将棋と時間―将棋に見る有限性の考察

 つい先日まで、将棋の名人が戦われていました。羽生名人が4連勝で防衛、というニュースを読んだひとも多いかと思います。その羽生名人に挑戦したのは、三浦弘行八段という棋士でした。この三浦八段は、対局中のアクションがきわめて大きな棋士で、手を読んでいる時の様子は、まさに命がかかっているという風情です。三浦八段についてのひととなりについては、こちらのブログで素晴らしい紹介がされています。

羽生名人の四連勝で終わった今回の名人戦ですが、全四局のうち三局は、最終盤で三浦挑戦者が正しく指せば勝ちという局面がありました。しかし残り持ち時間の差し迫った応酬のなかで、三浦八段はことごとく勝ち筋を逃してしまったのでした。切羽詰まった状況のなかで、なんだかんだと曲折があっても最終的に勝ちを手繰り寄せてしまうというところに、羽生名人の強さが光ったシリーズでした。

ところで将棋の名人戦の対局は、各自9時間の持ち時間で、二日間にわたって行われます。一日目の夕方には封じ手といって、つぎの一手を紙に書いて密封し、翌朝それを開封してつづきを指し継ぐ、という方式をとります。プロ棋士の将棋を見ていて素人目によく抱く印象は、持ち時間がこんなにたくさんあるのに、なんで最後の一番切羽詰まった状況のときに、秒読みになってしまうまでに時間を使い果たしてしまうような時間の使い方をするのだろう、ということです。序盤のそれこそなんでもないようなところで一時間とか長考しながら、最後は一分一秒を争い、そこで勝敗が決してしまうのです。だったらもっと時間を残しておけばいいのではないかと。

今回の名人戦では、三浦挑戦者というきわめてアクションの大きな棋士が登場したこともあって、そのような素人考えをさらに強くしました。名人戦は毎回NHKのBSで放送されていて、今回も最終盤の一番の佳境の場面での両対局者の姿が映し出されたのですが、盤上にまさに没我している三浦挑戦者の姿には、鬼気迫るものがありました。少し長いですが、上に紹介したブログの一節を引用します。

しかし、なんといっても三浦の最大の魅力はほとんど忘我状態に近い対局姿勢である。終盤、三浦が渾身の勝負手△2三角を放って猛烈な追い上げ、それでも羽生が厳密には残しているのではないかといわれていたが、羽生の対応にも問題があり、三浦が逆転したのではないかというところで、NHKのBSは10分間の生中継に突入した。
いきなり三浦が映る。いつもながらの驚異の極限の前傾姿勢で、左手を開いて頭を鷲づかみに抱えて必死に読み耽っている。手に隠れて表情はよく見えないが、なんとか見て取れる左目だけからも、頭脳がフル回転であることを雄弁に物語っている。まるで、間違って世界核戦争が発生してしまい、10分以内に重大な決断をしなければいけない大統領が「正解」を探して体裁など一切無視して必死に苦悩しながら考えているかのように。
その三浦の姿勢は中継中の10分間全く不動のままだった。悟りをこれから開こうとして瞑想中の仏陀のように。これだけでも、見た甲斐があったというものである。
(ものぐさ将棋観戦ブログ、「4タテをくらった挑戦者が主役だった不思議な名人戦ーー名人戦2010第四局 羽生名人vs三浦挑戦者」より)

いかがでしょうか。

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さて、今回書こうと思っているのは、将棋における時間という問題です。上の引用文にあるような三浦挑戦者の姿は、もちろん彼自身のもつ類まれな性質にもよるのでしょうが、同時に、そこでは時間的制約という要素も大きな役割を果たしていることは間違いない気がします。持ち時間は着実に減っていき、対局者の心理を真綿のように絞めていくわけですが、しかし不用意な手を指してしまえばいっぺんに負けになる。時間はできるだけ残しておかなければならないが、しかし同時に正しい手を指さなければならない。この二つの相反する要求に苛まれることによって、最終盤の棋士が見せる鬼気迫る姿が出現するのではないか。おそらくそれほど間違ってはいないような気がします。

仮に持ち時間のない将棋というものを考えてみるとするならば、そこには間違いなく、プロの将棋がもつ魅力の決定的な部分が欠けてしまうでしょう。持ち時間という時間的制約こそが、将棋の勝負の本質的な部分をなしている、と言えるのではないでしょうか。

いきなりですが、人間という存在は有限です。一人の人間にできることには限りがあり、そしてなによりも、最終的にはいつか必ず訪れる死を避けることはできません。将棋の持ち時間ということを考えるとき、僕が連想するのはこの人間の有限性ということです。時間切れとは、いわば一種の死ではないでしょうか。たいていの将棋には秒読みというものがあり、その時間内で指せば際限なく指しつづけることは可能ですが、それでも、着実に秒が読み進められていってしまうことの恐怖は、死の恐怖にどこか通じるものがある、という風に思えてなりません。

有限なのは時間だけではありません。人間には、読み進められる手の分量には制限があります。将棋というゲームにおいて可能なパターンは10の220乗と言われていますが、これは、有意な局面に限定したとしても、とても読み切れるものではありません。ほとんど無限に分岐していくとも思われる可能な局面の数々に対して、これが最善であると確信できる一手を指すことは極めて困難であるでしょう。そして逆説的にも、多くの手を読み進めることができればできるほど、この困難さ、つまりそこには必ず読み切れない部分が残る、という点をより強く実感するのだろうと思います。羽生名人が、将棋における他力、つまり将棋の指し手は、最終的には対局者の指し手に依存せざるを得ないのだという一種の諦念のようなものにたどりついたことは、このことを如実に示している事例のように思われます。羽生名人は、将棋というゲームに向かう際に人間につきつけられるある有限性というものに、もっとも敏感な棋士の一人であるのかもしれません。

この記事では、「将棋と時間」というタイトルを掲げましたが、これはドイツの哲学者、マルチン・ハイデガーの『存在と時間』を真似したものでした。ハイデガーはこの大著のなかで、人間の実存的な存在様態を規定する「気分」として、「恐怖」と「不安」という二つのものを掲げています(他にも掲げていますが)。これらの二つは、大雑把に言うと、前者の「恐怖」ではその対象が分かっているのに対し、後者の「不安」の場合はその対象が分からないという点で区別されます。相当に牽強付会になってしまうのですが、ハイデガーが提示しているこの二つの気分を将棋のなかに当てはめてみたいと思います。

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将棋の対局者を規定する気分は、大きく分けて二つあります。一つは「恐怖」で、これはその対象が明らかな場合に生じる気分です。たとえば桂馬が飛車に当たっているだとか、次の歩成りが開き王手になる、とかがそれに当たります。この「恐怖」は、基本的には読んでいくことができます。しっかりと手を読んでいけば、この「恐怖」の対象は除去することができるのです。これに対して「不安」という気分は、より根が深く、原理的には取り去ることができません。というのもこれは、どれだけ手を読み進めていっても、絶対に読み切れない不確定な要素が残ってしまう、という点に由来する気分であるからです。「恐怖」と「不安」とは、それゆえそれぞれ対照的な性格を有しています。というのも「恐怖」の場合、手を読み進めていけばいくほどそれを除去することができるのですが、「不安」の場合、読み進めていけばいくほど、その不安は増大していくのです。

すでに書いたように、棋士が終盤に残り時間の少なさに苦しんでいるのを見ると、序盤や中盤で一時間も二時間も長考しなければいいのに、と僕なんかは思ってしまうのですが、棋士の「不安」というものを考えると、棋士にそうした長考をさせるのがなんであるのか、わかったような気がしたりたのでした。序盤や中盤の局面では、可能な分岐はそれこそ数え切れないほど存在します。もちろん厳密には最善の一手というものが存在するのかもしれませんが、有限な人間にはそれを確信を持って導き出すことはできません。ですので、可能な局面を深く読めば読むほど、読み切ることのできない不確定な要素がもたらす「不安」に苛まれ、消費時間が必然的に増えていく、という仮説です。

棋士はどうしてしばしば序中盤で時間を多く消費し、最終盤でああも追い込まれるのか。ここでのさしあたりの仮説は、「不安」が棋士を苛むのだ、というものです。将棋界の武蔵とも呼ばれる三浦弘行という棋士には、いかにもこうした「不安」に正面から立ち向かっていきそうな、決然としたた佇まいがあります。ハイデガーは「不安」という気分の源泉を、いつかやがて訪れる「死」を先取りすることのうちに求めました。「不安」というのは、有限性を肌で感じることの極限にある気分であるというのです。ですので、相当に勝手な解釈であるとは自覚していますが、名人戦で三浦挑戦者が見せた極限状況を、将棋に潜む「不安」と向き合ったがために追い詰められた、棋士という存在にともなう有限性の、生々しくも美しい発露であると捉えてみたい、と個人的には考えています。