スティグレールから見たデリダ

スティグレールの来日が数日後に迫っているということと、ほかにもちょっときっかけがあって、ここ数日、スティグレールについてあらためてつらつらと考えていたので、そのことについて書こうと思います。内容は、スティグレールが提示している考えから遡行して、彼の師匠であるデリダを位置づけなおす、というものになるかと思います。結論を先取りして書きますが、そのパースペクティブではデリダは、二つの思想系列の交点に位置づけられることになります。すなわち、

a)ダーウィンの進化論からマルクス唯物論へとつながる系譜
b)プラトンからはじまりカント、フッサールハイデガーと連なる超越論的哲学の系列

この後者の超越論的哲学の系列については、あらためて指摘するまでもないかと思います。デリダフッサールを批判することから自身の哲学を開始させたわけですし、彼の「脱構築」もハイデガーによる西洋形而上学の破壊を別の観点からやり直す試みでした。デリダはこの超越論的哲学の批判を、音声/ロゴス中心主義の批判として進めていったのでした。

問題は前者です。ダーウィンからマルクスへとつながっていく進化論の系譜にデリダを位置づける、という見方はそれほどメジャーではないと思います。デリダ自身の議論をみても、この側面については、最初期の『グラマトロジーについて』や『哲学の余白』におさめられた「差延」論文などで触れられつつも、正面から展開されているわけではありません。私見では、スティグレールによるデリダ再解釈は、デリダのこの側面を全面的に展開することで、デリダの議論の総体を位置づけなおす試みだと言えると思います。

スティグレールによるデリダ解釈に向けられる批判の代表的なものは、たとえばGeoffrey Benningtonが提起している*1スティグレールデリダ差延や技術性の概念を実証主義化してしまっている、という主張です。つまり、デリダが扱っているのは原理的にポジティブには言及することができない対象であるのに、スティグレールは技術という名のもとに、デリダの議論をポジティブに言及できる対象の次元へと切り下げてしまっている、という批判です。

この批判が批判としてどれだけ正当であるのか、という点はひとまず置くとしても、そこで指摘されている点は、確かにデリダスティグレールとの中心的な相違を構成するものであると言えます。そして僕の見るところでは、スティグレールはこの相違をきわめて意識的に展開させています。スティグレール側に立って述べるならば、むしろ批判されるべきであるのは、デリダが決して手放さなかった過剰なネガティブ性である、ということになるような気がします。しかしこのあたりの当否もさしあたりはやり過ごしておくことにしましょう。

いずれにせよデリダは、初期の議論では一定程度のポジティブ性(実証性)を有する差延の進化論のパースペクティブを示していたにもかかわらず(『グラマトロジー』には「実証科学としてのグラマトロジー」という節もあります)、この側面はほとんど展開されることはありませんでした。スティグレールは後成系統発生という概念によって、技術を通して保存、伝達、差異化していく記憶の層に焦点を当てることで、デリダによる痕跡や差延の概念をいわば積極的に「実証主義化」したと言えるかと思います。

このスティグレールの見取り図のなかにデリダを置くと、デリダの議論、とりわけその音声/ロゴス中心主義の批判が根本から相対化されることになります。この音声/ロゴス中心主義というものをめぐるデリダスティグレールの態度をそれぞれ要約すると以下のようになります。

デリダ:音声/ロゴスにはつねにすでにエクリチュールが介入しており、それゆえ純粋な音声/ロゴスは存在しない。
スティグレール:音声/ロゴスは、特定の文字形態が生み出した伝達形式に伴う理念的対象である。

この二つの主張は互いに補完し合うものですが、しかし命題の形式が正反対になっています。さらに分かりやすく言い換えると次のようになります。

デリダ:音声/ロゴスはエクリチュールの事後的な効果でしかない。
スティグレール:音声/ロゴスは特定のエクリチュールの効果である。

この両者のうち、スティグレールによる命題の形式は、必然的に、「では効果としての音声/ロゴスを生み出すのはどのようなエクリチュールであるのか」、という実証的な問いを導き出します。そこでスティグレールは、アルファベットを「対象が正確に再現されているという信憑を生み出す文字」正定立的文字として位置づけることで、音声/ロゴスをその正定立的文字の効果として歴史的に捉え直すのです。

このことから、たとえばエリック・ハヴロックが『プラトン序説』で行っていたのといくぶん近い発想で、プラトンイデア論が、正定立的な文字としてのアルファベットから立ちあがってきたものとして理解されることになります。この点でのスティグレールとハヴロックとの本質的な違いは、ハヴロックが筆記によって形式化された新たなコミュニケーション形態についてのみ語っているのに対して、スティグレールはアルファベットを正定立的な文字として位置づけることで、「対象そのものという理念的対象」なるものの構成を、文字の正定立的な性格から導き出す、ということをしている点です。

このことによって、西洋哲学を駆動してきた「差異」、つまり現実のものと理念的なものとの差異が、支配的な文字の性格から捉え直されることになります。そこでは文字は一種の(そして特定の)スクリーンであり、「現実には存在しないもの」あるいは「ヴァーチャルにしか存在しないもの」が、意識の働きによってそのスクリーンに投影されることで差異が生じる、とされます。

スティグレールはこの投影をめぐる動向を、ラカンをきわめて自由に引き合いに出して「鏡像段階の歴史」として捉えています。ラカンは主体の形成を最初に導く想像的な対象を鏡に映る自身の姿であるとしましたが、スティグレールはその鏡像段階論をメディア論的に読み変え、歴史的に出現してきたさまざまな書き込みの媒体は、それぞれの時代における鏡(像)を構成するものであると主張します。

このように見ていくと、スティグレールの議論では、ひとまずは進化論的なパースペクティブ(後成系統発生)が最終的な枠組みとなっており、その技術発展のプロセスのある一時期にアルファベットが生まれ、その圏域のなかで西洋形而上学が発達していった、という見え方になります。あくまでも西洋形而上学を内側から「内破」するという身振りをとっていたデリダに対し、スティグレールはその外側へときわめて大胆に飛び出すことによって、超越論的哲学を人類史的な見取り図のなかに位置づけなおす、ということをしているわけです。

ただしもちろん事情はそこまで単純ではなりません。様々なところで論じられてきたように、歴史的な叙述形式そのものがアルファベットという特定の文字形態に規定されているわけですから、実際には進化論の系統と超越論的哲学の系統は、一方を他方が包摂するという関係ではなく、ここではとても詳らかにはできないような、きわめて込み入った循環関係にあるわけです。デリダの一種の原理主義が一定の根拠をもつのも、おそらくこの循環系を徹底的に追求しているからなのだと思います。しかしスティグレールのように、仮にでも外側へと飛び出してみるという身振りを取ることで、こういった循環の図式が明確になる、という利点もやはり捨てがたいかと思います。

なんだか書きたいことがもっとあったような気がするのですが、寒気がするのでこの辺でやめておきます。最後にまとめ。

1)スティグレールは後成系統発生という概念を提起することで、西洋形而上学(あるいはその内部で批判を行うデリダ)を進化論的な見取り図のなかに位置づけるよ。
2)その際、アルファベットを正定立的な文字として捉え直すことで、西洋形而上学が特定の文字の効果として位置づけられるよ。
3)形而上学が扱う理念的な対象は、スクリーンとしての文字に投影される対象として理解されるよ。
4)でも色々考えるよ、やっぱり難しいよ。

こんな感じです。

*1:Geoffrey Bennington, "Emergencies," Oxford Literary Review 18 (1996): 175–216. Collected in Interrupting Derrida (New York: Routledge, 2000): 162–79.