手を指さなければならない。この二つの相反する要求に苛まれることによって、最終盤の棋士が見せる鬼気迫る姿が出現するのではないか。おそらくそれほど間違ってはいないような気がします。

仮に持ち時間のない将棋というものを考えてみるとするならば、そこには間違いなく、プロの将棋がもつ魅力の決定的な部分が欠けてしまうでしょう。持ち時間という時間的制約こそが、将棋の勝負の本質的な部分をなしている、と言えるのではないでしょうか。

いきなりですが、人間という存在は有限です。一人の人間にできることには限りがあり、そしてなによりも、最終的にはいつか必ず訪れる死を避けることはできません。将棋の持ち時間ということを考えるとき、僕が連想するのはこの人間の有限性ということです。時間切れとは、いわば一種の死ではないでしょうか。たいていの将棋には秒読みというものがあり、その時間内で指せば際限なく指しつづけることは可能ですが、それでも、着実に秒が読み進められていってしまうことの恐怖は、死の恐怖にどこか通じるものがある、という風に思えてなりません。

有限なのは時間だけではありません。人間には、読み進められる手の分量には制限があります。将棋というゲームにおいて可能なパターンは10の220乗と言われていますが、これは、有意な局面に限定したとしても、とても読み切れるものではありません。ほとんど無限に分岐していくとも思われる可能な局面の数々に対して、これが最善であると確信できる一手を指すことは極めて困難であるでしょう。そして逆説的にも、多くの手を読み進めることができればできるほど、この困難さ、つまりそこには必ず読み切れない部分が残る、という点をより強く実感するのだろうと思います。羽生名人が、将棋における他力、つまり将棋の指し手は、最終的には対局者の指し手に依存せざるを得ないのだという一種の諦念のようなものにたどりついたことは、このことを如実に示している事例のように思われます。羽生名人は、将棋というゲームに向かう際に人間につきつけられるある有限性というものに、もっとも敏感な棋士の一人であるのかもしれません。

この記事では、「将棋と時間」というタイトルを掲げましたが、これはドイツの哲学者、マルチン・ハイデガーの『存在と時間』を真似したものでした。ハイデガーはこの大著のなかで、人間の実存的な存在様態を規定する「気分」として、「恐怖」と「不安」という二つのものを掲げています(他にも掲げていますが)。これらの二つは、大雑把に言うと、前者の「恐怖」ではその対象が分かっているのに対し、後者の「不安」の場合はその対象が分からないという点で区別されます。相当に牽強付会になってしまうのですが、ハイデガーが提示しているこの二つの気分を将棋のなかに当てはめてみたいと思います。

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将棋の対局者を規定する気分は、大きく分けて二つあります。一つは「恐怖」で、これはその対象が明らかな場合に生じる気分です。たとえば桂馬が飛車に当たっているだとか、次の歩成りが開き王手になる、とかがそれに当たります。この「恐怖」は、基本的には読んでいくことができます。しっかりと手を読んでいけば、この「恐怖」の対象は除去することができるのです。これに対して「不安」という気分は、より根が深く、原理的には取り去ることができません。というのもこれは、どれだけ手を読み進めていっても、絶対に読み切れない不確定な要素が残ってしまう、という点に由来する気分であるからです。「恐怖」と「不安」とは、それゆえそれぞれ対照的な性格を有しています。というのも「恐怖」の場合、手を読み進めていけばいくほどそれを除去することができるのですが、「不安」の場合、読み進めていけばいくほど、その不安は増大していくのです。

すでに書いたように、棋士が終盤に残り時間の少なさに苦しんでいるのを見ると、序盤や中盤で一時間も二時間も長考しなければいいのに、と僕なんかは思ってしまうのですが、棋士の「不安」というものを考えると、棋士にそうした長考をさせるのがなんであるのか、わかったような気がしたりたのでした。序盤や中盤の局面では、可能な分岐はそれこそ数え切れないほど存在します。もちろん厳密には最善の一手というものが存在するのかもしれませんが、有限な人間にはそれを確信を持って導き出すことはできません。ですので、可能な局面を深く読めば読むほど、読み切ることのできない不確定な要素がもたらす「不安」に苛まれ、消費時間が必然的に増えていく、という仮説です。

棋士はどうしてしばしば序中盤で時間を多く消費し、最終盤でああも追い込まれるのか。ここでのさしあたりの仮説は、「不安」が棋士を苛むのだ、というものです。将棋界の武蔵とも呼ばれる三浦弘行という棋士には、いかにもこうした「不安」に正面から立ち向かっていきそうな、決然としたた佇まいがあります。ハイデガーは「不安」という気分の源泉を、いつかやがて訪れる「死」を先取りすることのうちに求めました。「不安」というのは、有限性を肌で感じることの極限にある気分であるというのです。ですので、相当に勝手な解釈であるとは自覚していますが、名人戦で三浦挑戦者が見せた極限状況を、将棋に潜む「不安」と向き合ったがために追い詰められた、棋士という存在にともなう有限性の、生々しくも美しい発露であると捉えてみたい、と個人的には考えています。

 ダニエル・ブーニュー『コミュニケーション学講義 メディオロジーから情報社会へ』

ひさしぶりに読書感想文を書きます。

題材は、ダニエル・ブーニューの『コミュニケーション学講義』。これは、急激に変化しつつある現代のメディア環境およびコミュニケーション環境に身を置く人間にとって、間違いなく必読の書であります。

メディオロジー、というと日本ではレジス・ドブレの名前ばかりが知られていますが、いやはや。実はそこにはダニエル・ブーニューという、ドブレにまさるとも劣らない「巨大な」知性が実は隠れていたのです(たんに日本で知られていないだけですが・・・)。本書を読めばわかるように、その理論的な射程の広さや深さだけでなく、それをわかりやすく具体的な事例を交えて説明していく手際にも、まさに超一流の知性と呼ぶにふさわしいものがあります。

ただ僕自身には、メディオロジーにおけるブーニューの位置、についてはいまいちつかめない部分があります。事実的経緯としては、本書の監修者解説にあるように、ブーニューがドブレを自身の所属する大学に呼んでセミナーを開いてもらったことが、そもそもメディオロジーが学問的なプログラムとして立ち上がることになった最初のきっかけだったようです。しかしブーニューが提起している理論は、自身で「情報コミュニケーション学」と規定しているように、「メディア」の問題というよりは、どちらかといえば「コミュニケーション」に焦点をあてたものとなっています。

ドブレが展開しているメディオロジーは、メッセージや思想の伝達にかかわる物理的および制度的な、マクロなロジスティックスを主題的に扱う学問である、とひとまずは要約できるかと思います。対してブーニューの「情報コミュニケーション学」は、マクロな次元も視野に入れてはいるけれど、その基層というか出発点にあるのは、コミュニケーションする人間をめぐるミクロなまなざしです。たとえば母親と赤ん坊との関係が、コミュニケーションの極限的な在り方として示されていたりするのですが、このようなまなざしは、ドブレのメディオロジーにはみられないものだと思います。

それでも強いてあげるならば、なんというか、「転倒させるまなざし」という点で、ブーニューの議論は間違いなくメディオロジーと通い合っています。つまりそこには、通常それ自身で価値があると思われているメッセージや思想というものが、実はそれを支えるより基底的な次元によって決定的に支えられ、具体化されている、とするまなざしがともに見られるのです。そのうえで、ドブレの場合はその基底的な次元として技術(組織化された物質)と制度(物質化された組織)が見出されるのに対し、ブーニューの場合はコミュニケーションが見出される、という違いがある、というわけです。


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ブーニューの理論は、基本的にはコミュニケーションと情報という対をめぐって展開されていくのですが、その議論を駆動するもっとも基底にあるのは、進化論的あるいは発生論的な見方です。たとえばブーニューは、コミュニケーションや関係性の重要性を強調するにあたって次のように述べています。

存在するとは、関係の中にあることです。他の存在から離れて生き長らえる生物はいません。したがってできるだけ幼い頃から、良好な関係のネットワークを築くのが、私たちの生の不可欠な条件だと思われます。メディアの多様さやコミュニケーションゲームの豊かさを理解するには、この情報コミュニケーション学の基本命題から始めねばならないでしょう。(29頁)

この一節からも、ブーニューのまなざしの性質というものがはっきりとうかがえます。現代におけるコミュニケーションやメディアをめぐる諸問題を考察する際にも、ブーニューは常に、生物が環境のなかで生きるというもっとも根本的な事実にまで遡って考察しようとするのです。ブーニューの情報コミュニケーション学のもつ類まれな射程の広さを担保しているのが、この始源へのまなざしであることはまちがいありません。



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こうしたまなざしを理論面で支えるのが、語用論と記号論です。

語用論(プラグマティックス)というのは、言語的あるいは発話的内容を自明とするのではなく、その発話行為そのものを実効的たらしめる諸条件を問う学問です。たとえばある発話は、その発話をめぐるコンテクスト抜きには意味を持ちません。正しい主張が現実的に実効力を有するためには、たんにその主張が内容的に正しいだけでは不十分であり、まずは相手が自分に耳を傾けてくれることが必要です。それだけでもまだ不十分で、さらには聞き手が話し手の誠実さを信じる必要もあります。などなど、「正しい」主張が伝わるという一見当たり前に思える事態一つとっても、実は数え切れないほどの諸条件が絡み合ってはじめて成立するものであるわけです。

ブーニューは語用論の観点から、ある発話行為が成立するための基本条件として、三つの要素を挙げています。

1) フレーム
発話が理解されるためには、つねになんらかのフレームを必要とする。

メッセージを解読すること、行動を理解することは、そのメッセージがどんなフレームの内にあるのか、つまりどんな種類の関係に書きこまれているかを把握しているのが前提となっています。(30頁)

2) 「オーケストラに入ること」
発話が実効性をもつためには、発話を巡る諸条件と歩調を合わせなくてはならない。

オーケストラに入るというのは、あるコードに従って演奏すること、つまりそこで使われているチャンネル、メディア、ネットワークに適合した関係に入ることなのです。(32、33頁)

3) 交話機能
発話が相手に届くためには、まずは相手とのコミュニケーションの回路が確立されていなくてはならない。

話し手がメッセージの内容とは別に、関係そのものを確かめようとして発するあらゆる表現を交話的と呼ぶことにしたいと思います。」(36頁)

このように、メッセージが実現する際に要求される語用論的(実践論的)諸条件に焦点が当てられるのですが、ここで重要なのは、関係やコミュニケーションという契機は、たんにメッセージを可能とするというだけではなく、メッセージに対して発生論的に先行している、という点です。別の言い方をすれば、なんらかの関係性に依拠しないメッセージは不可能であるが、メッセージなき関係やコミュニケーションは可能であるのです。

交話機能は、たんにメッセージを伝達するための回路を開くためだけのものではなく、たとえば日々の挨拶がそれを示しているように、相手とコンタクトをとることそのものが、自律した機能を果たすことができます。しかも、日常の振る舞いというものを考えてみれば、実はメッセージにまで至らない、関係性やつながりの確認という交話的な、それこそ空気のように社会のあらゆる場面に浸透しているのです。ブーニューは次のように述べます。

恋人たちや、セクトの一員、サッカーのサポーター、政党のメンバーや熱狂的な愛国者にとって、真実の内容を持った情報がなんの役に立つでしょうか?そこで重要なのは、関係性や熱狂を分かち合う共同体の存在なのです。(38頁)

このようにして考えると、メッセージという抽象的な内容は、メッセージ以前の関係性が織りなす広大な海の中から、ある限定された条件がととのったときにだけ浮かび上がってくる孤島のように見えてくることになります。



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そこで問われるのが、ではコミュニケーションが情報へと上昇することを可能とするのはどのような諸条件なのか、という点です。ここで、記号論の問題系が呼び出されることになります。コミュニケーションが実現していくのは、透明なエーテルの中でではなく、なんらかの記号を通してです。だとすれば、そこでの記号の働きを分析していけば、同時にコミュニケーションが駆動していく際のロジックもまた明らかにできる、というわけです。

ただしそこで有効な記号論として引き合いに出されるのは、ソシュールではなくパースです。ソシュール記号学の出発点に置かれていたのは言語記号、より正確には、規約として差異の体系を構成する象徴的な記号でした。それは、非時間的な共時態をなすネットワークです。対してパースの記号論は、記号の発生論をも含む動的な議論を展開しました。生物一般にまでさかのぼるコミュニケーションの起源的なあり方から、客観的な知識を構成する抽象的な情報までを発生論的に捉えていくブーニューは、その自らの議論のなかに、記号の生成をも説明可能とするパースの記号論を取り込んでいったのです。

その際に提示される図式が、「記号のピラミッド」です。これは、パースが分類した記号の三タイプ、指標、類像、象徴とが「時間的かつ論理的に」並んで、指標を底辺とし象徴を頂点とするピラミッドを構成している、とする図式です。検索したところ、訳者がなにかの折りに作成した資料がヒットしました。こちらの8枚目に「記号のピラミッド」のイメージが載せられています。パース自身は、上記の三つの記号を類像、指標、象徴という順番で理解していたのですが、ブーニューはその順序を変え、指標を底辺とする記号のピラミッドを新たに構想したのです。

指標、類像、象徴という記号の三つのタイプについて、ブーニューはそれぞれ次のように説明しています。

a) 指標記号

医療的あるいは気象的徴候の場合、指紋、さらには物理的痕跡や堆積物の場合、モノと記号の関係は、全体と部分、原因と結果の関係と言えます。それらの関係は直接的で、コード、意図の介在、精神作用、表象の距離、記号論的切断などを知りません。指標とそれが示すものとの自然な結びつき、あるいは隣接性は、私たちを記号課程の誕生に立ち会わせます。(56、57頁)

記号の受け取り手とある対象とを物理的な接触や隣接性によって結びつけるこの指標が、記号のもっとも基底的な存在であり、あらゆる記号はこのような指標的つながりを通して立ち上がるのだブーニューは述べています。

b) 類像記号

イメージとそれが表象するものの関係は、類似性、あるいは広い意味でのアナログな連続性によって担保されていますが、接触は断ち切られます。指標が世界から切り出されてくるのに対して、類像的人工物は世界に付け加えられます。(57頁)

世界との物理的連続性から切り離され、イメージの次元で表象のある自律した世界を構成するこの類像記号は、同時に人類学的断絶、すなわち動物から人間への移行に対応するものであるとも述べられています。

c) 象徴記号

イメージとは異なり、象徴記号は、もっぱら排除されることによって構造化され、密やかな否定性の上に築かれています。それはall or nothingのデジタルなモードによってすべてを表すのです。言語が結びつける二つの現象のあいだには、機械の二進法的言語の0と1のあいだと同様、第三項は存在しません。ある記号の存在は、同じ場所における他の記号の不在を意味しているのです。

これはソシュールが提起した、差異の体系としての記号であり、個々の記号には実定的な(ポジティブな)規定は属しておらず、人工的な規定によって設定された、その他の記号との差異という純粋にネガティヴな規定によって意味をなします。

ブーニューは、これらの指標、類像、象徴という記号のタイプが、発生論的に、つまり指標から類像が生じ、類像から象徴が生じる、というかたちで組み合わさっていると言います。このとき、後者に進みにつれて、その出現はいわば「ありそうにないもの」となります。指標記号は自然界にもありふれていますが、象徴記号は進化の歴史上の最後にきわめて例外的にしか出現していません。それゆえこれらの記号の三タイプは、一種のピラミッドを構成することになるのです。

ただし記号のピラミッド的性格というのは、たんに進化論的にみたその出現の順序を示しているだけではありません。ブーニューによれば、たとえば人工的な象徴記号であっても、その記号のそのつどの出現の中で、記号のピラミッドをいわば底辺から頂点へと上昇する形でしか実現しえません。口頭によるメッセージの伝達という例を考えるならば、まずは相手の注意をこちらに向けるという指標的段階があり、次に発生される音声がある「かたち」として類像的に認知されなければならず(おそらく言葉の原理的な音楽性というものがあるとすれば、それは記号のこの類像的な層に根を置いているのだと思います)、それから認知された言語的パターンが、有意な意味的分節の中に置かれる必要があります。象徴的メッセージの実現は、けっして象徴的次元だけでは果たされえず、つねにこのような記号的上昇として起こり得ないため、より指標や類像といった下層の段階でその上昇が阻害されると、象徴的メッセージそのものが失敗することになります。



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説明が長くなってしまいましたが、ブーニューの情報コミュニケーション学は、内容よりも関係の先行性から出発する語用論と、指標、類像、象徴がなす記号のピラミッドに依拠する記号論とを交差させる形で展開されていきます。このとき、前者における関係から内容へと上昇していく発生論的プロセスは、記号における指標から象徴へと上昇していく発生論的プロセスに対応することになります。というのも、関係性を主目的とするコミュニケーションは指標的記号を用い、内容に焦点を当てる情報は象徴的記号を用いるからです。つまり、ブーニューの情報コミュニケーション学では、語用論と記号論は、コミュニケーションの実現を分析する一つの学問の二つの理論的視座、という関係にあるのです。

ブーニューはこのような理論立てを駆使して、社会におけるコミュニケーションやメディアを巡る諸問題に、まさに縦横無尽に論じていきます。目次から適当に拾ってみるだけでも、マーケティング、医療、メディア、技術、ジャーナリズム、国家、芸術、グローバリゼーションといったテーマが見つかります。これらの多岐にわたる事象が、上述の理論立てを通して、鮮やかに切り分けられていきます。その手際は、見事というほかはありません。

書きたいことはまだいくつかあって、たとえばコミュニケーションの「閉じ」と情報の「開け」といった対概念や、あるいはそれと関連した、グローバリゼーションと共同体性といった問題など、すとんと腑に落ちるような素晴らしい議論が多く展開されています。しかしすでにかなりの長文になってしまったので、最後に一点だけ。

ブーニューは、確固とした理論的視座に基づいたきわめて確かな分析をあらゆる事象について進めていくのですが、その文章を読んでいくと、彼が提示する説明のもつとびきりのしなやかさというものにとにかく感嘆させられます。ある事象についての理論的な把握と、説明の際の具体的で鮮やかな比喩やイメージとが組み合わさることによって、ドライブ感溢れる文章が生み出されていきます。以下に三か所だけ引用します。

私たちは自ら発したり受け取ったりする言葉を、スポンジやゴムを扱うように引っ張って変形させたり、自らの本質をそこに注ぎ込んだり、自らの生命を与えたりします。それが意味をなすということです。(92頁)

食器を並べる前にテーブルクロスを広げるように、まずある一定の領土の安定が必要になります。ハーバーマス的な意味で公共空間が発達したところでは、それに先立って極めて物質的な領土の整備―道路や航行可能な水路、商品だけでなく情報の流通ネットワーク、全国的でなくとも少なくとも支配的な言語のような文化の象徴的装置、貨幣、度量衡の統一など―が行われます。(154頁)

生、その円環あるいは回路は拡大しつづけました。大発見、そしてあらゆる物産の取引を生んだ大航海の時代から5世紀を経て、第一の土地、オーラル(口語的)な世界への原初的な隷属からの緩やかな離脱の運動の終着点で、機械に囲まれた宇宙船の中の宇宙飛行士は「あれが地球だ!」と叫ぶことができるようになり、ついに円環は閉じられました。(170頁)

ツイッターUstreamなどの、少し前まではまったく想像しえなかったような新たなツールの出現によって、メディア環境の変化はますます加速しつつあり、ほとんどわけわからない状況になりつつありように思います。そんななかで、初版が1998年に出版されたブーニューのこの本は、驚くべきことにまったく古びていません。というよりも、ますますそのポテンシャルが明らかになりつつある、という感じがします。この本は、変化のただなかでこそ、原理的な考察が必要なのだということが、まさに実感させてくれます。そこらのメディア論の本を百冊読むより、まずこの一冊です。以上。

一つのメディア体験――「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」


今週の月曜日の夜10時、NHKで放送記念日特集というものが放送されていましたが、その裏では、Ustreamをつかったツッコミ番組「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」が流されていました。詳細については“革命的Ustream放送”「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」の裏側 (1/2) - ITmedia NEWSで記事にされています。要約するとこれは、NHK番組放送の二日前のツイッターでのつぶやきに端を発し、ケツダンポトフのそらのさんが計画し、開始二時間前に会場(小飼弾氏の私邸)が決定した番組で、出演者には小飼弾氏、堀江貴文氏、津田大介氏、上杉隆氏、山本一郎氏という豪華な面々が名を連ねたのでした。

まずは、番組実現に至るまでの驚くべきフットワークの軽さと、にもかかわらず集められた面子の豪華さが衝撃的です。この軽さと豪華さの両立を可能としたのは、言うまでもなく、twitterというリアルタイムメディアと、Ustreamという動画生中継サイトという、コミュニケーションあるいは情報発信のコストを極限にまで切り詰めた新しいメディアです。新たなテクノロジーのおかげで、これまでは考えられなかったようなことが、これまでは考えられなかったような仕方で可能となったのですね。

結論から言うと、僕はこの番組、というかNHKによる本放送とそれにツッコミ(や暴言)を入れる裏番組、それにそれらを中心として渦を巻いたtwitter上のつぶやきの圧倒的な流れに大きな衝撃を受け、深く感動さえしました。けれど、あちこちの論評や呟きなどを見ても、自分が受けた印象を代わりに表現してくれているようなものは見当たりませんでした。なので、自分で書きます。長文の予感。

今回の試みに対してどのような反応があったのかという点については、こちらを見ていただければ、だいたいの流れがつかめるかと思います。今回の番組では、切込隊長こと山本一郎氏が相当量の狼藉を投下していったことによって、氏をめぐる毀(誉褒)貶がたちどころに姦しくなってしまい、隊長風に言えば微笑を禁じえないところでありますが、このことによって、(僕の見たところでの)この企画の意義が見えにくくなってしまっているように思います。

上のtogetterをざっと見て行くと、やはり否定的意見が多く目に付きます。それらの主をなすのはぱっと見は山本一郎氏への弾劾でありますが、ゴルフの素振りをやっていた上杉隆氏への飛び火も見られますし、総じて言えば、酒飲み話のノリそのものがもつ下劣さに対する全般的な非難であるといえると思います。この非難の裏には、建設的かつ生産的な議論への期待というものがあったのでしょう。期待が高かったからこそ失望も深かったわけです。加えて、番組専用のハッシュタグに寄せられたつぶやきをぜんぜん拾えていない、つまりリアルタイムの双方向性を実現できていない、という運営上の点に関する批判も見られました。

出演者の中では、津田大介氏は建設的かつ生産的な議論になることを望んでいたようで、番組内でもたびたび軌道修正を試みていました。また事後のつぶやきでも、反省の弁を繰り返し漏らしています。その他の出演者はというと、明らかに軽いノリで酒飲みながらだべりに来ているという様子に見えたので、もしちゃんとした議論を繰り広げることが目的の番組であったのならば、その点での共通了解ができていなかった時点で致命的でしょう。ただ、そらのさん自身はそんなつもりはなかったようなので、津田氏とそれ以外のメンバーとの間で、「したいこと」の根本的な差異があったのでしょう。

しかしまあそんなことはとりあえずどうでもいいんです。内容に関してこれから改善して行く点も多くあるんでしょうし、運営面においてもそうなのかもしれません。しかしそんなこんなのもっと手前のところで、僕は今回の試みをとても面白いと思い、そして限りなく意義のあることだと思いました。内容上の面白さや不愉快さなどより以前に、そこで実現しているコミュニケーションの回路や、その回路が自分に触れてくる際のメディアのあり方という点で、今回の企画はきわめて刺激的だったのでした。

メディアというものは、自分の無意識の皮膚感覚のようなものを形作る場です。今回は、その皮膚感覚そのものが根本的に変容した、というような感触を覚えました。だとすれば、その変容する皮膚に何が触れようが、さしあたりはどうでもいい。思いもかけないところから声が響いて来たのだから、その声が「ハゲ」と言っていようが「シャブ野郎」と言っていようが、そんなことはどうでもいい。


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僕は普段あまりテレビを見ず、新聞のテレビ欄も見ず、何曜日にどの番組をやっているのかもよく知りません。しかし今回のNHKの放送記念日特番に関しては、前の日からその放送を待ち構えていました。それはtwitter上で、Ustreamでの裏番組をやるということを目にしていたからです。そして僕の中ではこの時点から、一つのイベントが始まったのでした。僕はNHKの番組の内容を見たかったのではなく、Usteamの裏番組とともに「テレビを見る」という行為そのものが楽しそうだと思ったのです。

「激震マスメディア〜テレビ・新聞の未来」と題されたNHKの特集は、スタジオに論者を集め生放送で討論をする、という番組です。討論の合間には、マスメディアの現状をまとめたVTRが流れ、それを足場にそれぞれのトピックについて議論をしていく、という流れになっていました。出演者は

日本新聞協会会長   内山斉  
日本民間放送連盟会長 広瀬道貞 
ドワンゴ会長     川上量生 
●ITジャーナリスト  佐々木俊尚
学習院大学教授    遠藤薫  
●NHK副会長     今井義典 

となっています

この番組で特筆すべきなのは、番組内にtwitterを全面的に導入している点です。メールやファックスでの意見に加え、番組独自のハッシュタグを設定し、そこに寄せられたつぶやきをリアルタイムで拾い出して、スタジオでの議論にフィードバックさせる、ということが試みられていました。これはNHKのやることとしては相当に勇気を振り絞った感があります。

当日の22日、僕は夜の9時すぎあたりからTweetDeckを立ち上げ、NHKの番組とUstreamの番組のハッシュタグを両方ともウォッチし始めました。そこではちょうど、後者のハッシュタグを前者のものと同一にしてしまうことを巡る是非が議論されていました。山本一郎氏(覚醒前)も、これについてNHKスペシャル論評していました]。

ハッシュタグを巡る議論では、それを「渦」の比喩で説明しようとする佐々木俊尚氏の主張が印象的でした。

ただハッシュタグについての共通認識はまだほとんどできていない。私の個人的とらえ方は、ハッシュタグTwitter圏における「渦」のようなもの。その渦の中心には、イベントやできごと、ニュースなどがある。
7:08 PM Mar 21st via Seesmic

二つのイベントが二つの渦を作っていて、その渦は一部は重なり、一部は重なっていない。両方を見ている人もいれば、片方しか見ていない人もいるから。そこで無理矢理ハッシュタグを同一にすることは、渦を全面的に重ね合わせようとするのと同じ。
7:10 PM Mar 21st via Seesmic

情報圏域は(重なってない部分もあるので)異なっているのに、渦を同一に重ねてしまうと、そこには必ず混乱が生じる。無理矢理重ねられた側から見ると、それはスクワッティングに見える可能性もあるということを認識したい。
7:12 PM Mar 21st via Seesmic

結局、二つの番組のタグはちゃんと分けた方がいいということに落着したようですが、実際にはある程度の「混線」は起こっていたようです。

とにかく僕は、こういった意見になるほどーとうなずきながら、デスクトップPCでUstreamに接続し、ひざにはノートパソコンを置き、そちらでは二つの番組のハッシュタグのもとに集められていく猛烈な勢いのつぶやきの流れをTweetDeckを使って眺めつつ、NHKの番組の開始を待っていました。このとき僕は、まさにイベントの開始を待っているような心境でした。間違いなくワクワクしていました。


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言うまでもありませんが、以上のような環境で「視聴」なるものを試みる場合には、「視聴者」には相当の認知的負荷がかかります。ただでさえ二つの番組を同時に見るという時点ですでに厳しいのに、そのうえ二つの番組を巡って、次から次へと大量の呟きが流れて行くわけです。番組二つにTL二本(ちょっ早)、明らかに限界超えてます。僕にとっての今回のメディア体験が、認知的限界を超えた朦朧状態によって相当程度規定されていたということは、あらかじめご了承いただければと思います。

さてようやく、ようやくここからが本題なのですが、上記のような視聴体験のなかで僕が感じたのは、参照先となるNHKの番組とそれに対するつっこみ(×3)という構図ではなく、Twitter上の大量のつぶやきが巻き起こすコミュニケーションの渦から湧き上がる二つの島、という構図でした。あくまでも個人的な実感ではありますが、それでも、あたかも主がTwitterのつぶやき群で、従が二つの番組である、という感覚を覚えたのです。ここにはもちろん、Twitterというメディアの特殊性が大きく関係しているでしょう。

たとえば番組に対してメッセージを送ることと、同じ内容をTwitterでつぶやくこととのあいだには本質的な違いがあります。それは、前者の場合はそのコメントがある誰かへと差し向けられるものであるのに対して、後者の場合それが差し向けられているのは、自律したあるコミュニケーション回路であるという点です。

Twitter上での「この番組つまらん」というつぶやきが属しているのは、まずもってそのTwitter内でのフォロー関係(あるいは起こりうるRTへの予期)が構造化しているコミュニケーション回路であり、番組そのものはシステム論的にいうところの環境というやつになります。コミュニケーションとは際限なく接続していく連鎖関係のことであり、そこには連鎖の独自のロジックが存在します。番組なりなんなりの外の世界は、そのロジックが機能して行くための素材(話題)にすぎません。

ハッシュタグというのは、この自律したコミュニケーションのプロセスからつぶやきを拾い出してきて擬似的に一つの「場」を作り上げることで、そこに新たなコミュニケーションの連鎖のレイヤーを生み出す役割を果たしているといえると思います。そこではつぶやきのステータスは二重化されます。そのつぶやきは、一方ではハッシュタグによって生成される擬似的な「場」での連鎖を予期しつつ、他方では自分をフォローしている人たちの反応も予期するわけです。しかしいずれにせよ、そこにはそれぞれ独自のコミュニケーションの連鎖が生じて行くことになります

マスメディアというものは、マスコミとも言われるように、コミュニケーションの回路をマスに制御するものです。しかし、Twitter上での大量のつぶやきと合わせて番組を見ていると、NHKというマスメディアの制御から離れたところで、つぶやきの連鎖が一種のマスなコミュニケーションの回路を生み出している、ということが強く感じられました。このつぶやきの連鎖は、NHKがゼロから生み出したものではありません。Twitter上では、マスメディアがあろうがなかろうが、あらかじめすでにありとあらゆるつぶやきが連鎖しており、マスメディアにできるのは、それに刺激を与え活発にすることだけです。

現在はまだ黎明期ですが、今後は、Twitter上でのコミュニケーションをもっとも活発にすることのできるコンテンツが、一番多く受容されるコンテンツになるのではないか、という感想も持ちました。国民の大多数がTwitterに常駐するようになれば、ある番組を巡るつぶやきが活発になればなるほど、当然その番組を見る人も増えるからです。とするとそのような状況でマスメディアに可能であるのは、そのつどゼロからコミュニケーションを作り上げることではなく、既存のコミュニケーションの方向を変えることだけだということになります。

この点において僕は、マスメディアの地位というものが本当に転覆されつつあるのだということが強く実感されました。このような実感を覚えるための機会として、マスメディアの危機について討論するという今回のNHKの番組は、まさに格好の機会だったいえます。今回のUstreamを使っての企画が果たした役割というのも、このマスメディアの地位の転覆というものを鮮やかに可視化する、という点にあったのじゃないかという気がします。

今回の裏番組に出演した面子は、そのまま民放の番組のそこそこの時間帯の出演者になってもそれほどおかしくないメンバーだと思います。そういった面々を五人も集め、たった二日の準備で生放送番組にしてしまえるという、現代のテクノロジーが可能とした軽やかさそのものが、まずもって例の転覆を如実に示す指標となっていると思います。それに加えて今回の企画では、NHKの番組の出演者であったドワンゴ社長の川上氏が、NHK出演後に裏番組に飛び入りで参加するというこれまた軽やかな軌道を見せていましたが、そのこと自体も例の転覆を象徴的に示していたように思えました。

長くなってしまったので一気にまとめますが、僕の言いたいことはこういうことです。つまり、本当の転覆は、NHK vs Ustream番組という二つの放送番組の間で起こっているのではなく、NHK(マスコミュニケーション) vs Twitter(マスになったミクロなコミュニケーション)の間で起こっているのではないか、と。

乱暴に規定してしまいますが、今回のUstreamでの番組企画そのものは、Twitterという「マスになったミクロなコミュニケーション(MMCと呼ぼう)」に接続することで成立するというまったく新しいステータスをもつ放送であり(ニコ生なんかもそうですね)、そのような放送が、たまたまNHKの番組もTwitterを取り込んでいたがために、ハッシュタグを媒介として、NHKの番組を飲み込んでしまった(ように僕には見えた)、ということであるように思えます。

ですので、裏番組が表番組に対して意義のある批評をできていなかった、というのは今回の企画にとっては二次的なんじゃないかと個人的には思います。TwitterのTLをリアルタイムに番組内に取り込んでいくという課題については、ここで議論してきたことから言っても進めていくべきことなんじゃないでしょうか。

なんかまとまりませんでしたが、雑感です。

「また日本か!」

テレビ見てる暇あったらニコ生見てた方がいいって時代が、もう来てるのかもしれないですね。白田先生すばらしい。↓で語られてる考え方、論理の運びや余分な細部までも含めて、98%は賛同。のこり2%は、探したら見つかるかもしれないという程度。いまのところ。

D

こっちも面白いことこの上なかったです。
D

スティグレールから見たデリダ

スティグレールの来日が数日後に迫っているということと、ほかにもちょっときっかけがあって、ここ数日、スティグレールについてあらためてつらつらと考えていたので、そのことについて書こうと思います。内容は、スティグレールが提示している考えから遡行して、彼の師匠であるデリダを位置づけなおす、というものになるかと思います。結論を先取りして書きますが、そのパースペクティブではデリダは、二つの思想系列の交点に位置づけられることになります。すなわち、

a)ダーウィンの進化論からマルクス唯物論へとつながる系譜
b)プラトンからはじまりカント、フッサールハイデガーと連なる超越論的哲学の系列

この後者の超越論的哲学の系列については、あらためて指摘するまでもないかと思います。デリダフッサールを批判することから自身の哲学を開始させたわけですし、彼の「脱構築」もハイデガーによる西洋形而上学の破壊を別の観点からやり直す試みでした。デリダはこの超越論的哲学の批判を、音声/ロゴス中心主義の批判として進めていったのでした。

問題は前者です。ダーウィンからマルクスへとつながっていく進化論の系譜にデリダを位置づける、という見方はそれほどメジャーではないと思います。デリダ自身の議論をみても、この側面については、最初期の『グラマトロジーについて』や『哲学の余白』におさめられた「差延」論文などで触れられつつも、正面から展開されているわけではありません。私見では、スティグレールによるデリダ再解釈は、デリダのこの側面を全面的に展開することで、デリダの議論の総体を位置づけなおす試みだと言えると思います。

スティグレールによるデリダ解釈に向けられる批判の代表的なものは、たとえばGeoffrey Benningtonが提起している*1スティグレールデリダ差延や技術性の概念を実証主義化してしまっている、という主張です。つまり、デリダが扱っているのは原理的にポジティブには言及することができない対象であるのに、スティグレールは技術という名のもとに、デリダの議論をポジティブに言及できる対象の次元へと切り下げてしまっている、という批判です。

この批判が批判としてどれだけ正当であるのか、という点はひとまず置くとしても、そこで指摘されている点は、確かにデリダスティグレールとの中心的な相違を構成するものであると言えます。そして僕の見るところでは、スティグレールはこの相違をきわめて意識的に展開させています。スティグレール側に立って述べるならば、むしろ批判されるべきであるのは、デリダが決して手放さなかった過剰なネガティブ性である、ということになるような気がします。しかしこのあたりの当否もさしあたりはやり過ごしておくことにしましょう。

いずれにせよデリダは、初期の議論では一定程度のポジティブ性(実証性)を有する差延の進化論のパースペクティブを示していたにもかかわらず(『グラマトロジー』には「実証科学としてのグラマトロジー」という節もあります)、この側面はほとんど展開されることはありませんでした。スティグレールは後成系統発生という概念によって、技術を通して保存、伝達、差異化していく記憶の層に焦点を当てることで、デリダによる痕跡や差延の概念をいわば積極的に「実証主義化」したと言えるかと思います。

このスティグレールの見取り図のなかにデリダを置くと、デリダの議論、とりわけその音声/ロゴス中心主義の批判が根本から相対化されることになります。この音声/ロゴス中心主義というものをめぐるデリダスティグレールの態度をそれぞれ要約すると以下のようになります。

デリダ:音声/ロゴスにはつねにすでにエクリチュールが介入しており、それゆえ純粋な音声/ロゴスは存在しない。
スティグレール:音声/ロゴスは、特定の文字形態が生み出した伝達形式に伴う理念的対象である。

この二つの主張は互いに補完し合うものですが、しかし命題の形式が正反対になっています。さらに分かりやすく言い換えると次のようになります。

デリダ:音声/ロゴスはエクリチュールの事後的な効果でしかない。
スティグレール:音声/ロゴスは特定のエクリチュールの効果である。

この両者のうち、スティグレールによる命題の形式は、必然的に、「では効果としての音声/ロゴスを生み出すのはどのようなエクリチュールであるのか」、という実証的な問いを導き出します。そこでスティグレールは、アルファベットを「対象が正確に再現されているという信憑を生み出す文字」正定立的文字として位置づけることで、音声/ロゴスをその正定立的文字の効果として歴史的に捉え直すのです。

このことから、たとえばエリック・ハヴロックが『プラトン序説』で行っていたのといくぶん近い発想で、プラトンイデア論が、正定立的な文字としてのアルファベットから立ちあがってきたものとして理解されることになります。この点でのスティグレールとハヴロックとの本質的な違いは、ハヴロックが筆記によって形式化された新たなコミュニケーション形態についてのみ語っているのに対して、スティグレールはアルファベットを正定立的な文字として位置づけることで、「対象そのものという理念的対象」なるものの構成を、文字の正定立的な性格から導き出す、ということをしている点です。

このことによって、西洋哲学を駆動してきた「差異」、つまり現実のものと理念的なものとの差異が、支配的な文字の性格から捉え直されることになります。そこでは文字は一種の(そして特定の)スクリーンであり、「現実には存在しないもの」あるいは「ヴァーチャルにしか存在しないもの」が、意識の働きによってそのスクリーンに投影されることで差異が生じる、とされます。

スティグレールはこの投影をめぐる動向を、ラカンをきわめて自由に引き合いに出して「鏡像段階の歴史」として捉えています。ラカンは主体の形成を最初に導く想像的な対象を鏡に映る自身の姿であるとしましたが、スティグレールはその鏡像段階論をメディア論的に読み変え、歴史的に出現してきたさまざまな書き込みの媒体は、それぞれの時代における鏡(像)を構成するものであると主張します。

このように見ていくと、スティグレールの議論では、ひとまずは進化論的なパースペクティブ(後成系統発生)が最終的な枠組みとなっており、その技術発展のプロセスのある一時期にアルファベットが生まれ、その圏域のなかで西洋形而上学が発達していった、という見え方になります。あくまでも西洋形而上学を内側から「内破」するという身振りをとっていたデリダに対し、スティグレールはその外側へときわめて大胆に飛び出すことによって、超越論的哲学を人類史的な見取り図のなかに位置づけなおす、ということをしているわけです。

ただしもちろん事情はそこまで単純ではなりません。様々なところで論じられてきたように、歴史的な叙述形式そのものがアルファベットという特定の文字形態に規定されているわけですから、実際には進化論の系統と超越論的哲学の系統は、一方を他方が包摂するという関係ではなく、ここではとても詳らかにはできないような、きわめて込み入った循環関係にあるわけです。デリダの一種の原理主義が一定の根拠をもつのも、おそらくこの循環系を徹底的に追求しているからなのだと思います。しかしスティグレールのように、仮にでも外側へと飛び出してみるという身振りを取ることで、こういった循環の図式が明確になる、という利点もやはり捨てがたいかと思います。

なんだか書きたいことがもっとあったような気がするのですが、寒気がするのでこの辺でやめておきます。最後にまとめ。

1)スティグレールは後成系統発生という概念を提起することで、西洋形而上学(あるいはその内部で批判を行うデリダ)を進化論的な見取り図のなかに位置づけるよ。
2)その際、アルファベットを正定立的な文字として捉え直すことで、西洋形而上学が特定の文字の効果として位置づけられるよ。
3)形而上学が扱う理念的な対象は、スクリーンとしての文字に投影される対象として理解されるよ。
4)でも色々考えるよ、やっぱり難しいよ。

こんな感じです。

*1:Geoffrey Bennington, "Emergencies," Oxford Literary Review 18 (1996): 175–216. Collected in Interrupting Derrida (New York: Routledge, 2000): 162–79.

スティグレールの痕跡の戦略

お知らせです。

最近、ついに主著の『技術と時間1 エピメテウスの過失』の邦訳が刊行されたスティグレールですが、12月19日に来日し、シンポジウムに参加します。今回は、メディアアートをめぐる連続シンポジウム「メディアアートとは何か?」の一つにスティグレールが参加する、という形になっています。

スティグレールは、デリダの弟子としてはきわめて必然的な成り行きですが、「痕跡をめぐる哲学者」です。ただしそこでは「痕跡」は、「記憶と技術」とのカップリングの在り方という観点から捉えられています。スティグレールにとって技術とは、人間独自の記憶の系列を保存、伝達、差異化させていく、いわば記憶痕跡の系統をなすものであり、それをスティグレールは後成系統発生的記憶と呼んでいます。

同じくデリダの弟子であるカトリーヌ・マラブーとともに、スティグレールは言ってみれば「新たな唯物論」の再構築を試みています。「マテリアリズム」に「唯」物論という訳語を当てらてきたというのは時代的な制約の現れですが、新しいマテリアリズムは、「物質しかない」という古臭い唯物論(ただものろん)ではなく、心であれ観念であれ、いかなるものも物質的なインフラなしには成立しえない、という観点から出発する発想です。そこで問題となるのは、「心か身体(物体)か?」ではなく、身体(物体)はいかにして非身体(物体)的なものを生み出すことができるのかという点です。

心と物とはそれぞれオーダーの異なるものですが、しかし不可分に結びついています。この両者の関係性を捉えるための概念が「痕跡」です。「痕跡」というこの言葉には、「跡を残す何者か」と「跡を保持するモノ」、という差異に加え、「かつて残されたものである」という遅れの時間が含まれています。スティグレールは「痕跡」をめぐるこれらの諸相を、「誰」と「何」との「遅れ」を通した関係、という形で定式化していきます。

「誰」すなわち人間は、あらかじめ残されている諸痕跡という「何」に触発され、またそこに新たな痕跡を加えていく、という際限のないプロセスを通して進化していきます。もちろんそこで進化するのはさまざまな身振りや道具だけではありません。象徴やイメージという痕跡と結びつくことで、「心」の領域もまたそれぞれの進化を遂げていきます。

スティグレールが文化産業を批判するのは、心の痕跡の産出プロセス(それは同時に心の産出プロセスでもある)が産業の論理に取り込まれることで、そのプロセスそのものが長期的には機能不全に陥っていく、と考えているからです。このとき、そのような取り込みの手段となっているのがさまざまな表象テクノロジーあるいはコミュニケーションテクノロジーであり、だとすれば文化産業批判は、同時にテクノロジー批判でなければなりません。もちろんここで批判というのは非難ではなく、カント的な意味での「可能性の条件の洗い出し」のことです。

メディアというのは定義上透明なもので、それをを利用しているときには基本的にはメディアは意識の前景に現われてくることはありません。「テレビを見る」というとき人々は、装置としてのテレビを見ているわけではなく映し出されている番組を見ているわけです。メディアは透明化していればいるほど効率的に機能するのです。

メディアアートというジャンルは、新たなテクノロジーを用いて痕跡を産出していくという点で、文化産業とは裏表の関係にあります。しかしメディアなるものとの関わり合い方は、ある意味では正反対だと言えるかもしれません。というのもメディアアートは、痕跡を生み出すものとしてのメディアを意識的に前景化させようと試みるからです。図式的に述べるならば、文化産業が産業的動機からメディアを人々の意識から隠していくのに対し、メディアアートはそれを人々の意識にもたらそうとする。

なんだかいつまで経っても本題にたどり着けそうにないので、一気に結論に行きますが、言いたかったのは、技術やテクノロジーから出発する「痕跡をめぐる哲学者」たるスティグレールメディアアートについて語ことには、きわめて本質的な必然性があるということです。

『象徴の貧困』の未邦訳の第二巻でスティグレールは、ヨーゼフ・ボイスを引き合いに出してみずからの手で触れることあるいはみずからの手で書き込むこと、という芸術の原初的な物質性について論じていました。では、現代メディアといういわば直接には「触れる」ことのできないモノに対して、スティグレールはいかなる痕跡の戦略を企てているのか。

シンポジウムの詳細は以下になっています。先着順らしいので、興味のある方はお早めに。

                                                                                                                            • -

12/19(土)東京大学大学院情報学環× 東京藝術大学大学院映像研究科× 仏ポンピドゥー・センターIRI国際シンポジウム開催のお知らせ

このたび、東京大学大学院情報学環石田英敬研究室では、
ベルナール・スティグレール氏(仏ポンピドゥー・センターIRI)、
藤幡正樹氏(東京藝術大学大学院映像研究科長)とともに、
下記のような国際シンポジウムを開催いたします。

皆様お誘い合わせのうえ、多数のご来場をお待ちしております。

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東京大学大学院情報学環× 東京藝術大学大学院映像研究科
× 仏ポンピドゥー・センターIRI

国際シンポジウム開催のお知らせ

 「メディア・アートとは何か?vol.5
  ――ハイパー産業時代のクリエーションとクリティーク」

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■概要:

ベルナール・スティグレール × 藤幡正樹 × 石田英敬

文化産業とコミュニケーション・テクノロジーにより人間の意識が
生み出され、ユビキタス化された「新たなモノ」たちのネットワーク
が人々を取り巻き、精神のテクノロジーが人々の生を管理する
「ハイパー産業 時代」における、<芸術の問い>とは何か?

どこに私たちの知覚的痕跡を求め、いかなる技術を設計することに
より、どのように感性的経験を総合すれば、私たちは、新たな
<誰>と<何>を 生み出すことができるのか?

それこそが、私たちが今問おうとする「ハイパー産業時代」におけ
る、新たな「創造と批評」の問いである。

東京大学大学院情報学環東京藝術大学大学院映像研究科では、
「メディア・アートとは何か?」をテーマに連続シンポジウムを開
催してきた。今回、第三の連携先であるフランスのポンピドゥー・
センター文化開発部長でIRI所長の哲学者のベルナール・スティグレール
を招聘し、芸術作品の創造と受け手、享受の時間と空間、テクノロジー
と新しい批評の可能性、文化産業と資本主義の未来をめぐり徹底討議
を実施する。


■主催:東京大学大学院情報学環
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/

■共催:
東京藝術大学大学院映像研究科
http://www.fnm.geidai.ac.jp/

IRI / Centre Pompidou
http://www.iri.centrepompidou.fr/

■日時:2009年12月19日(土)14時00分〜19時00分

■場所:東京大学 本郷キャンパス
    大学院情報学環・福武ホール 福武ラーニングシアター
http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/access.html

■定員:180名

■同時通訳つき

■入場:無料

■参加申し込み:
mediaart@nulptyx.com
・事前のお申し込みが必要です(先着順)。
・件名をあなたの氏名にして、上記アドレスまで、
 メール本文に氏名、ふりがな、所属を記入してお送りください。

■お問い合わせ・プレス窓口:
publicity@nulptyx.com
*申込用アドレスではありません。
tel/fax 03-5454-4939(東京大学大学院情報学環 石田英敬研究室)