ももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業と残酷さについて

 2018年1月15日、ももいろクローバーZのメンバー有安杏果さんの卒業・引退が発表されました。この記事では、「リアル」と「ファンタジー」という観点から日本のアイドル史ごくごく簡単に(かつ乱暴に)振り返ったうえで、ももクロファンとして、この出来事にどう向かい合っていくか、綴っていきます。なんだかまとまりのないアンバランスな記事になっています。ももクロの話にだけ興味がある人は、ここからお読みください。

80年代アイドル――ファンタジーとしてのファンタジー

 山口百恵の引退と松田聖子のデビューによって幕を開けた80年代のアイドル文化において、アイドルとはフィクションでありファンタジーだった。アイドルはアイドルというファンタジーを演じ、ファンもそれをファンタジーだとある意味割り切って受容し消費していた。そこには「冷めつつノリ、ノリつつ冷める」という80年代的消費文化のエートスが浸透していた、と言えるだろう。アイドルのこのようなありかたを最も体現していたのが松田聖子だった。「松田聖子」というファンタジーは、松田聖子本人というリアルからは切り離されており、だから彼女は結婚しても、子どもを産んでも、離婚しても「松田聖子」というファンタジーを演じつづけることができ、またファンもそういうものとして「松田聖子」を消費していくことができた。リアルとファンタジーを明確に切り分け、その後者のみをファンが消費していく、これが80年代アイドルの基本的な構図だった。

 80年代アイドルのこの基本的な構図は、秋元康プロデュースのおニャン子クラブの登場により、極限まで押し進められることになる。そこでファンタジーを展開する主導権は、ファンタジーを演じきるプロのアイドルではなく、素人の女の子たちのうちに自発的に魅力を発掘し、育てていくファンの側に移っていった。それは一種のゲームのようなもので、その舞台となったのがテレビのバラエティ番組だった。

夕やけニャンニャン」を少しでも見れば分かるが、そこに登場するのはずぶの素人の女の子であり、またその素人性を微塵たりとも隠そうとしない。80年代アイドル論の古典である稲増龍夫の『アイドル工学』に収録されている元おニャン子メンバーのインタビューでも、彼女たちがほんの腰掛けとしてお遊び感覚としてアイドルをやっていたことが臆面もなく語られている。

モーニング娘。――リアリティーショーとアイドル

80年代末から始まるアイドル冬の時代と呼ばれる時期に終わりを告げたのが、モーニング娘。だ。おニャン子クラブと同様、モーニング娘。もテレビのバラエティ番組から登場した存在だ。ただしそこではまったく新しい方法論が持ち込まれている。リアリティーショーという、ドキュメントバラエティの枠組みだ。よく知られているように、モーニング娘。テレビ東京の番組「ASAYAN」でのシャ乱Q女性ボーカルオーディションで落選したメンバーを集めることで作られた。

オーディションへの応募から、選考、メンバーでの合宿、最終選考、そして落選といったプロセス。またオーディションに落ちたメンバーが集められ、CDを5日間で5万枚売ればデビューできる、という難題に向き合っていく姿。そこに映しだされるのは、歌手になりたいという夢を持つリアルな女の子たちの姿だ。そして視聴者は、CDを購入するという具体的な行動によって、テレビに映しだされるリアルな女の子たちのリアルな夢を応援することができる。ここではアイドルにおけるリアルとファンタジーの関係が反転している。リアルな夢が、ファンと一緒に実現されていくというプロセスそのものがファンタジーとなる。ただしそこでのリアルは、あくまでもテレビ画面の向こう側のものだ。その距離がさらに縮められるためには、インターネットの成熟やSNSの登場を待つ必要があった。

AKBからももクロ、そして残酷さについて

 2005年末に始動したAKB48は、マスメディアの外で生み出されたグループだ。おニャン子モーニング娘。も、テレビの中で生まれ、テレビの中で育っていった。対してAKBは、劇場というリアルな空間を拠点とし、またマスメディア上でコミュニケーションを組織するのではなく、インターネットという場でボトムアップでコミュニケーションを組織していった。そして、握手会という接触の圧倒的な「近さ」を武器とした。そこでは、一人一人のアイドルという存在の「リアル」そのものが商品になっていく。そのことをもっともよく象徴するのが、総選挙という残酷劇だ。総選挙という装置は、アイドルたちの「リアル」な感情を引き出すために機能する。ファンたちはその「リアル」を、投票という行為によって自分たちも参加者することで共有する。ここではアイドルファンは、「ファンタジー」ではなく「リアル」を消費していくのであり、だからガチにならざるをえない。

 ももいろクローバーZもまた、大きくはこのパラダイムのなかにいる。ももいろクローバーももいろクローバーZになるそのきっかけとなったメンバー早見あかりの脱退劇は、少女たちの青春の「リアル」を圧倒的な強度で見せつけるドキュメントであった。と同時にももクロという存在の特殊性は、その「リアル」の姿があまりにも美しすぎて、それがそのまま「ファンタジー」へと昇華されてしまっている、というところにある。ももクロについてはしばしばメディアに現れる姿とそれ以外の素の場面とでまったく裏表がない、というエピソードが言及され、ファンたちもそのことを誇りに思っている。実際には、ももクロの運営はすべてをさらけ出しているわけではなく、むしろ見せる部分と見せない部分とをきわめて繊細にコントロールしている。ファンたちが見ることができるのは、ももクロという存在の「ファンタジー」を裏切らない部分だけであるはずなのだ。しかしももクロのファンたちは、その「ファンタジー」をももクロの「リアル」だと感じている。ここに、ももいろクローバーZという存在の魔法があったのだ、と個人的には考えている。ファンタジーをファンタジーとして消費するのでなく、ファンタジーをリアルとして消費するということ。ももクロというのは、ファンタジーのような、でもリアルな存在なのだとみんなが信じていたこと。ここに、ももクロの唯一無二の魔法があったのだ。正直に告白すれば、ぼく自身もその魔法に全面的にかかっていた。こんなファンタジーのような人たちがリアルに存在するのだということに素直に驚き、そしてそのリアルさを完全に信じていた。ぼくはそれをファンタジーだとは思っていなかった。ファンタジーのようなリアルなのだと思っていた。

 今回の有安杏果さんの卒業・引退という出来事は、ファンタジーはファンタジーであってリアルではない、ということをまざまざと見せつける結果となった。すくなくとも5人組のアイドルグループであるももいろクローバーZとしては、魔法は解けてしまった。残念ながら、これは紛れもない事実だと思う。そしてこの事実に向き合った今、ぼくは「過酷さ」と「残酷さ」のちがいということについて考えている。

 ももクロであることは、メンバーにとって過酷であったと思う。これはおそらく多くのファンも同意するだろう。絶えざる試練が与えられ、過密スケジュールのなかでそれらを次々とこなしていく。しかしぼくは、それを残酷だと思ったことはなかった。ももクロという物語が、それらの過酷さをすべて前向きなものに昇華していると、たぶん考えていた。だから、他のアイドルグループに見られるさまざまな残酷さは、ももクロには無縁なのだと信じていた。でも、有安さんが一年以上まえから卒業を決意しており、またそれ以上前から卒業という決意にいたるような苦悩を抱いていたのだとすれば、これは残酷な状況といわざるをえない。他のメンバーも、スタッフも、ファンもみな信じ切っていたももクロという魔法を信じられなくなったまま、笑顔で活動をつづけなければならなかったこと。これは、残酷だ。ぼくがもっともショックを受けていることの一つは、ももクロには無縁だと思っていた残酷さが、ももクロのど真ん中にじつは潜んでいた、という事実かもしれない。そしてそのことを知らずに、結果としてはその残酷さに荷担しながらももクロという魔法を享受していた、という事実。こうしたやましさの感覚は、しばしば否認の身ぶりとなって攻撃性に転化しがちだ。「裏切られた」という思いを抱くのも仕方ないかもしれない。でもぼくとしては、苦しいなかももクロをつづけてくれてありがとうと言いたい。そして本当におつかれさまでした、と。気付いてあげられなくてごめんなさいとも言いたいけれど、そんな言葉は求めていないと思うから。

 ももクロの5人の魔法は解けてしまった。では、これからは4人の魔法がつづいていくのか。それは正直、わからない。これまでの5人の魔法の裏側に、じつはメンバーを苦しめる残酷さが潜んでいたということを知ってしまったいま、それと同じか、また別種の残酷さが、他の4人のメンバーを苦しめているのではないか、やはりどうしても考えてしまう。たんに魔法に甘えるというのは無責任なのではないか。間違いないことは、ももクロファンとして、ぼくたちはさらに一段成熟する必要がある、ということだと思う。ぼくたちは無邪気だった。無邪気に魔法を信じていた。その無邪気さが誰かを苦しめているかもしれない、なんて思いもせずに。この無邪気さを部分的にであれ失ったあとに、どういう形でファンたりうるのか。その具体的な姿はまだわからないけれど、ファンとしてもっと成熟しなければならない、ということはわかる。そしてこの成熟のプロセスは、ももクロをつづけていく4人のメンバーとの共同作業になる、ということもわかる。この点は、ちょっとわくわくしている。