卒業にいたる決断のドキュメントとしてのももクロ有安杏果「色えんぴつ」(『ココロノオト』)

はじめに

ももいろクローバーZ有安杏果さんが卒業してから3日が経ち、ようやく少し気持ちも落ち着いてきたので、有安さんのソロアルバム『ココロノオト』を改めて聴いた。このアルバムは以前からかなり気に入っていたのでこれまでにも数十回は通して聴いていたはずなのに、彼女の卒業後に聴きなおしたそれはまったく違って聴こえて驚いた。しかしいちばん驚いたのは、本編最後から2番目に収録された「色えんぴつ」という曲。本当は、驚いたなんていう表現では生易しすぎる。聴きながら、戦慄して、あまりに苦しくなってしまって、動悸がしてきた。そしてもういちど曲を聴きなおして、確信した。この曲は、ももクロ卒業にいたる有安さんの苦悩を赤裸々に歌った曲なのだ、と。実をいうと最初は、このことは自分の胸の内だけにしまっておこうと思った。この曲からぼくが読み取った有安さんの思いは、これから4人で歩き出そうとしているももクロにとってけっしてプラスになるものではないからだ

いろいろ悩んだ結果、いまこうして、この「色えんぴつ」という曲について書こうとしている。その理由はただひとつ。少しでも多くの人に「色えんぴつ」を、そして『ココロノオト』というアルバムを聴いてほしい、という思いを抑えられなかったからだ。思い、というよりは責任感といった方がいいかもしれない。というのもいまぼくは、この『ココロノオト』というアルバムが日本のアイドル史(」音楽史」ではなく)*1に残る作品だと確信しているからだ。それはそのクオリティの高さというだけではなく、今回の卒業劇とも直接つながる一種のドキュメントとして、唯一無二の価値をもってしまった、ということだ。

有安杏果「色えんぴつ」の歌詞分析

「色えんぴつ」は有安杏果本人が作詞・作曲をつとめ、編曲は有安さんが指名したYaffleが担当。『ココロノオト』に収録された曲のなかでももっとも最後に制作された作品の一つであり、おそらく、彼女の卒業に向けた内部での話し合いが最終局面に入っている段階で制作が進められたのだろうと想像される。そして以下がこの曲のPVだが、その監督をつとめたのも有安さんが指名した映像作家・外山光男である。

そしてこちらがライブでのパフォーマンスである。

この曲の歌詞を、有安さんが卒業した現在から改めて読み直してみると、ももいろクローバーZというグループのなかでの自分の在り方を悩んでいたであろう有安さんの心情があまりにも直接的に語られているように読めてしまう。すこしずつ見ていってみよう(歌詞の全文はこちらを参照

歌詞の冒頭はこうなっている。

薄っぺらな缶ケース
毎日その中佇んでる
ひっそりすみっこ佇んでる
ここが僕の居場所なんだ

最初に色えんぴつの「缶ケース」が登場するが、これは、5人が5色をそれぞれ担当するももクロというグループのことを指すだろう。そしてそのなかで「ひっそりすみっこ佇んでる」のだという。ももクロのメンバーの立ち位置はいつも決まっており、緑を担当する有安さんは5人の左端を定位置としている。

この曲をぼくはこれまでも繰り返し聴いていたけれど、不思議なことに「色えんぴつ」がももクロのことを指すのだと思ったことは一度もなかった。そして「すみっこ」が「僕の居場所なんだ」という歌詞についても、特定の心情を比喩的に表現しているとしか受け取って来なかった。しかし有安さんが「普通の女の子になりたい」と言ってももクロを卒業した現時点から振り返ると、この歌詞はももクロのなかでの自分のことを歌ったものとしか読めない。そのことに微塵もきづかなかったという事実は、認めなくない現実から目をそらす否認の機微が働いたのだとしか考えられない。

つづく歌詞はこうだ。

誰かに気づかれることもなく
いつだって変わらない
1mmだって変わらない

自分のファンたちにも、そしておそらくほかの4人のメンバーたちにも、自分の本当の心情は気づいてもらえてない。その事実に対する孤独感と、そして「1mmだって変わらない」という閉塞感が、これ以上なくまっすぐ歌われているように見える。

尖ったままの僕の苦しみ
誰かわかってくれるかな
まあるくなって短くなって
ポイって、ほら捨てられるより辛いのさ
尖った先が今日もまた
僕の心に鋭く突き刺さる

ここからはさらに解釈が入ってくる。「尖ったままの僕の苦しみ」とは何を指すだろうか。前回の記事「ももいろクローバーZ有安杏果の卒業と一つの成長物語の終わり」では、おそらくある時点から有安さんにとってももクロが自分を成長させてくれる物語であることをやめ、自分自身の物語を紡いでいくために模索しはじめていったのではないか、という仮説を述べた。「色えんぴつ」のなかの「尖ったままの僕の苦しみ」とは、ももクロの物語から分岐して、自分自身の物語を求め紡いでいってしまう有安さんの自我を指すのではないだろうか。自分の成長とももクロの成長とを同期させることができていれば、そこには過酷さはあったとしても実存的な問題は生じない。でもそうした同期が外れてしまい、けれどもももクロとして日々全力で走りつづけなければならないという状況に身を置かざるをえなくなると、自分自身の物語を求めてしまう自我は、自分を苦しめるものとなってしまう。ももクロとして活動していくためにはそうした自我を抑えていかなければならないのだけど、しかし芽生えはじめた自我を抑えきることは不可能で、結果として「僕の心に鋭く突き刺さる」。

まっさら白い画用紙の上
みんなが色とりどりに
今日もお絵かき楽しそう
誰も僕に気づかないかな

「まっさら白い画用紙」に自由奔放に「色とりどり」に「お絵かき」をしていく「みんな」とは、ももクロの他の4人のメンバーのことだとしか思えない。

色を持たない僕の寂しさ
誰か分かってくれるかな
上塗りされて混ざり合って
ほらって違う色になるより辛いのさ
尖った先が今日もまた
僕の心に鋭く突き刺さる

ここには、「色を持たない僕の寂しさ」という表現がある。有安さんは卒業ライブの際に、しばしばももクロに対して言われる「奇跡の5人」という表現に対して、「私は実はあまりそう思ったことなくて、この4人とモノノフさんとで5人だと思っています」と述べている。他の色えんぴつに対する「色を持たない僕の寂しさ」という表現は、現時点から振り返ると、ファンの間で物議を呼んだ上の発言と完全に呼応する。

そして重要なのはここからの展開だ。「だけど」という逆接を挟んで、色えんぴつのなかでの孤独を歌っていた前半部から、後半部では「君」という言葉が登場してくる。

だけど
君の悲しみの涙を薄め
くすんだ心のひとすじの光になる
僕にだって出来ることあるんだ

ここに出てくる「君」とは何を指しているだろうか?ここで大きなヒントとなるのはPVである。PVの「君の悲しみの涙を薄め」という歌詞に対応する箇所を見ると、そこでは涙が音符に変わっていくのだ。

だから、「悲しみの涙を薄めくすんだ心の一すじの光」にできる「僕にだって出来ること」とは音楽に他ならないだろう。このPVの制作にまつわる裏話をちゃんと確認したわけではないので、すでにどこかで語られているのかもしれないけれど、PVの後半部に登場してくる音符については、有安さんからPV監督の外山氏に明確な指示があったのだろうと想像される。

尖ったままの僕のプライド
君がそっと削ってくれて
まあるくなって短くなって
ハイって、やっと君の役に立てるんだ

前半部では僕の心に突き刺さっていた「僕のプライド」は、「君」に削られることで、やっと「君」の役に立てる。歌詞のこの個所では、「君」の立場が二重になっている。一方では「君」は僕を「削ってくれ」る何かであり、他方「君」は僕が役に立ちたい相手でもある。少しアクロバティックな解釈になるが、ここでは「君」を、「音楽」と「音楽を愛する気持ち」をともに指す言葉である、と解釈したい。ももクロのなかでは自分を傷つけるだけであったプライドは、音楽と出会うことで、まあるくなって役に立てるようになる。それが役に立つ相手は「音楽を愛する気持ち」だ。その気持ちは自分のなかにもあるし、とうぜん他者のなかにもある。音楽を通して、そういう「気持ち」に何かを貢献できることなることで、はじめて自分自身というものを見つけることができる。ちなみにPVの上記の歌詞の箇所では、音符につつまれた「君」もしくは「僕」が映し出される。

尖った先が今日だけは
君の心を優しく映し出す
尖った僕でもいつかきっと
君の優しい心に
彩りつけられるはずだから

そして「色えんぴつ」という楽曲は、色を持たなかった自分も、音楽を通じることによっていつかきっと「彩りつけられるはずだから」と締められる。ももクロファンとしての僕は、やはりどうしても、この「彩り」という言葉に最後の希望を込めたいという思いに駆られる。アイドルとしてではなく、音楽をつくる人として自分の尖った心をまあるくして、いつかきっと、ももクロに楽曲を提供してほしい。もしかしたらそのときはじめて、4人の奇跡は5人の奇跡になるのかもしれない。

アイドル史上の異様な傑作ドキュメントとしての『ココロノオト』

2011年の中野サンプラザでの早見あかりの脱退コンサートは、アイドル史にのこるドキュメントとして広く評価されている。そこでは、10代の少女たちがそれぞれ力強く前に進んでいくために避けることのできなかった別離という出来事が、むき出しの感情からなる一つの作品へと昇華されていた。2018年1月21日に幕張メッセ開催された有安杏果卒業ライブは、明らかに7年前の別離劇を意識した演出となっており、実際さまざまなオマージュがちりばめられていた。おそらく演出側は、早見あかりの脱退劇に匹敵する感情の作品を作り上げることを狙っていただろう。しかし実際には、その目論見は空振りに終わった。それは、感情をぶつけてくるほかのメンバーに対して、有安さんはあくまでも笑顔を崩さず、感情をぶつけ返すということをしなかったからだ。ぼくはその光景を見て、有安さんはこの卒業ライブが行われる以前からすでに卒業してしまっているのだな、と感じた。だから、卒業ライブの場でメンバーとファンとが一緒になって作り上げていく卒業というリアルタイムのドキュメントにはならなかったのだ、と。

しかし卒業ライブがおわり数日たって、有安さんの『ココロノオト』を聴きなおして気づいたのは、卒業までにいたる感情のドキュメントはまさにこのアルバムのなかにあったのだ、ということだった。このアルバムは、音楽的にも高い評価を受け、『ミュージックマガジン』が選ぶ2017年の「Jポップ/歌謡曲 ベスト10」の6位にも選出されている。しかしそういった音楽的評価とは別に、国民的といわれる存在にまでなったアイドルグループのメンバーでありながら、方向性について悩み、最終的には卒業の決断をくだしていくその心のプロセスを赤裸々につづったドキュメントとして、このアルバムはアイドル史あるいは芸能史のなかで唯一無二の存在であるのだ、と思えてならない。早見あかりの脱退劇は青春の残酷さが生んだアイドルドキュメントの傑作だったが、この『ココロノオト』もまた、別種の青春の残酷さが生んだ、まだ名前のつけられていないジャンルの大傑作なのだ。

ココロノオト【通常盤】

ココロノオト【通常盤】

*1:このことは、『ココロノオト』が音楽的にすぐれていないということを意味するわけではない。後述するように、このアルバムは『ミュージックマガジン』が選ぶ2017年の「Jポップ/歌謡曲 ベスト10」の6位に選出されている

 ももいろクローバーZ有安杏果の卒業と一つの成長物語の終わり

はじめに

一つ前の記事で、リアルとファンタジーの関係という観点からももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業について書いた。そこでは、ももクロというグループの魔法が、ももクロのメンバーという存在をファンタジーのようなリアルだと信じさせることにあったと述べた。リアルに見えるファンタジーではなく、ファンタジーのようなリアル。この魔法は、すくなくとも5人で織りなすものとしては致命的に失効してしまったけれど、まだその内実についてはじゅうぶんに掘り下げることができていない。この魔法の正体の輪郭をもう少しはっきりとさせることで、21日の有安杏果卒業ライブをもっと正面から迎えられるのではないか。なんとなくそう思えてきたので、駄文をつづける。                          

ファンタジーを通して成長するということ

リアルな自分、というのはどうしようもなく弱いものだ。怠けたり、すぐあきらめたり、簡単に挫折してしまったり。夢=ファンタジーは、そういうリアルで弱い自分が高く飛ぶための、棒高跳びの棒のようなものだ。いまの自分とはちがう何者である自分についての空想。それに近づこうとすることで、リアルな自分が強くなっていく。弱い自分が、そのファンタジーに辿りついていくという物語を生きる主人公になることができる。誰でもがファンタジーとともに生き、物語に支えられることで強くなっていく。剥き出しのまま充分に強い人間なんてそうそういない。

誰でもがファンタジーとともに、物語とともに生きているものだけど、でもある種の人たちはパブリックなファンタジーを生きることになる。たとえばアスリートやアーティストと呼ばれるような人びと。もちろん彼/彼女らもまた、自分自身の夢=ファンタジーをもち、それをテコにして自分を磨いていくということをはじめただろう。しかし同時にそれらのファンタジーは、ある段階からみんなのファンタジーになっていく。メジャーリーグに二刀流で挑んでいこうとする大谷翔平の夢は、もともとは彼一人の夢だったとしても、いまでは多くの野球ファンの夢になっている。そしてきっと、自分の夢がそうして多くの人びとの夢にもなってしまうということは、彼をより強くしていく。もとから強かった存在が、多くの人びとが一緒に見てくれる夢をテコとすることで、自分だけでは飛べなかった高みにまで飛んでいけるようになる。プロのアスリートはくり返し応援してくれるファンへの感謝の言葉を述べるが、それはたんに商業的にプロスポーツを成立させてくれていることに対してだけでなく、彼/彼女をさらに高みにまで引き上げるテコになってくれたことに対しての感謝でもあるだろう。

リアルとファンタジーを同時に見せる存在としてのアイドル

アイドルもまたパブリックなファンタジーとともに生きる存在だ。けれどそのファンタジーはきわめて特殊なかたちで生きられる。アスリートやアーティストの場合、ファンタジーが彼/彼女らを成長させていくのだとしても、ファンが享受するのはその成長の先に生み出される記録や作品といった成果である。しかしアイドルとそのファンの場合はちがう。アイドルファンが享受するのは、アイドルが提示する夢=ファンタジーに向かって成長していくというアイドルの姿そのものだ。とりわけ、90年代末のモーニング娘。以降の、元は素人のリアルな女の子たちが頑張っている姿をドキュメントとして提示していくというアイドルモデルについては明確にそうである。

リアルのドキュメントによって成立するアイドルにおいては、リアルとファンタジーの関係がきわめて独自の姿で立ち現われてくる。アスリートやアーティストの場合、リアルで弱い姿は最終的には姿を消していなくてはならない。そうした弱さが完全に消えたその先に、完成した作品が生み出される。ということはつまり、成長のプロセスそのものが見えなくなっている必要があるということだ。成長が見えるというのはつまり、いまだ不完全であることに他ならないからだ。対して成長そのものをファンに見せていくアイドルというジャンルにおいては、リアルで弱い部分がつねに見えていなければならない。リアルで弱い部分と、それを引き上げていくファンタジーとが「同時に」見えていなければならない。これがリアルなドキュメント性を核とするアイドルにおけるリアルとファンタジーの関係の独自性なのだと思う。

成長の物語としてのももクロの物語

ももいろクローバーZというアイドルは、リアルな弱さとファンタジーが生み出す強さとを「同時に」見せていくという点で、ある種の究極の成功例を示した存在だ、とぼくは考えている。その成功の完璧さは、ファンたちに、リアルとファンタジーの二重性をほとんど気づかなくさせてしまった、という点に表われている。かくいうぼくがそうだ。ぼくはももクロという存在をファンタジーだとは考えていなかった(あえて過去形を使うならば)。そうではなく、ファンタジーのようなリアルな存在だと受けとめていた。これがももクロの唯一無二の魔法だったのだ、と前の記事記した。いまから思えば実際には、ぼくが信じていたのは「ファンタジーのようなリアルな存在」というファンタジーだったのかもしれない。そしてそれは、成長という出来事をめぐるファンタジーでもあった。ここからがこの記事が本当に書きたいことだ。

しばしばももクロのメンバーたちは、自分たちのことをとくに可愛いわけでも才能があるわけでもない普通の女の子である、と述べる。アイドルになりたかったわけでもなく、「たまたま」このメンバーが集められそれがももクロになったのだ、と。実際ももクロのメンバーたちは、もし各自が一人で活動していたら、何一つなしとげないまま一般人に戻っていった可能性がきわめて高いだろう。しかし「たまたま」あるバランス、ある役割分担でメンバーが集められ、そこにももクロという名前が与えられ、独自の戦略や時代背景や時の運もあり、いつしかそこにファンたちの大きな夢=ファンタジーが乗せられていくことになった。その夢には、紅白出場、国立競技場でのライブ、そして笑顔の天下とそれぞれの名前が付けられていく。

しかしももクロの場合、よくよく考えれば本当のファンタジーはそれらの目標そのものではなかった。アイドルにとっては、目標を達成することよりも、目標に向かって頑張り、成長していく姿をファンに見せていくことの方が重要だ。ももクロの本当のファンタジーは、紅白出場や国立競技場、笑顔の天下といった目標を実現していくために頑張り、成長していくももクロという「ファンタジーのようなリアル」な存在そのものだったのだ、とぼくはいまさら気づいた。そしてもう一つ、有安杏果さんの卒業によって、より重大な前提についてまったく意識できていなかったことにも気づかざるをえなかった。それは、ももクロという存在の成長が、同時に各メンバーのリアルな成長と完全に結びついている、という前提である。

ももクロという存在の成長は、同時にももクロメンバーの成長でもある。これはぼくにとってあまりに自明な前提であって、いままで一瞬たりとも疑ったことはなかった。ももクロメンバーにとって、ももクロとは自分を成長させるテコとしての夢=ファンタジーである、ということを信じ切っていた。そしてももクロという存在は、当然ながらももクロファンたちにとっての夢である。だからそこには、ファンたちの夢がももクロを成長させ、それゆえももクロメンバーを成長させていく、という完成された物語が存在するのだ。さらに加えれば、多くのももクロファンたちは、ももクロという夢によって自分自身をより高めることができると考えている。ファンたちにとっても、ももクロは成長のためのテコであるのだ。だからももクロの物語の本当の姿というのは、特定の目標を達成していくためのプロセスではなくて、ももクロという大きな夢によって、メンバーもファンも一緒に成長をつづけていくことができる、という幸福な成長についても物語であったのだ。

有安杏果の卒業と成長のための物語の分岐

今回の有安杏果さんの卒業がファンにとってあまりにもショッキングであったのは、その出来事が、ももクロの物語の核心である成長の物語を根本から揺るがしてしまうものだったからだ、とぼくはいまは考えている。ももクロの活動が体力的にも精神的にもきわめて過酷であるだろうことは、ファンは誰でも知っている。でもその過酷さは、ももクロという夢が自分自身の夢であればきっと乗り越えられるだろう。ももクロという夢が成長のためのテコとなって、さまざまな試練を乗り越えられる自分を作り上げていってくれるだろう。しかし有安さんが正直に告白した苦しさは、すくなくともある時点からは、ももクロという夢が彼女が成長していくためのテコではなくなっていた、ということを示しているのだと思う。だから彼女は、ももクロというテコを使わずに、どんどんと成長をつづけていくももクロの活動について行かなければならなかった。それはきっと苦しい努力だったろうし、どこかで限界が来ることは明らかだ。そして、限界がきたのだ。というよりもずいぶん前から来ていたのだ。

2016年に横浜アリーナで開催された有安さんの最初のソロコンサートは、ももクロの物語を極力排して、有安杏果という個人の物語を紡ごうとするものであった。その後のソロコンサートでももももクロの色は可能な限り排除されていた。これは憶測になってしまうが、ももクロという夢が自分を成長させてくれるテコではなくなってしまった彼女は、自分自身の物語を紡ぎなおす必要があったのではないだろうか。そして今回の卒業は、本当にゼロのところから、あらためて自分自身の物語を立ち上げていこうというそういう決断だったのではないか。そこで立ち上げ直される物語は、ももクロの夢、ももクロファンの夢からは完全に切り離されざるをえない。もちろんももクロでの経験は、彼女を織りなす一部にはなっていくはずだ。それに、あるところまではやはりももクロの夢は有安杏果の夢であり、つまりはももクロファン、有安さんファンの夢でもあって、そこには幸福な成長がたしかに存在したのだと、ぼくは信じている。その上で、彼女は一から物語を、彼女自身の物語として立ち上げなおすのだ。

魔法はつづく

さて、日付も変わって1月21日、幕張メッセで5人最後のライブが開催される。それが終われば4人のももいろクローバーZがはじまる。ももクロ5人の成長の物語は、残念ながら幕を閉じる。一つの魔法はたしかに解けてしまった。しかしももクロをつづけていく4人が、ももクロを自分たちの夢であると宣言しつづけてくれるなら、そのテコをつかってみんなが成長していける唯一無二の魔法として掲げつづけてくれるなら、ファンとしては素直にその魔法にかかりつづけていく、というのが正確な分際であるといまのぼくは思っている。

 ももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業と残酷さについて

 2018年1月15日、ももいろクローバーZのメンバー有安杏果さんの卒業・引退が発表されました。この記事では、「リアル」と「ファンタジー」という観点から日本のアイドル史ごくごく簡単に(かつ乱暴に)振り返ったうえで、ももクロファンとして、この出来事にどう向かい合っていくか、綴っていきます。なんだかまとまりのないアンバランスな記事になっています。ももクロの話にだけ興味がある人は、ここからお読みください。

80年代アイドル――ファンタジーとしてのファンタジー

 山口百恵の引退と松田聖子のデビューによって幕を開けた80年代のアイドル文化において、アイドルとはフィクションでありファンタジーだった。アイドルはアイドルというファンタジーを演じ、ファンもそれをファンタジーだとある意味割り切って受容し消費していた。そこには「冷めつつノリ、ノリつつ冷める」という80年代的消費文化のエートスが浸透していた、と言えるだろう。アイドルのこのようなありかたを最も体現していたのが松田聖子だった。「松田聖子」というファンタジーは、松田聖子本人というリアルからは切り離されており、だから彼女は結婚しても、子どもを産んでも、離婚しても「松田聖子」というファンタジーを演じつづけることができ、またファンもそういうものとして「松田聖子」を消費していくことができた。リアルとファンタジーを明確に切り分け、その後者のみをファンが消費していく、これが80年代アイドルの基本的な構図だった。

 80年代アイドルのこの基本的な構図は、秋元康プロデュースのおニャン子クラブの登場により、極限まで押し進められることになる。そこでファンタジーを展開する主導権は、ファンタジーを演じきるプロのアイドルではなく、素人の女の子たちのうちに自発的に魅力を発掘し、育てていくファンの側に移っていった。それは一種のゲームのようなもので、その舞台となったのがテレビのバラエティ番組だった。

夕やけニャンニャン」を少しでも見れば分かるが、そこに登場するのはずぶの素人の女の子であり、またその素人性を微塵たりとも隠そうとしない。80年代アイドル論の古典である稲増龍夫の『アイドル工学』に収録されている元おニャン子メンバーのインタビューでも、彼女たちがほんの腰掛けとしてお遊び感覚としてアイドルをやっていたことが臆面もなく語られている。

モーニング娘。――リアリティーショーとアイドル

80年代末から始まるアイドル冬の時代と呼ばれる時期に終わりを告げたのが、モーニング娘。だ。おニャン子クラブと同様、モーニング娘。もテレビのバラエティ番組から登場した存在だ。ただしそこではまったく新しい方法論が持ち込まれている。リアリティーショーという、ドキュメントバラエティの枠組みだ。よく知られているように、モーニング娘。テレビ東京の番組「ASAYAN」でのシャ乱Q女性ボーカルオーディションで落選したメンバーを集めることで作られた。

オーディションへの応募から、選考、メンバーでの合宿、最終選考、そして落選といったプロセス。またオーディションに落ちたメンバーが集められ、CDを5日間で5万枚売ればデビューできる、という難題に向き合っていく姿。そこに映しだされるのは、歌手になりたいという夢を持つリアルな女の子たちの姿だ。そして視聴者は、CDを購入するという具体的な行動によって、テレビに映しだされるリアルな女の子たちのリアルな夢を応援することができる。ここではアイドルにおけるリアルとファンタジーの関係が反転している。リアルな夢が、ファンと一緒に実現されていくというプロセスそのものがファンタジーとなる。ただしそこでのリアルは、あくまでもテレビ画面の向こう側のものだ。その距離がさらに縮められるためには、インターネットの成熟やSNSの登場を待つ必要があった。

AKBからももクロ、そして残酷さについて

 2005年末に始動したAKB48は、マスメディアの外で生み出されたグループだ。おニャン子モーニング娘。も、テレビの中で生まれ、テレビの中で育っていった。対してAKBは、劇場というリアルな空間を拠点とし、またマスメディア上でコミュニケーションを組織するのではなく、インターネットという場でボトムアップでコミュニケーションを組織していった。そして、握手会という接触の圧倒的な「近さ」を武器とした。そこでは、一人一人のアイドルという存在の「リアル」そのものが商品になっていく。そのことをもっともよく象徴するのが、総選挙という残酷劇だ。総選挙という装置は、アイドルたちの「リアル」な感情を引き出すために機能する。ファンたちはその「リアル」を、投票という行為によって自分たちも参加者することで共有する。ここではアイドルファンは、「ファンタジー」ではなく「リアル」を消費していくのであり、だからガチにならざるをえない。

 ももいろクローバーZもまた、大きくはこのパラダイムのなかにいる。ももいろクローバーももいろクローバーZになるそのきっかけとなったメンバー早見あかりの脱退劇は、少女たちの青春の「リアル」を圧倒的な強度で見せつけるドキュメントであった。と同時にももクロという存在の特殊性は、その「リアル」の姿があまりにも美しすぎて、それがそのまま「ファンタジー」へと昇華されてしまっている、というところにある。ももクロについてはしばしばメディアに現れる姿とそれ以外の素の場面とでまったく裏表がない、というエピソードが言及され、ファンたちもそのことを誇りに思っている。実際には、ももクロの運営はすべてをさらけ出しているわけではなく、むしろ見せる部分と見せない部分とをきわめて繊細にコントロールしている。ファンたちが見ることができるのは、ももクロという存在の「ファンタジー」を裏切らない部分だけであるはずなのだ。しかしももクロのファンたちは、その「ファンタジー」をももクロの「リアル」だと感じている。ここに、ももいろクローバーZという存在の魔法があったのだ、と個人的には考えている。ファンタジーをファンタジーとして消費するのでなく、ファンタジーをリアルとして消費するということ。ももクロというのは、ファンタジーのような、でもリアルな存在なのだとみんなが信じていたこと。ここに、ももクロの唯一無二の魔法があったのだ。正直に告白すれば、ぼく自身もその魔法に全面的にかかっていた。こんなファンタジーのような人たちがリアルに存在するのだということに素直に驚き、そしてそのリアルさを完全に信じていた。ぼくはそれをファンタジーだとは思っていなかった。ファンタジーのようなリアルなのだと思っていた。

 今回の有安杏果さんの卒業・引退という出来事は、ファンタジーはファンタジーであってリアルではない、ということをまざまざと見せつける結果となった。すくなくとも5人組のアイドルグループであるももいろクローバーZとしては、魔法は解けてしまった。残念ながら、これは紛れもない事実だと思う。そしてこの事実に向き合った今、ぼくは「過酷さ」と「残酷さ」のちがいということについて考えている。

 ももクロであることは、メンバーにとって過酷であったと思う。これはおそらく多くのファンも同意するだろう。絶えざる試練が与えられ、過密スケジュールのなかでそれらを次々とこなしていく。しかしぼくは、それを残酷だと思ったことはなかった。ももクロという物語が、それらの過酷さをすべて前向きなものに昇華していると、たぶん考えていた。だから、他のアイドルグループに見られるさまざまな残酷さは、ももクロには無縁なのだと信じていた。でも、有安さんが一年以上まえから卒業を決意しており、またそれ以上前から卒業という決意にいたるような苦悩を抱いていたのだとすれば、これは残酷な状況といわざるをえない。他のメンバーも、スタッフも、ファンもみな信じ切っていたももクロという魔法を信じられなくなったまま、笑顔で活動をつづけなければならなかったこと。これは、残酷だ。ぼくがもっともショックを受けていることの一つは、ももクロには無縁だと思っていた残酷さが、ももクロのど真ん中にじつは潜んでいた、という事実かもしれない。そしてそのことを知らずに、結果としてはその残酷さに荷担しながらももクロという魔法を享受していた、という事実。こうしたやましさの感覚は、しばしば否認の身ぶりとなって攻撃性に転化しがちだ。「裏切られた」という思いを抱くのも仕方ないかもしれない。でもぼくとしては、苦しいなかももクロをつづけてくれてありがとうと言いたい。そして本当におつかれさまでした、と。気付いてあげられなくてごめんなさいとも言いたいけれど、そんな言葉は求めていないと思うから。

 ももクロの5人の魔法は解けてしまった。では、これからは4人の魔法がつづいていくのか。それは正直、わからない。これまでの5人の魔法の裏側に、じつはメンバーを苦しめる残酷さが潜んでいたということを知ってしまったいま、それと同じか、また別種の残酷さが、他の4人のメンバーを苦しめているのではないか、やはりどうしても考えてしまう。たんに魔法に甘えるというのは無責任なのではないか。間違いないことは、ももクロファンとして、ぼくたちはさらに一段成熟する必要がある、ということだと思う。ぼくたちは無邪気だった。無邪気に魔法を信じていた。その無邪気さが誰かを苦しめているかもしれない、なんて思いもせずに。この無邪気さを部分的にであれ失ったあとに、どういう形でファンたりうるのか。その具体的な姿はまだわからないけれど、ファンとしてもっと成熟しなければならない、ということはわかる。そしてこの成熟のプロセスは、ももクロをつづけていく4人のメンバーとの共同作業になる、ということもわかる。この点は、ちょっとわくわくしている。

東浩紀『観光客の哲学』と私的な祠

 東浩紀の新刊『観光客の哲学』を読みおわったあとの放心状態から、ようやくぬけだしつつある。はからずも、きわめて個人的な読書体験になってしまった。浜辺に座って、沖を航行するクルーズ船をぼんやり眺めていたと思ったら、その船が急に進路を変えて自分の方に真っ直ぐ向かってきて、波打ち際さえ乗り越えまっすぐ自分の胸のなかに侵入してきてそのまま大きな錨を投げ下ろしてしまった。呪いにも近いその錨の重さを少しでも鎮めるために、祈りのようなブログを書いてみようと思う。

 ぼくにとって『観光客の哲学』という本は、「不気味な」本になってしまった。それはたとえば、自分の影が自分の代わりに社会生活を営んでいることに気づいた不気味さに近い、といえるだろうか。自分のなかの内的な何か、誰も知りえないはずの何かが、外の世界で大手をふるって歩いている。これは不気味な経験だ。もちろん、誰かの本を読んで自分が考えていたことがそこに書かれている、というような経験は誰にとっても覚えがあるだろう。そしてそのこと自体にはなにも不思議なことはない。ひとびとは同じ時代、同じ変化のなかに生きており、そこで数知れない人が数知れないことを考えている。同じようなことを考えている人は必ずいるものだ。とくに思想家や批評家という人は、多くの人が何となく考えていること、萌芽的に感じていることを、誰よりも早く、深く、明晰に言語化する人たちなのだから、それらの人びとの書くものを読んで「この人は自分と同じことを考えている」という印象を受け取るのは、ある意味必然だ。これまでぼくにとって東浩紀という人は、そういった同時代の思想家、批評家のなかでも最も優れた一人、という認識だった。その限りで、不気味さはどこにもない。

 『観光客の哲学』も、まずはそのように読んでいた。リベラリズムと他者性という問題、国家とグローバリズムの問題、欲望と資本主義の問題、これらの普遍的な諸問題を、「観光客」という存在を入り口とし新しい思想的な地図の上に描き出していくその議論の壮大さと大胆さ、そして説得力に、それなりに(というか十分に)興奮して読んでいたはずだった。しかし、最後のドストエフスキーに関する章で、この本全体がすっかり不気味なものとなってしまった。どうしてこんなことが起こりえるのか?

 しかしドストエフスキーの話に入る前に、デリダの話からはじめよう。
 大学の学部生の頃、現代思想で最初に興味をもったのはエマニュエル・レヴィナスの他者論だった。免疫のない青二才だった自分は、他者とは顔であり、その命令は絶対であるとするレヴィナスの議論にすぐにかぶれた。しかしぼくはすぐに疲れてしまう。レヴィナスはいう、「他者の顔を無視することはできない」と。そうかそうかと僕は真に受ける。真に受けたまま街を歩く。すると他者の顔が溢れている。レヴィナスを信じるならば、それらの顔を無視することはできない。でも、その顔ひとつひとつに応答しようとすると、とても身が持たない。実際ぼくは、街を歩きながらいくつもの顔をスルーしていくことになる。自分だけではない、街を歩くあらゆる人びとが、脇を通り過ぎるいくつもの顔を無視している。レヴィナスのあの命令はどこにいったのだ?ぼくは混乱した。混乱しながら考えた。そして自分なりに結論をくだす。レヴィナスの主張に反して、他者の顔を無視することは可能だ。それもきわめて容易に。これはどういうことだ?こうした困惑のなか、ぼくはデリダに出会うことになる。
 デリダは「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』所収)という論文でレヴィナス批判を展開している。自分がこの論文から読み取ったのは、他者は節約(économiser)可能だということだ。他者の他者性は、つねに節約された形でのみ出会われる。そして他者の他者性を節約する手段が、たとえば言語だ。ことばが通じる時点で、その相手は絶対的な他者ではない。そこには「わかる」という可能性があらかじめ書き込まれている。もしことばが通じないとしても、ことばをしゃべっているとわかる時点で、やはりその相手は絶対的な他者ではない。そこにはやはり、「わかる」という可能性が予感される。実際には、他者の節約はもっとシステマティックになされている。たとえば挨拶の文言には定型がある。ぼくたちは、それぞれの他者の絶対的な特異性に対応した、絶対的に特異な挨拶の文言をそのつど発明したりしない。誰に対しても用いる挨拶を、多くの他者に対して反復する。相手もまた定型化された挨拶を返す。こうしたプロトコルが、他者の他者性をあらかじめ節約してくれる。社会あるいは文化によって規定された振る舞いのプロトコルもまた、他者の他者性を節約してくれる。ファッションもそうだ。「ちゃんとした」ファッションは、相手に対して自分が「安全」であることを告げ知らせ、また相手のファッションを通してぼくたちは相手があらかじめ「安全」であることを確認する(もちろんヤバい人もいる。その場合には僕たちそこに溢れる他者性の過剰にあらかじめ警戒する)。ぼくたちは、他者の他者性に出会いすぎないように、さまざまなプロトコルを通して自分を守り、またそのような盾を介して、その盾の向こう側に他者と関係する。
 貨幣もまた、そうしたプロトコルのひとつだ。お金のやりとりは、他者の他者性を節約することを可能とする。お金は、自分の代わりに店員さんとコミュニケーションしてくれる。それでいて、そこにはなんらかの関係も生まれる。東浩紀がいうところの「観光客」が可能となるのも、お金が他者の他者性を節約してくれるからだ。ただし「節約」は「抹消」ではない。お金が媒介することでぼくたちは消費者として他者性と出会うことになるのだけれど、しかしそこでは他者性は完全に抹消されるのではなく、お金によって節約された形で、しかしたしかに出会われる。そこに可能性をみようとするのが『観光客の哲学』の出発点のひとつだろうし、ぼくは基本的に同調する。ぼくの学部生時代の哲学との出会い、他者の節約可能性というその当時自分が大事にしていた考え方が、「観光客」という自分が考えもしなかった切り口によって、新しい哲学を形作っている。もちろんここには不気味なことは何もない。たんに同時代性を感じるだけだ。問題は、ドストエフスキーだ。

 学部時代の卒業論文で、ぼくはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を論じた。かれこれ15年近く前、2003年頃のことだ。だから、東浩紀の『観光客の哲学』の最終章が「ドストエフスキーの最後の主体」と題されているのを目にしたとき、どういう風に論じるのだろうと少しだけつよい興味をもった。それだけであった。しかし実際にその章を読みはじめ、東浩紀ドストエフスキー論が「子どもたち」を主題としているのを知り、どきっとした。ぼくの卒業論文は、『カラマーゾフの兄弟』における「子ども」を主題としていたからだ。そして東浩紀ドストエフスキー論は、『カラマーゾフの兄弟』にみられる、というよりも正確にはその存在しない続編のうちに(亀山郁夫説によって)想像される子どもとの関係性のなかに、ドストエフスキーの最終的な結論を見出すという論旨だった。僕自身は、未完の続編ではなく既存の『カラマーゾフの兄弟』に即する形だったけれども、その結論はほとんど同じで、『カラマーゾフの兄弟』は子どもとのある関係性において、それ以前のドストエフスキーが解決できなかった問題に答えを与えている、というような主張をしたのだった。
 当時の卒業論文のデータがないかパソコンやメールを探してみたけれど、見当たらなかった(当時まだそれほど名前の知られていなかった批評家の杉田俊介さんに読んでもらった感想メールはあったので、杉田さんに尋ねたらデータが見つかるかもしれない)ので、内容は正確には確認できないけれど、たしか、『カラマーゾフの兄弟』のなかで「子ども」と「顔」がどういう役割を果たしているか、ということを分析していったのだった。そして東浩紀の『観光客の哲学』との関係でいうと、東のドストエフスキー論では触れられていないけれど、『カラマーゾフの兄弟』では「顔」ということばは家族的な存在との関係においてのみ表われる。たとえば長老ゾシマは、アリョーシャが自分の息子を思い出せるというようなことを話しながら、「わたしはお前の顔が好きなのだ」というようなことを言っていた(たしか)。あるいは、長老ゾシマはアリョーシャに対し、「お前の顔が、イワンを助けてやれる」(大意)というようなことをいっていた。また、東浩紀亀山郁夫がアリョーシャの擬似的な子どもであるとするコーリャ・クラソートキンに対して、アリョーシャは「顔」ということばを使っていた。それらにおいて共通するのは、ドストエフスキー的な際限のない自己対話(バフチンが「ポリフォニー」として取り出したもの)が停止される瞬間に、この「顔」という形象が登場している、という点だ。相手を無条件的に受け入れる、という出来事が、(子どもの)顔との家族的関係、という形でときおり奇跡のように現われる。この奇跡の瞬間によって構造化されているという点に、『カラマーゾフの兄弟』という作品の独自性がある、ということをたしか論じたような気がする。このときの「子ども」というのは、たんに年齢の問題だけではない。どんな年寄りにだって、生きるということに対するある無垢さ、無邪気さがある。その限りにおいて、誰にだって子ども性はあり、その子ども性を家族という固有の関係性において無条件に抱擁し、受け止める。ここにアリョーシャという人物像の達成がある。この卒業論文を書いたとき、ぼくはそれほど広くドストエフスキー研究を追いかけられていたわけではないけど、こういった「子ども」をめぐる議論を読んだ記憶はなかった。だからこのアリョーシャ像、『カラマーゾフの兄弟』における「子ども」と「顔」と「家族」という問題系は、自分のなかだけの個人的な遺産として、体のなかの内臓のどこからにそっとしまいこんでいる、という類いのものだった。これらの内密なものが、もちろんまったく同じではないけれど、とても偶然とは思えないような近さで他人の本のなかに登場してきたのをみて、言いようのない不気味さを覚えたのだった。
 
 ほとんど排泄物のような文章を書いてきたことで、少し心も落ち着いてきた。これをもって、『観光客の哲学』の不気味さに対する鎮守としよう。そしてその祠を、ブログ記事としてここに残しておく。

ジョバンニは富士ヶ丘高校演劇部の夢を見たか

5月24日の日曜日夜8時頃、ももいろクローバーZ主演の舞台版『幕が上がる』が最後の公演を終えた。2012年出版の平田オリザの原作小説を元に、映画、舞台へと展開されていった『幕が上がる』プロジェクトがひとまずの終わりを迎えたわけだ。このブログでは以前、平田オリザの原作小説については感想を書いたことがあった(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20141214#p1)。そこでは、『幕が上がる』という小説が、青春物語というジャンルのなかでどのような異質性を有しているのかということについて論じた。

映画版『幕が上がる』は、青春物語という点では明らかに小説版とは異質であった。スクリーンに最終的に映し出されたのは、信頼し信奉してもいた吉岡先生の一方的な辞職という喪失に遭遇しながら、それでも力強く前に歩みを進める青春の圧倒的な輝きであった。結果として、少女たちが喪失という出来事そのものにどのように向き合い、どうそれを乗り越えていったのかというプロセスはほとんど描かれることなく、ももクロのメンバー(とりわけリーダーの百田夏菜子)が体現する得体の知れないリアリティが、その瞬間にしか起こりえない何かという青春性を一気に説得しきってしまった。これはおそらくまったく平田オリザ的ではない何事かであり、青春映画がももクロという稀代のアイドルに出会うことで起こりえた、一種のミラクルであっただろう。

さて、では舞台版『幕が上がる』がどうかというと、平田オリザ自身が台本を手がけたこの作品は、きわめて平田オリザ的な作品だというほかない。というよりも、映画版『幕が上がる』を踏まえ、そこで生み出された達成をも飲み込むことで、平田オリザが自身の処女小説『幕が上がる』を取り返したのではないかという印象さえ受ける。舞台版の台本では、映画版の脚本を手がけた喜安浩平が新たに持ち込んだ台詞が、繰り返し捉え返されている。ここに、二人の脚本家同士のある種の緊張感溢れる角逐を見たい欲望にも駆られるが、そこに踏み込むことはしないでおく。いずれにせよ舞台版『幕が上がる』が、まったくもって非オリザ的であった映画版を踏まえたその上で、再びオリザ的な焦点を結んでいるということがここでは重要である。

以上の前置きを踏まえて舞台版『幕が上がる』について書いていこうと思うのだが、ただしこの記事で扱うのは、作品全体の大枠が見定めているテーマ設定についてのみだ。したがって、個々の俳優やその演技についてはほとんど言及しないし、細部の演出についても同様である。全体のテーマ解釈にかかわる演出については多少触れるかもしれないが、しかしこの記事が照準を当てるのは作品の骨組みとなっているもっとも大きな枠組みの部分なので、やはり台本そのものがもっている構造が議論の中心になっていく。
※結局「分析」は途中で頓挫し、最後はカオスなことになっていますが、「わからなさ」の経験のドキュメントとしてカオスのままにしてあります。ご容赦ください。

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■ 青春、祝祭、死
青春とは人生における祝祭だ、と仮に宣言してみる。すると、祝祭には必ず終わりがあるわけで、青春という祝祭の終わりとは、すなわち大人になることだろうという推論がつづく。そしてもう一つ付け加えるならば、祝祭を終わらせるには象徴的な死という犠牲が要求される。この図式の普遍性は、祝祭としての青春を描いた映画作品の数々が証明している。たとえばジョン・トラボルタ主演の『サタデーナイトフィーバー』。ディスコでのフィーバー=祝祭を終わらせたのは、少しばかりやり過ぎて橋から転落した友人の死だった。たとえば相米慎二監督の『台風クラブ』。台風という祝祭の通過後に残されたのは、校舎から転落し頭から地面に刺さった少年の墓標だった。まずはこの基本的な図式を覚えておこう。

翻って『幕が上がる』はどうか。なにせ「都市に祝祭はいらない」と言い放った平田オリザである。オリザが描く青春は祝祭としてのそれではないはずだ、というのが当然の想定であり、事実、小説版ではあまりに淡々とした、ミクロな成長のプロセスが描き出されていったのだった。しかし映画版では少し事情が異なる。それはおそらく、演技経験がほとんどないアイドルももクロが主演したということに由来する。というのも彼女たちにとって、映画撮影は初めて経験する一種の祝祭であり、そしてその出来事の一回性にともなうリアリティが、フィクションの世界のなかにはっきりと刻印されるとともに、そのことが作品そのものの魅力と切り離しえなくなっていたからだ。

で、舞台である。舞台版もまた、小説版が描く日常性からは逸脱しているように見える。ただしそれは演者によるものだけではなく、平田オリザ自身による脚本に内在するものだ。舞台版の脚本には、「震災」という、日常性の対極ともいえる出来事が書き込まれているのだ。そして舞台版で新たに導入されたこの「震災」というテーマと深く結びつく形で、作品全体のテーマ的焦点も大きく変貌を遂げている。その震源地は、劇中劇「銀河鉄道の夜」である。

■ 「銀河鉄道の夜」の変容
小説版さらには映画版でも、「銀河鉄道の夜」は「孤独」をめぐる作品として位置づけられていた。そこではカンパネルラの「死」は、中心的テーマとしての「孤独」の背景に退いていた。しかし舞台版では、「震災」という具体的かつ生々しい出来事と結びつけられることによって、「死」そのものが前景化している。そして、誰もがそう感じるように、「震災」やそれに結びついた「死」は、日常からは最もかけ離れたものであるはずだ。さらに作品内の「銀河鉄道の夜」は、そのテーマ性においてだけでなく、形式面においてもまったく新たな性質を付与されている。舞台版『幕が上がる』では、「銀河鉄道の夜」はたんなる劇中劇というステータスを明らかに超え出て、『幕が上がる』という作品そのものの枠組みと半ば融け合ってしまっているのだ。

舞台版『幕が上がる』には、0場という、芝居が始まる前の時間というものが用意されているのだが、しかし、いつどの瞬間にこの0場から本編に移行したのか、観客には正確にはわからない。そしてここで重要なのは、0場から本編の移行の瞬間には、すでに「銀河鉄道の夜」の台詞が読み上げられているということだ。つまり、『幕が上がる』という劇がまず始まり、そのなかのどこかに劇中劇としての「銀河鉄道の夜」が挿入されるという構成にはなっておらず、『幕が上がる』と「銀河鉄道の夜」は、言ってみれば同時に始まっている。あるいはもしかすると、「銀河鉄道の夜」の台詞の朗読が0場ですでに始まっていることを踏まえるならば、劇中劇たる「銀河鉄道の夜」は、『幕が上がる』本編よりも前に始まっている、とさえ解釈することができるかもしれないのだ。

オープニングだけではない。『幕が上がる』のラストにおいても、「銀河鉄道の夜」の終わりと『幕が上がる』の終わりはほとんど融け合っている。『幕が上がる』の謎をはらんだラストシーンを解釈する際には、この事実を考慮に入れる必要があるだろう。この記事の最後でも、「銀河鉄道の夜」がたんなる劇中劇ではなく、『幕が上がる』という作品全体の枠組みというなっているという事実から部分的に出発した、一つの解釈を提示したいと思う。

■ 『幕が上がる』における「震災」と「死」
舞台版で一気に前景化させられることとなった「死」というテーマ。問題は、そこで「死」として名指されているものの内実だ。『幕が上がる』が扱っているのは、どのようなタイプの「死」であるのか。この点について考えるには、当然ながら、この「死」というテーマを前景化させた中心的な要素である「震災」というものが作品内でどのように位置づけられているかについて考察する必要がある。

劇中で、転校生の中西さんが岩手県出身だということが明らかになる。この事実と、カンパネルラの台詞を言えなくなったという出来事を組み合わせることで必然的に予想されるのは、中西さんには「震災」にまつわる個人的なトラウマがある、という可能性だ。実際劇中でもさおりが、「誰か亡くなったのかな、家族とか」とつぶやいている。しかしこの予想は、カラオケ屋での中西さんの独白によって裏切られることになる。

中西さんが語ったのは、個人的なトラウマとしての身近な誰かの死ではなく、より一般的な生と死の問題だった。「なぜ他の誰かが亡くなり、なぜ自分は生きているのか」という、生きていることの「偶有性」。この偶有性とは、見方を変えれば、「今は死んでしまった誰かが生きていて、代わりに自分が死んでしまっている」というパラレルワールドについての想像力だ。自分は死んでいたかもしれない。でも実際は生きている。そしてそれは「たまたま」である。中西さんにとって「震災」は、個人的なトラウマに結びついたものではなく、この生の「偶有性」を圧倒的なリアリティをもって体験したそのきっかけであった。

この「震災」の位置づけられ方は、平田オリザ作品として『幕が上がる』を捉えるとき大きな意味を持つ。中西さんは「震災」というきっかけによって生の「偶有性」に深く揺さぶられることになったが、しかしこの「偶有性」そのものはけっして特定の瞬間にしか現われない特権的なものではない。日常のあらゆる瞬間において、生はつねにすでに偶有的である。いつ交通事故に遭うか、深刻な病に見舞われるか、そんなことは誰にも分からない。潜在的な死は日常のそこかしこに散らばっているのだけれど、それらは普段は目に見えない、というだけのことなのだ。つまり生の「偶有性」というテーマは、死というものを日常とは明確に区別される非日常の側に置くのではなくて、いわば日常のただなかに位置づける。死は非日常にあるのではなく、日常に対する眼差しの解像度を上げればそこに見つかるものであるのだ。

「震災」という一見すると非日常の極限だと思われる出来事を扱うに際して、平田オリザはそれを日常のただなかに置く。このことによって死は、遠くの特別な出来事としてではなく、誰の傍らにも存在しているものとなる。この選択は間違いなく、『幕が上がる』という作品にとってきわめて必然的な帰結であるだろう。小説版から一貫して、『幕が上がる』は「普通の」高校生を描いてきた。もし中西さんが震災によって特別なトラウマを受けた人物として描かれてしまったら、言葉の選び方が難しいが、彼女は他の高校生とは区別される「特別な」誰かになってしまっただろう。そしてそのときには、『幕が上がる』における「孤独」というテーマの位置取りも根本的に変容してしまう。なぜならそこでは「孤独」は、「特別な」体験によって聖別されてしまった中西さんだけの「孤独」になってしまうからだ。しかし平田オリザはそのような「孤独」を選ばなかった。

■ 誰でもがカンパネルラである
『幕が上がる』がその眼差しを向けるのは、青春を過ごす若者たちの誰もがもつ一般的な「孤独」だ。「孤独」なのは中西さんだけではない。さおりだってユッコだってガルルだって明美ちゃんだって、さらには吉岡先生だって「孤独」なのだ。でも、そのことはみんなが単に「離ればなれ」であることを意味するわけではない。最終的には誰もが孤独であり一つにはなれないけれど、でも「離ればなれ」でもない。それらはいわば寄り添い合う「孤独」であり、そこに青春の力強さとまた同時に覚悟の深さが現われる。

『幕が上がる』で描かれる「死」が「特別な」ものではなく、またそこに結びつく「孤独」もまた一般的な孤独であるということ、この事実は、劇中劇「銀河鉄道の夜」におけるカンパネルラという人物がもつ意味に直結してくる。カンパネルラを演じるのは中西さんだ。では、カンパネルラを演じることができるのは中西さんだけだろうか。中西さんは、カンパネルラを演じるべき特権的な存在だろうか。もしも中西さんがトラウマをもつ存在として描かれており、そしてカンパネルラを演じることでそのトラウマを乗り越える、という物語構成になっていたとしたら、カンパネルラを演じるのは中西さん以外あり得ない。またその延長線上で、カンパネルラと中西さんとのオーバーラップを極限にまで押し進め、カンパネルラと同様、中西さんもまた死んでいたのではないかという解釈の余地も生まれるかもしれない。

しかし実際の『幕が上がる』では、中西さんは特別な存在ではなく「普通の」高校生の一人であり、だから彼女に取り憑く苦悩もまた、彼女一人だけのものではない。このことを具体的な演出としてこれ以上なく明確に示しているのが、「台詞渡し」である。演劇部の練習の一環として行われるこの「台詞渡し」では、役柄に関係なく、誰かの台詞を別の部員が次々と引き継いでいく。そのパフォーマンスはそれそのものとして身体レベルで迫力をもって観客に迫ってくるけれど、それと同時にこの「台詞渡し」は、カンパネルラという存在が作品内で持つ意味を鮮やかに示してくれるという役割も果たしている。

「台詞渡し」では、誰もがすべての役柄を演じていく。これはカンパネルラだけでなく、そのほかのすべての役柄においてそうなのだけれど、そのなかでも、誰でもがカンパネルラを演じることができるということがとりわけ重要だ。というのも、カンパネルラの「死」と「孤独」とが、特定の誰かに結びついたものではなく、みなに等しく結びつけられたものであるということがそこで示されるからだ。そのことを強調するかのように、部長のさおりは中西さん不在の「台詞渡し」の稽古のなかで、「みんな、誰でもカンパネルラになれる」とつぶやいている。

中西さんが「震災」を通して直面した「死」の問題、「自分が死んでいたっておかしくはない」という偶有性の感覚、これは中西さんだけの「孤独」ではない。「みんな、ちょっとだけカンパネルラだもん」というさおりの台詞に対するガルルの「みんなちょっとずつ死んでるってこと?」という反応はおそらく核心を衝いている。『幕が上がる』では「死」は、どこか遠くで起こった非日常の出来事ではなく、誰でもがあらかじめ分け持ってしまっている何事かであるのだ。だから誰もがカンパネルラを演じられるのだ。

ここまで書いたところで、急に何を書いていいのかわからなくなってしまった。いや、実際には色々と書いたのだけれど、なぜかどこにもたどり着かずに結局は消してしまった。キーボードを打つ指が固まったまま何日か経ち、色々と考えた結果、自分はまだ、自分なりのものとしてでさえ舞台版『幕が上がる』の答えにたどり着けていないのだと理解した。だから書けない。当然のことだ。もう少し詳しく書くと、作品内の個々の要素や、それらがどうつながっているかについてはそれなりに整理できたと考えているのだけれど、ではそうやって組み立てられた全体がどこにたどり着いているのか、というところがまだぜんぜんわかっていないのだ。

だから方針を転換して、ひとまとまりの「感想」や「分析」を書くことはここで放棄し、この記事の残りでは、むしろどこで止まってしまったのかというその地点を指し示すことを目指すことにする。もしかしたら誰かが、欠けていた秘密のスコップを持ってきて、その地点で何か宝物を掘り起こしてくれないとも限らない。

■ 『幕が上がる』の基本シンタックスとわけのわからなさ
「死」、「震災」、「カンパネルラ」、これらは作品を構成する基本的要素のうち、とくに重要であるとみなしたものだ。構成要素の整理のつぎに求められるのは、それらの要素の組み立てである。作品全体のシンタックスが、どのように各要素を結び合わせ、一つの物語へと結実されているのかというそのロジックを整理する必要がある。ただしこのシンタックスの核は、それほど複雑なものではない。

物語の中心にあるのは、自分たちのもとを去って行ってしまった吉岡先生の喪失であり、またその喪失をいかにして乗り越えていけるか、というプロセスである。そしてこの「喪失の克服」というプロセスが、「大人になる」という成長のプロセスに重ね合わされる。これが舞台版『幕が上がる』の背骨となっているという点については異論はないだろう。

次に問われるのは、この物語的プロセスを達成するための手段であるが、これも明確だ。すなわち、「銀河鉄道の夜」である。劇中、部員たちはかなりの時間をかけて「銀河鉄道の夜」を演じつづける。この「銀河鉄道の夜」の稽古を通してその解釈を深めていくプロセスは、物語の構造内においては、「喪失の克服」のプロセスであり、「銀河鉄道の夜」を理解する難しさは、「喪失の克服」の難しさそのものである。少なくとも、『幕が上がる』内での物語的機能としてはそのように位置づけられている。

では、「喪失の克服」の手段としての「銀河鉄道の夜」の難しさを乗り越えていくためのポイントはどこか。これも、中西さんという存在によってはっきりと示されている。すなわち、「死」というものとどのように向かい合いうるのか。そしてこの問題設定は、「カンパネルラの父」という存在によってより明確化されている。なぜカンパネルラの父は、息子カンパネルラの死をたった45分という短い時間で受け入れることができたのか。『幕が上がる』ではこの「謎」が、「大人になること」という観点で位置づけられている。さおり自身の言葉を思い起こしておこう。

そう・・・大人になるって、たぶん、そういうことなんだよ・・・それは、いいことばかりじゃないけど、でも、人のために何かをしたりとか、そういうことは大人じゃなきゃできないでしょ

ここに、「銀河鉄道の夜」に向き合うことでさおりたちがたどり着いた新しい地点が示されているはずなのだ。ただ、それが「震災」という要素によってとりわけ前景化された「死」というものとどういう関係にあるのかはけっして明確ではなく、いくらでも解釈が分かれるところだろう。

さて、問題はここからである。上に挙げた台詞を含むたった三つの連続するさおりの台詞によって、吉岡先生の喪失という出来事に対する物語内での解決が一気に果たされる。ガルルとゆっこの相づちの台詞を省いて、上に挙げたものにつづく二つの台詞を以下に引用する。

私もはっきりとは分からない・・・大人になるのがいいことかも分からない・・・でも私たちは、どうしても大人になっていく。ずっと、ここにはいられない。

私は、吉岡先生を許さない。でもね、私は先生を憎まない、恨まない・・・私たちは、こんなところで、止まってるわけにはいかないから、

この前者の台詞は、カンパネルラの父をめぐる「大人になること」の問題系と、吉岡先生の喪失という問題系を接続する役割を果たしていると思われる。それを踏まえた上で吉岡先生の名前が挙げられるわけだけれど、これはいかにも唐突に思えてならない。そしてこの唐突さが、自分にとってのわからなさのほぼすべてであるのではないか、と現時点では考えている。「死」を受け入れること、他人のために何かをすること、大人になること、これらのことが、どのような通路を経て吉岡先生を「許さないけど憎まない、恨まない」という結論につながるのかが、どうしてもわからない。実際には仮説的に考えていることはいくつかあるけれど、それはまだどうしても文章にはならないということがはっきりとわかったので、ここではこの分からない地点を指し示すことにとどめておく。

■ ラストの中西さんと「ありえたかもしれない世界」
現実なのか空想なのか、時間軸がどうなっているのか、誰がどのステータスで登場しているのかがきわめて両義的なラストシーン、これについても、物語そのもののシンタックスがどこに辿り着いているのか理解できていないのだから、確定的なことが言えるはずもない。でもあのラストシーンは、舞台を観終わった後には個人的にとても腑に落ちていたのだった。この記事ではこれ以上ちゃんとしたことを書くのは諦めて、自分が受けた印象だけを備忘録的につづるにとどめておく。

中西さん不在での稽古の後半、舞台が暗くなり上部から星空の照明が降りてくる。このとき僕は、もう現実の部室には帰って来ないで、それまでの時間の流れや脈絡も全部無視して、「銀河鉄道の夜」の世界のまま舞台が終わって欲しいと咄嗟に思った。そして、まさにそのような形で舞台が終わった、と感じた。実際には中西さんが制服姿であったり、さおりが舞台上にいたり、最後に抱きしめ合ったりという場面があったかもしれない。しかし僕は、そこでも現実の世界に戻ってきたという印象は受けなかった。それは同時に、物語の内容という点でも、現実世界に帰ってくる必要はないはずだと考えていたからだと思う。

もしラストで戻ってきたのが現実の中西さんで、彼女が自分のなかの何かを乗り越え部員たちの元に帰ってきたのだとすると、カンパネルラの物語は中西さんだけの物語になってしまう。でもすでに書いてきたように、カンパネルラの物語は同時に全員の物語でなければならない、と僕は感じていた。『幕が上がる』は、中西さん個人が、彼女だけの問題を克服する物語であってはならないのだ。でもあそこで中西さんは、カンパネルラの衣装ではなく制服を着ていた。もしそこで中西さんがカンパネルラの衣装を着ていたのだとすれば、あれは中西さん個人ではなく、同時にみんなでもあるカンパネルラそのものなのだ、という解釈も成立したかもしれない。しかし実際には中西さんは制服を着ている。それでも僕は、あれは自分自身の苦悩を乗り越えた中西さんなのではなく、みんなが程度の差はあれ同じように持っている苦悩を体現している中西さんなのだと思う。これにはあまり論理的な説明を付け加えられないけれど、直感的にそう思うのだ。

そしてそのことと関連して、最後にきわめて乱暴な仮説を置き石のように放り投げて去って行くことにする。自分が『幕が上がる』のラストから受けた印象を事後的に振り返ってみると、僕は舞台版『幕が上がる』をつぎのようなものとして理解したのだという気がしてならない。ラストシーンでの「銀河鉄道の夜」の稽古の中、照明が落とされ空から銀河が降ってくる。そこでゆっこ演じるジョバンニが目を覚ます。しかし実際にはそこでは、ジョバンニが富士ヶ丘高校演劇部の夢から覚めたのではないか。そしてさらに、カンパネルラが制服を着ていること、さおりが舞台上にいること、彼女らと最後に抱き合うこと、これらは、夢の中の登場人物がジョバンニが目覚めた後の世界に現われたということなのではないか。もちろん相当な飛躍であり、このような解釈が正当化される余地が微塵でもあるかどうかさえ疑わしいけれど、自分自身が作品から受けた印象を後から再構成するときに取り出されるのは、なぜかこのような作品であるのだ。

もう少しだけ加えると、劇中で繰り返される「銀河鉄道の夜」の重要な台詞、「私たちは一つですか、それとも離ればなれですか?」は、人と人との関係として理解するのではなく、一つの世界ともう一つのあり得た世界との関係として理解するべきなのではないのか。カンパネルラが死んでしまった世界とカンパネルラが生きていたかもしれない世界、震災が起こった世界と震災が起こらなかった世界、吉岡先生が去って行った世界と吉岡先生と一緒に全国を目指せていたかもしれない世界、これらの世界は「一つですか、それとも離ればなれですか?」。

世界はひとつしかない、ように見える。いや実際そうだろう。でも想像力は、つねに「あり得たかもしれない世界」をこの現実世界のうちに保持する。そしてそのことによって現実を少しばかり膨らませる。この現実は、あり得たかもしれない世界の墓場だ。その墓地の中心に、実際の現実という一本の道が延びている。幾多の墓石に取り囲まれて。さおりたちにとっては、その墓石のひとつに、吉岡先生と一緒に全国を目指していたかもしれない世界の名前が刻まれている。

さおりたちの青春には、ひとつの大きな墓標が立った。吉岡先生とともに歩めたかもしれない青春という墓標が。このありえたかもしれない世界を、さおりたちは最後に抱きしめる。死んでしまったカンパネルラを抱きしめるように。死んで行ってしまった人たち、生きていたかもしれなかった人たち、喪われていった可能性、一緒に進んで行けたかもしれない人々、これらはすべて、「あり得たかもしれない世界」だ。これらのパラレルワールドを、たんに忘れるのでもなく、モニュメントの向こうに遠ざけるのでもなく、そっと抱きしめる。それは、今生きているこのひとつ限りの世界の肯定ということを超えて、潜在的には、あり得たかもしれないすべての世界の肯定だ。

舞台版『幕が上がる』で描かれているのは、一つの望ましい世界を選び取る青春ではない。「銀河鉄道の夜」が、友達の死を受け入れるために宇宙さえも一周してしまう物語なのだとすれば、舞台版『幕が上がる』は、吉岡先生と一種に進んで行けたかもしれない世界の喪失を受け入れるために、すべてのありえた世界を一周してそれらをまるごと肯定する青春の旅路であったのではないか。一つの世界が現実化されるその裏側で、実現したかもしれなかったそして実際には実現しなかったすべての現実を踏破する、裏返された青春のドキュメントであったのではないか。

さおりたちはジョバンニの夢を見、ジョバンニはさおりたちの夢を見る。一つでも離ればなれでもない、しかし互いに引きつけ合う二つのまったく異なる世界。そこに現われる孤独と優しさと力強さに、僕は思わずくしゃみをしたはずなのだ。

 平田オリザ『幕が上がる』――青春物語の向こう側について(ほぼ非ネタバレ)

 現代日本を代表する演劇人平田オリザが執筆した小説『幕が上がる』。高校演劇を題材とした青春物語として2012年に出版されたこの作品が、ももいろクローバーZ主演での映画化によって、再び脚光を浴びている。おそらく一般的にはこの『幕が上がる』は、『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』のようないわゆる「青春モノ」の一つとして認知されるだろう。もちろん、高校演劇に取り組むことを通して成長していく高校生たちを描くこの『幕が上がる』が、「青春モノ」の系譜に属する作品であることは間違いない。しかしこの作品は、あるきわめて巧妙な仕掛けを施すことによって、通常の「青春物語」の枠組みを突き抜けてしまっている。「突き抜ける」という言葉がここで意味しているのは、異端的な変化球が投げられているのではなく、王道を進み尽くしたその果てで、「青春物語」そのものの可能性を次のステージにまで押し上げてしまっている、ということだ。この記事では、この一点について説明していく。

(なおこの記事では、物語を構成する要素の配置というメタなレベルで議論をするので、原則としてはほぼネタバレなしになるはずです。ただし断片的な部分、とくに作品内で大きな役割を果たす宮沢賢治の作品の少し引用がされるので、厳密にネタバレ回避したい方は読まない方がいいかもしれません)

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■ 青春あるいは光の物語
 青春モノには基本的な図式がある。
a) ごく普通の少年少女が主人公となる
b) ぼんやりとした夢や目標があるが、その達成方法がわからない
c) 援助者が現われ、少年少女に方法と技術を授ける
d) 夢や目標に向かって確固として歩み始める、という成長がゴールとなる

しかし上記に挙げられた要素の多くは、プロップの物語論を援用するまでもなく、物語そのものの一般的な構成要素である。そのなかで、青春モノに固有の要素として見いだされるのは、a)の「ごく普通の少年少女が主人公」という点である。そしてここにこそ、青春モノというジャンルが有する普遍性がある。すなわち、ほぼほとんどの人々(大人)がかつては「ごく普通の少年少女」であったという点で、青春モノには特権的な情動喚起力が備わっているのだ。
 とはいえ、誰もが「ごく普通の少年少女」であったのだとしても、青春モノのなかで描かれるような輝かしい努力と友情と達成の経験を誰もが持っている、というわけではない。となると青春モノが有する普遍性には必然的に大きな制限が課せられると思われるかも知れない。つまり、青春時代にそうした輝かしい思い出をもたない人々は、青春モノの物語は「自分の物語」にはなりえず、その分だけ普遍性は損なわれるはずだと。しかし実はここにこそ、青春モノというジャンルが持つ魔法の力がある。たとえ青春モノで描かれるような物語の等価物を自分のなかになかったとしても、いやむしろ持っていなければなお一層、人々は青春モノに感情移入することができるのだ。それはなぜか。
 それは青春モノが、人びとの「自分のものであったかもしれない青春」という想像力に強く働きかけるジャンルであるからだ。この「青春」という言葉を「可能性」という言葉に置き換えてもいいだろう。青春時代に限らず、「あのときもう少し頑張れていれば」、「あのときもしも一緒に頑張ってくれている仲間がいれば」といったくすぶった想いは、どんな人の胸の内にも眠っている。「自分のものであったかもしれない(そして現実には自分が逃してしまった)可能性」は、澱のように時の流れのなかで沈淪していき、一種のメランコリーをともなって人びとの精神を年取らせていく。青春モノは、こうした取り逃された可能性をめぐるメランコリーに対する浄化効果を発揮することで、おっさんおばさんたちの心を揺さぶるのだ。もちろん若者たちには、「自分のものにもできるかもしれない可能性」という形で、カンフル剤のように作用するだろう。
 だから青春モノの主人公たちは、少なくともその導入部分では、脆く危くそして心許なく、ちょっとした巡り合わせや特別な出会いさえなければ、そのままなにも為し遂げずに青春を終えていってしまう、そういう存在として描かれなければならない。どんな困難でも自分で乗り越えていってしまうような主人公であれば、そこに描き出されるのは、「そもそも自分のものではない可能性」でしかない。自分は結局なにも為し遂げられていないのだから。放っておけば自分のように何も為し遂げられなかったかもしれない少年少女たちが、自分とは異なりある巡り合わせと出会いを得ることによって、その危うい精神に潜ませていた可能性を花開かせていく、そのプロセスを目の当たりにすることで、おっさんおばさんたちは、胸の底に沈殿している「自分のものであったかもしれない可能性」を救済することができるのだ。
 これが青春モノというジャンルが一般に持つ、強烈な情動喚起力の根本であると考える。


■ 偶然あるいはつきまとう影
 「青春モノは、花開かなかった可能性を救済してくれる」、このテーゼが仮に正しかったとして、しかし、そこには根本的な批判がつきまとう。すなわち、「それは結局その場限りの癒やしではないのか」、「自分自身の弱さや限界と向き合う代わりに、口当たりのいい物語を代償行為として消費しているだけではないのか」。おそらく、この批判は真実を突いていると思う。まったく人に優しくない批判だし、僕自身は誰かに対してこんなことを絶対に言ったりはしないが(自分に対しては言うかも知れないけど)、真実はそもそも人に優しいものではない。
 この人に優しくない批判の射程は、たんに物語や娯楽の消費という文脈に限定されるものではない。たとえば子供を育てるという行為。自分自身の夢や目標を諦めた大人が、その代わりに、子供の可能性を最大限に生かしてあげるため、労働で自分をすり減らす。こんなことは世の中にありふれている。たとえば僕の父親は明らかにそう考えていた節があり、だから僕はかなり好き勝手に自分のしたいことを追求することができた。かなりの年になるまでそのありがたみにまったく気づかないままその贈り物を享受してきた自分が、父親の選択を否定することはできない。それにそもそも、父親が自分の選択をほんのちょっとでも後悔しているかどうか、僕は知らない。それでも父親の選択に、「逃避」とまではいかなくても、ほんのちょっとでも「目を逸らした」という部分がなかったかどうか、僕は最近とくに考える。そこにはきっと、数日後には自分も父親になっている、という個人的な要因も働いているだろう。
 青春モノは、ごく普通の少年少女たちが、仲間とあるいは指導者との幸運な出会いを通して、成長し、自分の可能性をしっかりと自分の手でつかんでいく光を描く物語だ。しかし本当は、光の裏には影がある。素晴らしい仲間にも理解ある指導者にも出会えず、自分の可能性をどうしたら形にできるのかがわからないまま、結局何事も為し遂げえず、ぼんやりとした後悔と燻りを抱えて大人になっていく多くの「ぼくら」がいる。「自分のものであったかもしれない可能性」をつかむことができた主人公たちのような光の「ぼくら」の裏には、その数十倍、数百倍もの影の「ぼくら」がいる。この光と影を分けるのは、「偶然」でしかない。なぜならどちらも元々は「ごく普通の少年少女」なのだから。実際、高校演劇の世界では、優秀な指導者がくればすぐにその高校は全国クラスにまで引き上げられるという。これはどの部活動においてもある程度はそうだろう。そして「ぼくら」が優秀な指導者と出会うかどうか、これはかなりの部分、偶然の産物だ。つまり、ある「ぼくら」は偶然光をつかみ、別の「ぼくら」は偶然そうはならない。ただそれだけのことなのだ。
 物語はほとんどの場合、偶然を必然であるかのように描く。そして、その偶然が生じなかった場合、という可能性を突き詰めることはしない。光はあたかも必然的にもたらされたかのように見える。そして偶然という名の幸運をつかめなかった影の「ぼくら」は、端的に描かれない。それはこの影の「ぼくら」が、自分の見たくないものを突きつけかねない存在だからだ。青春モノは、輝かしい光によって影を消し去ってしまう。そのことが観る者に癒やしを与えてくれるのだけれど・・・。

 以上は、いわゆる青春モノに関する一般論だ。しかし平田オリザの『幕が上がる』は、実はこの青春モノの一般的な図式には収まらない。というのもそこには、ある巧妙な仕掛けによって、青春の影の部分がしっかりと書き込まれているとともに、この影に対する応答までもが組み込まれているからだ。青春モノがもつポテンシャル、すなわち「自分のものであったかもしれない可能性」をめぐる救済力はそのままに保持しながらも、『幕が上がる』は光によって影を消し去ることをしない。それだけではなく、青春の光と影とがどのように和解されるべきかという、正解ではないにしても、すくなくとも示唆を差し出すところまでは確実に行っている。この点で僕は、『幕が上がる』は青春モノを突き抜けていると評価する。そしてこの「突き抜け」を可能としているのが、演劇という題材である。先取り的に少し踏み込んでおくならば、青春物語という光のなかに、劇中劇という形で宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」(「夜」!)を組み入れることによって、青春という舞台上での光と影の本質的対話とでも呼ぶべきものが、そこでは上演されているのである。


■ 「銀河鉄道の夜」あるいは光としての夜
 部活動を素材とする青春物語のクライマックスを構成するのは、主人公たちが一緒に作り上げた成果が提示される場面である。『ウォーターボーイズ』であればシンクロの演技、『スウィングガールズ』であれば吹奏楽の演奏、そして演劇を素材とする『幕が上がる』では、当然ながら芝居の上演がそれにあたる。ただしこうした青春物語の構造という点で、演劇という素材は、その他の素材とは本質的に異なっている。というのも、演劇はそれ自身が物語であり、それゆえ必然的に演劇部を素材とする青春物語は、物語内物語、あるいは劇中劇という構造をとることになるからだ。通常の青春物語であれば、クライマックスとなる成果の発表場面は、作品全体の物語のなかで、主人公たちが困難に打ち勝ってなにかを為し遂げるという物語の構成要素の一つであるにすぎないのに対し、『幕が上がる』においては、その構成要素そのものが物語を構成することになる。つまり、物語とその一要素という関係だけでなく、そこには、二つの物語同士の関係性、というものがどうしても発生せざるをえないのだ。
 『幕が上がる』のなかで演劇部の部員たちが上演する作品として選んだのは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」である。ここでもちろん問われるべきなのは、『幕が上がる』全体の物語と、賢治の「銀河鉄道の夜」とはどのような関係にあるのか、という点だ。ところで、ここまでに述べてきた青春モノの基本構成、すなわち「ごく普通の少年少女」が、ちょっとした巡り合わせと出会いによって、努力し成長していくとによって可能性をつかんでいく、という光の物語と、そこで排除される影という構成を思い起こすと、「銀河鉄道の夜」の物語が、青春モノの図式をいわば裏返したものであることに気づくことができる。というのも「銀河鉄道の夜」が描くのはカンパネルラという少年の死、すなわち、前途に広がるはずの無限の可能性の消滅という事態だからだ。カンパネルラだけではない。主人公のジョバンニだって、家が貧しいせいで働きながら学校に通わなければならず、授業中も眠たく終業後も遊びに行くことができない。つまりジョバンニもまた、生活によってその可能性を早々にすり減らし始めてしまっている少年であるのだ。
 少年という、可能性の塊であるはずの存在が、すでに可能性を失ってしまった、あるいは失い始めてしまっている。このようなきわめて暗鬱な背景を従えながら、しかし周知のように、賢治が描き出す「銀河鉄道」の世界は極めて美しい。そのコントラストが読む者の胸を打つのだけれど、そこに観られる美しさの正体を、光を描く青春物語との関係性という観点から捉え直すとき、そこには一つの仮説が浮かび上がってくる。それは、銀河鉄道の美しさとは、失われてしまった可能性そのものの美しさである、というものだ。
 たとえば。銀河鉄道に乗るジョバンニとカンパネルラと、鳥の狩りを生業とする赤ひげの人との間でつぎのようなやりとりがある。

「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまでも行きますぜ。

また、『幕が上がる』での劇中劇でも重要な役割を果たす次の箇所。車掌さんがジョバンニとカンパネルラの検札にやってくる場面。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえも行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまでも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。

ここで描かれているのは、いうまでもなく「可能性」である。しかしそれはどんな可能性か。カンパネルラは、このときにはすでに川で溺れてしまっている。すこしこじつけかもしれないけれど、こうは考えられないか。死の直前には、人生の記憶が走馬燈のようにめぐるという。ではまだそれほどの人生の蓄積のない子供の場合にはどうなるのか。そのときには、過去を呼び戻す走馬燈の代わりに、「この先に生きることができたかもしれなかった未来の可能性」を見るのではないか。少年は、まだ何にだってなることができる。その「何にだって」が逆回しの走馬燈のように眼前を通り過ぎていく、これが銀河鉄道の光景なのではないか。青春モノが過去の「自分が生きることのできなかった可能性」との関係を作るのであるとしたら、「銀河鉄道の夜」は、少年から見た将来の「自分が生きることができなくなった可能性」を描き出しているのではないか。
 これはもちろんかなり自由な仮説だけれど、しかし平田オリザ自身が『幕が上がる』のなかで、この「可能性」をめぐる問題に意識的であったことは間違いない。オリザは『幕が上がる』の後半のきわめて重要な場面で、宮沢賢治の「告別」という詩をを登場させている。

この詩の前半部分を引用する。

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管くわんとをとった
けれどもちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
(全文はhttp://why.kenji.ne.jp/haruto2/384kokubetu.html:こちらを参照)

ここには、少年(少女)が手にしている無限の可能性に対する希望と、その可能性が途上で萎んでいってしまうことへの圧倒的な恐怖とがはっきりと表現されている。つまりオリザは、青春にともなう希望やその可能性を青春物語として描き出す一方で、その裏側にある、可能性の摩耗という影の側面にもはっきりと意識を向けている。そして宮沢賢治という名は、青春の光からその影の側面へと通り抜けるための、秘密の通路となっている、というのがここでの仮説である。
 青春モノというジャンルに身を置きつつ演劇という素材を選ぶことで、そこに劇中劇という構造を導入する。そしてその劇中劇として宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を選ぶことで、たんに光が影を消し去ってしまう青春物語という構図ではなく、青春という舞台において光と影とが正面から対峙するという構図をオリザは創り出した、これがこの記事の中心仮説である。
 

■ 光と影の和解あるいは止揚された青春
 光と影との対峙、しかしこれはあくまでも物語構成の整理によって導かれる仮説であり、ここにはまだ、ある重要な点が欠けている。それは、この光と影との対峙、実現した可能性と自分のものにはならなかった可能性との対峙という構図を創り出した上で、最終的にその対峙をどのような出口へと導いているのか、という物語的解決についての考察である。ただしあらかじめ述べておくと、この記事ではこの点については詳述しない。というのもこの説明を行うためには、たんに物語の構造を整理するだけではなく、その内容や細部に踏み込まなければならなくなるからだ。この点については、2月末に映画公開がなされたあと、ネタバレの心配がなくなった時点でもしかしたら書くかもしれない。
 とはいえこれだけでは締まらないので、上記の物語的解決の問題が、作品内のどこの部分に集約されるはずであるのかという物語構造に関する基本的な指摘と、また論証を省略した結論だけを最後に記すことにする。
 『幕が上がる』のクライマックスは、劇中劇としての「銀河鉄道の夜」の上演場面である。ただしこの物語における役割として、劇中劇の上演という要素は、たんにうまく演技をできたかどうかというパラメータで価値が計られるものではない。というのも、『幕が上がる』の主人公である演劇部の部長は演出家であり、その成果は、部員たちによる演技だけではなく、この部長による演出、すなわち「銀河鉄道の夜」という作品をどう解釈したのかという点によって、成否が分かたれるからだ。すなわちこの劇中劇の上演の部分は、『幕が上がる』という光の青春物語が、「銀河鉄道の夜」という影の物語をどう解釈するのかが現われる部分であり、ここにこそ、オリザが仕組んだ青春という舞台における光と影との対峙の結果が現われるのだ。
 その対峙の結果については各自に確認、解釈をゆだねるとして、最後に、最終的な結論だけを述べる。『幕が上がる』は光の物語というしての青春モノというジャンルに、その影と正面から対峙させるという新たな課題を持ち込んだ。そしてその試みは成功している、と僕は考える。この点において、『幕が上がる』は青春モノを明らかに次のステージに進め、より根源的な問い、「可能性」というものに対するより根源的な対峙の仕方を提示している。ぜひ、一人でも多くの人にこのマスターピースを読んでいただきたいと考える所以である。


■ 補遺
 ちなみにこの『幕が上がる』についての論は、その全体を通じて、実はももクロ論とも読み替えうると個人的に考えている。『幕が上がる』をももクロ主演で映画化することのインパクトはそれゆえ圧倒的であるはずだ、という主張を本当の結語にしてこの記事を閉じる。

幕が上がる (講談社文庫)

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 電王戦第一戦感想―「強さ」とは何か

昨晩の電王戦第一戦、菅井五段vs習甦の対局結果は衝撃的でした。

習甦はコンピュータ同士での予選では第五位、優勝したponanzaとはかなりの差があったというのは大方の共通認識だったと思います。また今回のレギュレーションでは、出場ソフトは大会時点で開発を止め、プログラムを対戦棋士に提供すると定められています。つまり棋士は、十分に対局相手の研究を積んだ上で本番に臨むことが出来るわけです。さらに今回は対局時に使用されるハードも固定されており、クラスタの暴力も発動できないようになっており、総じて、前回に比べてかなり棋士に有利な条件になっています。菅井五段は若手とはいえ、誰もが認める実力者であり、今回の出場ソフトの5位である習甦とでは、圧倒的に菅井五段が有利だろうというのが下馬評でした。ところが・・・。

対局結果は既報の通り習甦の勝利だったわけですが、問題はその内容です。僕の棋力ではもちろん細かいところはわかりませんが、習甦が横綱相撲とでも言える差し回して菅井五段を圧倒した、というのは衆目一致するところだと思います。ほとんど手合い違いと言えるほどの力の差を感じてしまった人も多かったのではないでしょうか。個人的には、トップのプロ棋士がどう頑張ってもコンピュータに手も足も出なくなる、という未来がもうそこまで来ていることを、深い絶望とともに実感しました。と同時に、将棋の「強さ」とはいったいなんなのか、という根本のところに思いを致さざるをえませんでした。それは同時に、プロの将棋の魅力とはいったい何なのか、という問いともつながるものです。

単純な「強さ」、つまり将棋に勝つか負けるかという「強さ」でいえば、コンピュータが人間を凌駕する日も遠くないでしょう。そのとき、プロ将棋の魅力は消えてしまうのか。もし単純な「強さ」だけがプロ将棋の魅力の指標であるとするならば、コンピュータに完全敗北したとき、プロ将棋の魅力もまた消滅してしまうでしょう。しかし僕は、たとえ「強さ」という点でコンピュータに凌駕されたとしても、プロ棋士の魅力がその時点で消えてしまうわけではない、と確信しています。それはなぜなのか。昨晩の対局の最期の場面、すでに結果は見えており、あとはどのタイミングで投了の言葉を発するのかだけを誰もが見守っている場面で、将棋の内容をゆっくり反芻するように、苦悩の表情を浮かべ何回もお茶に口をつける菅井五段の姿を見つめながら、プロ将棋の魅力とはなんなのかを僕は考えつづけていました。

そのとき僕がふと思い出したのは、三浦弘行九段でした。かつて、将棋と時間―将棋に見る有限性の考察という記事の中で、名人戦での三浦九段を題材として、将棋における時間と有限性の問題について書いたことがありました。そこでは、有限な時間のなかでの「不安」との戦いを通してそれぞれの一手を紡いでいく姿のなかに、棋士という存在の魅力を見て取ったのでした。奇しくも、前回の電王戦の最終局では、この三浦九段がGPSに苦杯をなめました。実はそのときすでに、棋士が対局の際に向かい合う「不安」という問題を、コンピュータの将棋との対比においてぼんやりと考えていたのですが、そのことを不意に思い出したのでした。

一つ一つの手を、将棋というゲームを進展されるたんなる出力として捉えるのならば、その出力者が人間であるかコンピュータであるかはどうでもいいことです。そこで問われるのは、それぞれの一手についての評価値だけであり、優れた評価値を得ることのできる出力者に優位が与えられる、ただそれだけのことです。しかし、人間とコンピュータは、それぞれまったく異なるプロセスを経て一つの手を導き出し、そしてこの差異は、将棋を観る別の人間にとって大きな意味を持っています。

人間は、将棋に限らず、強くなるということがとても難しいことであるということを知っています。そして強くなるということは、すなわち弱さを克服することであり、しかも弱さをたんに葬り去ってしまうのではなく、弱さとうまくつきあっていくことであることも知っています。つまり、強さとは弱さを持たないことではなく、弱さとうまく折り合いをつけながら、そのつどその弱さを克服していく絶えざるプロセスであるわけです。将棋というゲームは、とりわけその時間制限によって、「強くなる」ということに伴うこの普遍的なプロセスを、いわば拡大して見せてしまうという点で、きわめて残酷です。一局の将棋に勝つためには、集中力を持続させ、苦しくなっても踏みとどまり、勝負所で踏み込み、最後の時間が切迫したなかで正しい一手を発見しなければなりません。そのどこかで弱さに負けてしまえば、将棋にも負けてしまいます。プロ棋士の将棋はしばしば、最後まで弱さに負けなかった者こそが一番強いのだ、ということを教えてくれるように思えます。

将棋を観るぼくたち人間は、プロ棋士の「強さ」が、たんに優秀な出力=一手を導き出す強さなのではなく、その一手を導き出すために、数え切れない「弱さ」を克服してきたことの「強さ」であることを知っています。つまりぼくたち人間は、「強さ」をそれそのものとしてだけで観るのではなく、その「強さ」を獲得するために踏破された「弱さ」の踏破距離として計っているのだと思います。だからこそ、時間のない切迫したなかで、苦悶の表情を浮かべながら指された素晴らしい一手に、ぼくらの心は震えるのです。その一手を導き出すために克服された「弱さ」の総量を直感的に感得して、自己を極限にまで高める人間の偉大さに敬意を払い、素直に頭を垂れるのです。

そしてまたぼくたち人間は、敗者の姿にもまた、「弱さ」との苦闘の跡をしっかりと読み取って突き動かされるのです。習蘇への敗北という現実を前にして、その事実をかみしめるように受け入れようとしてしていく菅井五段の姿に、ぼくたちははっきりと「強さ」を感じ取ります。あの地点にたどり着くまでに、どれほどの「弱さ」を乗り越えてきたのか、にもかかわらず届かなかったという現実に、どのような思いで向き合おうとしているのか、敗北を受け入れた上でどのように次の一歩を歩み出そうとしているのか、そういったすべてが、まるでテレパシーのように伝わってくるのです。もちろんそれらの感慨は、観る人間側にもとから備わっている経験値のストックが、菅井五段の姿をいわばスクリーンとして鮮やかに映し出されたものであるでしょう。だからおそらく幼い子供とさまざまな苦悩を経験してきた大人とでは、そのスクリーンのうちに見いだすものはまったく異なるでしょう。しかしそれでいいのです。プロ棋士という戦う存在は、それぞれの人々が日々のなかで展開している戦いとそのプロセスとを、いわば偉大化してくれるのです。そして重要なのは、その偉大化の作用は、コンピュータではなく人間にしか果たせない、ということです。なぜならコンピュータの強さは、人間的な「弱さ」の克服というプロセスを経ずに獲得されているものであり、それゆえその強さはそれを観る人間のスクリーンとはなり得ないからです。

電王戦の第一局は、逆説的ではありますが、人間が敗北することによって、そもそも人間の「強さ」とは何なのかということを振り返らせてくれました。そして僕の心は、投了をつげる直前の苦悶する菅井五段の姿に、いまだ打ち震えています。敗北してしまった菅井五段にこのように言うのはおかしいけれど、本当に素晴らしいものを見せてもらったと感謝しています。そして、人間の将棋というものの魅力をさらに深く感じることが出来ました。このあとの電王戦の結果については、正直に言って、人間の立場からすると悲観的にならざるをえないという気がしますが、それでも素晴らしい「何か」を観ることができるはずだという一点においては、きわめて楽観的に構えています。