ももいろクローバーZ有安杏果の卒業と一つの成長物語の終わり

はじめに

一つ前の記事で、リアルとファンタジーの関係という観点からももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業について書いた。そこでは、ももクロというグループの魔法が、ももクロのメンバーという存在をファンタジーのようなリアルだと信じさせることにあったと述べた。リアルに見えるファンタジーではなく、ファンタジーのようなリアル。この魔法は、すくなくとも5人で織りなすものとしては致命的に失効してしまったけれど、まだその内実についてはじゅうぶんに掘り下げることができていない。この魔法の正体の輪郭をもう少しはっきりとさせることで、21日の有安杏果卒業ライブをもっと正面から迎えられるのではないか。なんとなくそう思えてきたので、駄文をつづける。                          

ファンタジーを通して成長するということ

リアルな自分、というのはどうしようもなく弱いものだ。怠けたり、すぐあきらめたり、簡単に挫折してしまったり。夢=ファンタジーは、そういうリアルで弱い自分が高く飛ぶための、棒高跳びの棒のようなものだ。いまの自分とはちがう何者である自分についての空想。それに近づこうとすることで、リアルな自分が強くなっていく。弱い自分が、そのファンタジーに辿りついていくという物語を生きる主人公になることができる。誰でもがファンタジーとともに生き、物語に支えられることで強くなっていく。剥き出しのまま充分に強い人間なんてそうそういない。

誰でもがファンタジーとともに、物語とともに生きているものだけど、でもある種の人たちはパブリックなファンタジーを生きることになる。たとえばアスリートやアーティストと呼ばれるような人びと。もちろん彼/彼女らもまた、自分自身の夢=ファンタジーをもち、それをテコにして自分を磨いていくということをはじめただろう。しかし同時にそれらのファンタジーは、ある段階からみんなのファンタジーになっていく。メジャーリーグに二刀流で挑んでいこうとする大谷翔平の夢は、もともとは彼一人の夢だったとしても、いまでは多くの野球ファンの夢になっている。そしてきっと、自分の夢がそうして多くの人びとの夢にもなってしまうということは、彼をより強くしていく。もとから強かった存在が、多くの人びとが一緒に見てくれる夢をテコとすることで、自分だけでは飛べなかった高みにまで飛んでいけるようになる。プロのアスリートはくり返し応援してくれるファンへの感謝の言葉を述べるが、それはたんに商業的にプロスポーツを成立させてくれていることに対してだけでなく、彼/彼女をさらに高みにまで引き上げるテコになってくれたことに対しての感謝でもあるだろう。

リアルとファンタジーを同時に見せる存在としてのアイドル

アイドルもまたパブリックなファンタジーとともに生きる存在だ。けれどそのファンタジーはきわめて特殊なかたちで生きられる。アスリートやアーティストの場合、ファンタジーが彼/彼女らを成長させていくのだとしても、ファンが享受するのはその成長の先に生み出される記録や作品といった成果である。しかしアイドルとそのファンの場合はちがう。アイドルファンが享受するのは、アイドルが提示する夢=ファンタジーに向かって成長していくというアイドルの姿そのものだ。とりわけ、90年代末のモーニング娘。以降の、元は素人のリアルな女の子たちが頑張っている姿をドキュメントとして提示していくというアイドルモデルについては明確にそうである。

リアルのドキュメントによって成立するアイドルにおいては、リアルとファンタジーの関係がきわめて独自の姿で立ち現われてくる。アスリートやアーティストの場合、リアルで弱い姿は最終的には姿を消していなくてはならない。そうした弱さが完全に消えたその先に、完成した作品が生み出される。ということはつまり、成長のプロセスそのものが見えなくなっている必要があるということだ。成長が見えるというのはつまり、いまだ不完全であることに他ならないからだ。対して成長そのものをファンに見せていくアイドルというジャンルにおいては、リアルで弱い部分がつねに見えていなければならない。リアルで弱い部分と、それを引き上げていくファンタジーとが「同時に」見えていなければならない。これがリアルなドキュメント性を核とするアイドルにおけるリアルとファンタジーの関係の独自性なのだと思う。

成長の物語としてのももクロの物語

ももいろクローバーZというアイドルは、リアルな弱さとファンタジーが生み出す強さとを「同時に」見せていくという点で、ある種の究極の成功例を示した存在だ、とぼくは考えている。その成功の完璧さは、ファンたちに、リアルとファンタジーの二重性をほとんど気づかなくさせてしまった、という点に表われている。かくいうぼくがそうだ。ぼくはももクロという存在をファンタジーだとは考えていなかった(あえて過去形を使うならば)。そうではなく、ファンタジーのようなリアルな存在だと受けとめていた。これがももクロの唯一無二の魔法だったのだ、と前の記事記した。いまから思えば実際には、ぼくが信じていたのは「ファンタジーのようなリアルな存在」というファンタジーだったのかもしれない。そしてそれは、成長という出来事をめぐるファンタジーでもあった。ここからがこの記事が本当に書きたいことだ。

しばしばももクロのメンバーたちは、自分たちのことをとくに可愛いわけでも才能があるわけでもない普通の女の子である、と述べる。アイドルになりたかったわけでもなく、「たまたま」このメンバーが集められそれがももクロになったのだ、と。実際ももクロのメンバーたちは、もし各自が一人で活動していたら、何一つなしとげないまま一般人に戻っていった可能性がきわめて高いだろう。しかし「たまたま」あるバランス、ある役割分担でメンバーが集められ、そこにももクロという名前が与えられ、独自の戦略や時代背景や時の運もあり、いつしかそこにファンたちの大きな夢=ファンタジーが乗せられていくことになった。その夢には、紅白出場、国立競技場でのライブ、そして笑顔の天下とそれぞれの名前が付けられていく。

しかしももクロの場合、よくよく考えれば本当のファンタジーはそれらの目標そのものではなかった。アイドルにとっては、目標を達成することよりも、目標に向かって頑張り、成長していく姿をファンに見せていくことの方が重要だ。ももクロの本当のファンタジーは、紅白出場や国立競技場、笑顔の天下といった目標を実現していくために頑張り、成長していくももクロという「ファンタジーのようなリアル」な存在そのものだったのだ、とぼくはいまさら気づいた。そしてもう一つ、有安杏果さんの卒業によって、より重大な前提についてまったく意識できていなかったことにも気づかざるをえなかった。それは、ももクロという存在の成長が、同時に各メンバーのリアルな成長と完全に結びついている、という前提である。

ももクロという存在の成長は、同時にももクロメンバーの成長でもある。これはぼくにとってあまりに自明な前提であって、いままで一瞬たりとも疑ったことはなかった。ももクロメンバーにとって、ももクロとは自分を成長させるテコとしての夢=ファンタジーである、ということを信じ切っていた。そしてももクロという存在は、当然ながらももクロファンたちにとっての夢である。だからそこには、ファンたちの夢がももクロを成長させ、それゆえももクロメンバーを成長させていく、という完成された物語が存在するのだ。さらに加えれば、多くのももクロファンたちは、ももクロという夢によって自分自身をより高めることができると考えている。ファンたちにとっても、ももクロは成長のためのテコであるのだ。だからももクロの物語の本当の姿というのは、特定の目標を達成していくためのプロセスではなくて、ももクロという大きな夢によって、メンバーもファンも一緒に成長をつづけていくことができる、という幸福な成長についても物語であったのだ。

有安杏果の卒業と成長のための物語の分岐

今回の有安杏果さんの卒業がファンにとってあまりにもショッキングであったのは、その出来事が、ももクロの物語の核心である成長の物語を根本から揺るがしてしまうものだったからだ、とぼくはいまは考えている。ももクロの活動が体力的にも精神的にもきわめて過酷であるだろうことは、ファンは誰でも知っている。でもその過酷さは、ももクロという夢が自分自身の夢であればきっと乗り越えられるだろう。ももクロという夢が成長のためのテコとなって、さまざまな試練を乗り越えられる自分を作り上げていってくれるだろう。しかし有安さんが正直に告白した苦しさは、すくなくともある時点からは、ももクロという夢が彼女が成長していくためのテコではなくなっていた、ということを示しているのだと思う。だから彼女は、ももクロというテコを使わずに、どんどんと成長をつづけていくももクロの活動について行かなければならなかった。それはきっと苦しい努力だったろうし、どこかで限界が来ることは明らかだ。そして、限界がきたのだ。というよりもずいぶん前から来ていたのだ。

2016年に横浜アリーナで開催された有安さんの最初のソロコンサートは、ももクロの物語を極力排して、有安杏果という個人の物語を紡ごうとするものであった。その後のソロコンサートでももももクロの色は可能な限り排除されていた。これは憶測になってしまうが、ももクロという夢が自分を成長させてくれるテコではなくなってしまった彼女は、自分自身の物語を紡ぎなおす必要があったのではないだろうか。そして今回の卒業は、本当にゼロのところから、あらためて自分自身の物語を立ち上げていこうというそういう決断だったのではないか。そこで立ち上げ直される物語は、ももクロの夢、ももクロファンの夢からは完全に切り離されざるをえない。もちろんももクロでの経験は、彼女を織りなす一部にはなっていくはずだ。それに、あるところまではやはりももクロの夢は有安杏果の夢であり、つまりはももクロファン、有安さんファンの夢でもあって、そこには幸福な成長がたしかに存在したのだと、ぼくは信じている。その上で、彼女は一から物語を、彼女自身の物語として立ち上げなおすのだ。

魔法はつづく

さて、日付も変わって1月21日、幕張メッセで5人最後のライブが開催される。それが終われば4人のももいろクローバーZがはじまる。ももクロ5人の成長の物語は、残念ながら幕を閉じる。一つの魔法はたしかに解けてしまった。しかしももクロをつづけていく4人が、ももクロを自分たちの夢であると宣言しつづけてくれるなら、そのテコをつかってみんなが成長していける唯一無二の魔法として掲げつづけてくれるなら、ファンとしては素直にその魔法にかかりつづけていく、というのが正確な分際であるといまのぼくは思っている。