ダニエル・ブーニュー『コミュニケーション学講義 メディオロジーから情報社会へ』

ひさしぶりに読書感想文を書きます。

題材は、ダニエル・ブーニューの『コミュニケーション学講義』。これは、急激に変化しつつある現代のメディア環境およびコミュニケーション環境に身を置く人間にとって、間違いなく必読の書であります。

メディオロジー、というと日本ではレジス・ドブレの名前ばかりが知られていますが、いやはや。実はそこにはダニエル・ブーニューという、ドブレにまさるとも劣らない「巨大な」知性が実は隠れていたのです(たんに日本で知られていないだけですが・・・)。本書を読めばわかるように、その理論的な射程の広さや深さだけでなく、それをわかりやすく具体的な事例を交えて説明していく手際にも、まさに超一流の知性と呼ぶにふさわしいものがあります。

ただ僕自身には、メディオロジーにおけるブーニューの位置、についてはいまいちつかめない部分があります。事実的経緯としては、本書の監修者解説にあるように、ブーニューがドブレを自身の所属する大学に呼んでセミナーを開いてもらったことが、そもそもメディオロジーが学問的なプログラムとして立ち上がることになった最初のきっかけだったようです。しかしブーニューが提起している理論は、自身で「情報コミュニケーション学」と規定しているように、「メディア」の問題というよりは、どちらかといえば「コミュニケーション」に焦点をあてたものとなっています。

ドブレが展開しているメディオロジーは、メッセージや思想の伝達にかかわる物理的および制度的な、マクロなロジスティックスを主題的に扱う学問である、とひとまずは要約できるかと思います。対してブーニューの「情報コミュニケーション学」は、マクロな次元も視野に入れてはいるけれど、その基層というか出発点にあるのは、コミュニケーションする人間をめぐるミクロなまなざしです。たとえば母親と赤ん坊との関係が、コミュニケーションの極限的な在り方として示されていたりするのですが、このようなまなざしは、ドブレのメディオロジーにはみられないものだと思います。

それでも強いてあげるならば、なんというか、「転倒させるまなざし」という点で、ブーニューの議論は間違いなくメディオロジーと通い合っています。つまりそこには、通常それ自身で価値があると思われているメッセージや思想というものが、実はそれを支えるより基底的な次元によって決定的に支えられ、具体化されている、とするまなざしがともに見られるのです。そのうえで、ドブレの場合はその基底的な次元として技術(組織化された物質)と制度(物質化された組織)が見出されるのに対し、ブーニューの場合はコミュニケーションが見出される、という違いがある、というわけです。


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ブーニューの理論は、基本的にはコミュニケーションと情報という対をめぐって展開されていくのですが、その議論を駆動するもっとも基底にあるのは、進化論的あるいは発生論的な見方です。たとえばブーニューは、コミュニケーションや関係性の重要性を強調するにあたって次のように述べています。

存在するとは、関係の中にあることです。他の存在から離れて生き長らえる生物はいません。したがってできるだけ幼い頃から、良好な関係のネットワークを築くのが、私たちの生の不可欠な条件だと思われます。メディアの多様さやコミュニケーションゲームの豊かさを理解するには、この情報コミュニケーション学の基本命題から始めねばならないでしょう。(29頁)

この一節からも、ブーニューのまなざしの性質というものがはっきりとうかがえます。現代におけるコミュニケーションやメディアをめぐる諸問題を考察する際にも、ブーニューは常に、生物が環境のなかで生きるというもっとも根本的な事実にまで遡って考察しようとするのです。ブーニューの情報コミュニケーション学のもつ類まれな射程の広さを担保しているのが、この始源へのまなざしであることはまちがいありません。



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こうしたまなざしを理論面で支えるのが、語用論と記号論です。

語用論(プラグマティックス)というのは、言語的あるいは発話的内容を自明とするのではなく、その発話行為そのものを実効的たらしめる諸条件を問う学問です。たとえばある発話は、その発話をめぐるコンテクスト抜きには意味を持ちません。正しい主張が現実的に実効力を有するためには、たんにその主張が内容的に正しいだけでは不十分であり、まずは相手が自分に耳を傾けてくれることが必要です。それだけでもまだ不十分で、さらには聞き手が話し手の誠実さを信じる必要もあります。などなど、「正しい」主張が伝わるという一見当たり前に思える事態一つとっても、実は数え切れないほどの諸条件が絡み合ってはじめて成立するものであるわけです。

ブーニューは語用論の観点から、ある発話行為が成立するための基本条件として、三つの要素を挙げています。

1) フレーム
発話が理解されるためには、つねになんらかのフレームを必要とする。

メッセージを解読すること、行動を理解することは、そのメッセージがどんなフレームの内にあるのか、つまりどんな種類の関係に書きこまれているかを把握しているのが前提となっています。(30頁)

2) 「オーケストラに入ること」
発話が実効性をもつためには、発話を巡る諸条件と歩調を合わせなくてはならない。

オーケストラに入るというのは、あるコードに従って演奏すること、つまりそこで使われているチャンネル、メディア、ネットワークに適合した関係に入ることなのです。(32、33頁)

3) 交話機能
発話が相手に届くためには、まずは相手とのコミュニケーションの回路が確立されていなくてはならない。

話し手がメッセージの内容とは別に、関係そのものを確かめようとして発するあらゆる表現を交話的と呼ぶことにしたいと思います。」(36頁)

このように、メッセージが実現する際に要求される語用論的(実践論的)諸条件に焦点が当てられるのですが、ここで重要なのは、関係やコミュニケーションという契機は、たんにメッセージを可能とするというだけではなく、メッセージに対して発生論的に先行している、という点です。別の言い方をすれば、なんらかの関係性に依拠しないメッセージは不可能であるが、メッセージなき関係やコミュニケーションは可能であるのです。

交話機能は、たんにメッセージを伝達するための回路を開くためだけのものではなく、たとえば日々の挨拶がそれを示しているように、相手とコンタクトをとることそのものが、自律した機能を果たすことができます。しかも、日常の振る舞いというものを考えてみれば、実はメッセージにまで至らない、関係性やつながりの確認という交話的な、それこそ空気のように社会のあらゆる場面に浸透しているのです。ブーニューは次のように述べます。

恋人たちや、セクトの一員、サッカーのサポーター、政党のメンバーや熱狂的な愛国者にとって、真実の内容を持った情報がなんの役に立つでしょうか?そこで重要なのは、関係性や熱狂を分かち合う共同体の存在なのです。(38頁)

このようにして考えると、メッセージという抽象的な内容は、メッセージ以前の関係性が織りなす広大な海の中から、ある限定された条件がととのったときにだけ浮かび上がってくる孤島のように見えてくることになります。



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そこで問われるのが、ではコミュニケーションが情報へと上昇することを可能とするのはどのような諸条件なのか、という点です。ここで、記号論の問題系が呼び出されることになります。コミュニケーションが実現していくのは、透明なエーテルの中でではなく、なんらかの記号を通してです。だとすれば、そこでの記号の働きを分析していけば、同時にコミュニケーションが駆動していく際のロジックもまた明らかにできる、というわけです。

ただしそこで有効な記号論として引き合いに出されるのは、ソシュールではなくパースです。ソシュール記号学の出発点に置かれていたのは言語記号、より正確には、規約として差異の体系を構成する象徴的な記号でした。それは、非時間的な共時態をなすネットワークです。対してパースの記号論は、記号の発生論をも含む動的な議論を展開しました。生物一般にまでさかのぼるコミュニケーションの起源的なあり方から、客観的な知識を構成する抽象的な情報までを発生論的に捉えていくブーニューは、その自らの議論のなかに、記号の生成をも説明可能とするパースの記号論を取り込んでいったのです。

その際に提示される図式が、「記号のピラミッド」です。これは、パースが分類した記号の三タイプ、指標、類像、象徴とが「時間的かつ論理的に」並んで、指標を底辺とし象徴を頂点とするピラミッドを構成している、とする図式です。検索したところ、訳者がなにかの折りに作成した資料がヒットしました。こちらの8枚目に「記号のピラミッド」のイメージが載せられています。パース自身は、上記の三つの記号を類像、指標、象徴という順番で理解していたのですが、ブーニューはその順序を変え、指標を底辺とする記号のピラミッドを新たに構想したのです。

指標、類像、象徴という記号の三つのタイプについて、ブーニューはそれぞれ次のように説明しています。

a) 指標記号

医療的あるいは気象的徴候の場合、指紋、さらには物理的痕跡や堆積物の場合、モノと記号の関係は、全体と部分、原因と結果の関係と言えます。それらの関係は直接的で、コード、意図の介在、精神作用、表象の距離、記号論的切断などを知りません。指標とそれが示すものとの自然な結びつき、あるいは隣接性は、私たちを記号課程の誕生に立ち会わせます。(56、57頁)

記号の受け取り手とある対象とを物理的な接触や隣接性によって結びつけるこの指標が、記号のもっとも基底的な存在であり、あらゆる記号はこのような指標的つながりを通して立ち上がるのだブーニューは述べています。

b) 類像記号

イメージとそれが表象するものの関係は、類似性、あるいは広い意味でのアナログな連続性によって担保されていますが、接触は断ち切られます。指標が世界から切り出されてくるのに対して、類像的人工物は世界に付け加えられます。(57頁)

世界との物理的連続性から切り離され、イメージの次元で表象のある自律した世界を構成するこの類像記号は、同時に人類学的断絶、すなわち動物から人間への移行に対応するものであるとも述べられています。

c) 象徴記号

イメージとは異なり、象徴記号は、もっぱら排除されることによって構造化され、密やかな否定性の上に築かれています。それはall or nothingのデジタルなモードによってすべてを表すのです。言語が結びつける二つの現象のあいだには、機械の二進法的言語の0と1のあいだと同様、第三項は存在しません。ある記号の存在は、同じ場所における他の記号の不在を意味しているのです。

これはソシュールが提起した、差異の体系としての記号であり、個々の記号には実定的な(ポジティブな)規定は属しておらず、人工的な規定によって設定された、その他の記号との差異という純粋にネガティヴな規定によって意味をなします。

ブーニューは、これらの指標、類像、象徴という記号のタイプが、発生論的に、つまり指標から類像が生じ、類像から象徴が生じる、というかたちで組み合わさっていると言います。このとき、後者に進みにつれて、その出現はいわば「ありそうにないもの」となります。指標記号は自然界にもありふれていますが、象徴記号は進化の歴史上の最後にきわめて例外的にしか出現していません。それゆえこれらの記号の三タイプは、一種のピラミッドを構成することになるのです。

ただし記号のピラミッド的性格というのは、たんに進化論的にみたその出現の順序を示しているだけではありません。ブーニューによれば、たとえば人工的な象徴記号であっても、その記号のそのつどの出現の中で、記号のピラミッドをいわば底辺から頂点へと上昇する形でしか実現しえません。口頭によるメッセージの伝達という例を考えるならば、まずは相手の注意をこちらに向けるという指標的段階があり、次に発生される音声がある「かたち」として類像的に認知されなければならず(おそらく言葉の原理的な音楽性というものがあるとすれば、それは記号のこの類像的な層に根を置いているのだと思います)、それから認知された言語的パターンが、有意な意味的分節の中に置かれる必要があります。象徴的メッセージの実現は、けっして象徴的次元だけでは果たされえず、つねにこのような記号的上昇として起こり得ないため、より指標や類像といった下層の段階でその上昇が阻害されると、象徴的メッセージそのものが失敗することになります。



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説明が長くなってしまいましたが、ブーニューの情報コミュニケーション学は、内容よりも関係の先行性から出発する語用論と、指標、類像、象徴がなす記号のピラミッドに依拠する記号論とを交差させる形で展開されていきます。このとき、前者における関係から内容へと上昇していく発生論的プロセスは、記号における指標から象徴へと上昇していく発生論的プロセスに対応することになります。というのも、関係性を主目的とするコミュニケーションは指標的記号を用い、内容に焦点を当てる情報は象徴的記号を用いるからです。つまり、ブーニューの情報コミュニケーション学では、語用論と記号論は、コミュニケーションの実現を分析する一つの学問の二つの理論的視座、という関係にあるのです。

ブーニューはこのような理論立てを駆使して、社会におけるコミュニケーションやメディアを巡る諸問題に、まさに縦横無尽に論じていきます。目次から適当に拾ってみるだけでも、マーケティング、医療、メディア、技術、ジャーナリズム、国家、芸術、グローバリゼーションといったテーマが見つかります。これらの多岐にわたる事象が、上述の理論立てを通して、鮮やかに切り分けられていきます。その手際は、見事というほかはありません。

書きたいことはまだいくつかあって、たとえばコミュニケーションの「閉じ」と情報の「開け」といった対概念や、あるいはそれと関連した、グローバリゼーションと共同体性といった問題など、すとんと腑に落ちるような素晴らしい議論が多く展開されています。しかしすでにかなりの長文になってしまったので、最後に一点だけ。

ブーニューは、確固とした理論的視座に基づいたきわめて確かな分析をあらゆる事象について進めていくのですが、その文章を読んでいくと、彼が提示する説明のもつとびきりのしなやかさというものにとにかく感嘆させられます。ある事象についての理論的な把握と、説明の際の具体的で鮮やかな比喩やイメージとが組み合わさることによって、ドライブ感溢れる文章が生み出されていきます。以下に三か所だけ引用します。

私たちは自ら発したり受け取ったりする言葉を、スポンジやゴムを扱うように引っ張って変形させたり、自らの本質をそこに注ぎ込んだり、自らの生命を与えたりします。それが意味をなすということです。(92頁)

食器を並べる前にテーブルクロスを広げるように、まずある一定の領土の安定が必要になります。ハーバーマス的な意味で公共空間が発達したところでは、それに先立って極めて物質的な領土の整備―道路や航行可能な水路、商品だけでなく情報の流通ネットワーク、全国的でなくとも少なくとも支配的な言語のような文化の象徴的装置、貨幣、度量衡の統一など―が行われます。(154頁)

生、その円環あるいは回路は拡大しつづけました。大発見、そしてあらゆる物産の取引を生んだ大航海の時代から5世紀を経て、第一の土地、オーラル(口語的)な世界への原初的な隷属からの緩やかな離脱の運動の終着点で、機械に囲まれた宇宙船の中の宇宙飛行士は「あれが地球だ!」と叫ぶことができるようになり、ついに円環は閉じられました。(170頁)

ツイッターUstreamなどの、少し前まではまったく想像しえなかったような新たなツールの出現によって、メディア環境の変化はますます加速しつつあり、ほとんどわけわからない状況になりつつありように思います。そんななかで、初版が1998年に出版されたブーニューのこの本は、驚くべきことにまったく古びていません。というよりも、ますますそのポテンシャルが明らかになりつつある、という感じがします。この本は、変化のただなかでこそ、原理的な考察が必要なのだということが、まさに実感させてくれます。そこらのメディア論の本を百冊読むより、まずこの一冊です。以上。