トランプ現象と表現の自由に潜む脆弱性

誰でもが容易に、そして広範囲に発信できるようになった。この現代の技術的条件は、表現の自由という考え方に本質的な変化をもたらしているのじゃないか。この文章は、この変化の可能性についての簡単な覚書です。きっかけとなったのは、アメリカ大統領のツイッターアカウントが永久凍結されたこと。この出来事をめぐってさまざまな議論が展開されているのを見て、すべての議論の前提となるとても大きな問題が潜んでいるんじゃないかと思うようになったのでした。

 

考察の出発点となるのは、ごくごくシンプルな事実です。それは、印刷技術の時代に生まれた表現の自由というコンセプトのもとで想定されていた自由というものが、現代から見るときわめて制約されたものであったということ。だってツイッターフェイスブックもインスタグラムもないんだから、なにを表現してもいいよと言われたからといって、実際に行使できる影響力には限りがある。自由を与えられたからといって、できることはごくわずかだ。

 

整理のために、表現の自由にかかわる二つの側面を区別します。一つは表現すること、もう一つは表現を流通させること。なにかを表現することと、それを広範に流通させる手段をもっていることは、本来は別です。インターネットの登場以前、ほとんどすべての人は、なにかを自由に表現できたとしても、それを広範に流通させる手段は持っていませんでした。そのような手段は、出版社であったり新聞社であったり放送局であったりに占有されていたわけです。なので、流通のための手段をもたない個人がなにを表現しようと、社会的影響力には限りがあります。できることといえば、ゲリラ的な出版や放送、または公共の場でのデモくらいでしょうか。

 

現代では、インターネットおよび発信のためのさまざまなプラットフォームによって、個人は表現するだけでなくそれらを広く流通させる手段を手にしています。これは、これまで人類が経験したことのない事態です。そしてこのことが、表現の自由というコンセプトの内実そのものを本質的に変容させてしまっているのではないか。というよりも、この状況に至ってはじめて、人類は表現の自由というコンセプトがもつ本当の意味(およびその困難)に直面しているのではないか、というのがこの覚書の骨子です。

 

表現の自由というコンセプトは、付随してさまざまな課題を提起します。反社会的表現、誹謗中傷、性的表現、個人情報の暴露は許容されるかなど。こうした課題に対して、そのつどさまざまな対応がなされるとともに、そうした対応の可能性を内包させる形で表現の自由のコンセプトも成長してきたのだと思います。ただし、その出発点にあったのは、技術的条件によって制約された表現の自由でした。自由自体がもともと技術によって大きく制約されていたのだから、その自由を認めることによって生じる副作用にも限度があったわけです。しかし無制約の表現の自由が事実上可能になった時、それまでには経験されたことのない重大な副作用にわたしたちは直面することとなりました。人類は、表現の自由というコンセプトにいまはじめて本当に出会い始めているのではないでしょうか。

 

トランプ現象は、いかに人々が陰謀論に容易に感染しうるかをこれ以上なくはっきりと証明しています。それを可能にしているのが現代のメディア環境であるのは間違いないでしょう。陰謀論は大昔から存在します。しかしそれらは占有された情報流通の回路の外で細々と展開されていたはずです。いまわたしたちが目撃しているのは、全面的な表現の自由陰謀論が結びついたときにどのようなことが起こりうるのか、という壮大な社会実験のようにも思えます。そこで生じているのは、個別のフェイクや暴力扇動というレベルをはるかに超えた、もう一つの現実の構成です。フェイクや暴力の扇動(さらに実際の暴力)も、すべてこの構成されたもう一つの現実から派生してきたものです。

 

マスメディアによって構造化されていた世界像が動揺し、草の根の表現の自由がもう一つの現実を構成していってしまう。そこでは、共通の足場となる事実の認定そのものが困難となります。現代のメディア環境によって具体化された全面的な表現の自由には、このような事態を生み出してしまう根本的な脆弱性が潜んでいたわけです。いま起こりつつあるトランプ現象は、どこまで意図されたものなのかは別として、この脆弱性が徹底的に攻撃されたその結果であると感じます。

 

現在、Twitterフェイスブックなどのプラットフォーマーによる表現規制をめぐっての議論が活発に展開されていますが、もっとも本質的な問題は、全面的な表現の自由がもつ根本的な脆弱性なのじゃないかと考えます。この脆弱性に対して、プラットフォーマーのレベルで当てられるパッチ、国家のレベルで当てられるパッチをいろいろと検討することはできると思います。しかし僕が個人的に恐れているのは、どのパッチも不十分であり、全面的な表現の自由に潜む脆弱性を克服できない、という可能性です。もしそうだったとすれば、表現の自由というコンセプトそのもの、およびこのコンセプトと密接に結びついた民主主義という理念にも深刻なダメージがおよぶ可能性があります。

 

東西冷戦のイデオロギー対決の時代がすぎて30年以上がたちましたが、いままさに、まったく新しい大きな対立が表面化しているのではないか。社会のマネージメント手法をめぐる大きな対立が。表現の自由に潜んでいる脆弱性は、言論統制が引かれている中国ではおそらく問題になりません。もしアメリカがこの脆弱性に対してちゃんとパッチを当てられないとすると、長期的に見れば民主主義という体制そのものが負けていくことを意味してしまうのではないか。

 

冷戦時代の東西対立で西側が勝利したのは、最終的には表現の自由×民主主義×資本主義からなる社会システムのパフォーマンスが上回ったということなのだと思います。しかしいまのアメリカの現状を見ると、そしてまた日本でもその陰謀論の感染が広まっていることをみると、表現の自由と民主主義との組み合わせが、社会全体のパフォーマンス面で中国的な社会運営に負けていってしまうのではないか。トランプ現象やアメリカの分断という個別のできごとよりも、さらに根深い構造的な困難と課題にわたしたちは直面してしまっているような気がしてならないのです。どうしたもんですかねえ。