政権交代について

鳩山首相の辞任というちょうどいいきっかけがあり、またいま飛行機のなかでヒマなので、まったくの門外漢ではありますが、昨今の日本の政治状況についてつらつらと書いてみたいと思います。

鳩山首相の辞任直前、内閣支持率は20パーセントを切るまでに落ち込んでいました。この原因については多くのことが言われています。政治と金、普天間、高速道路無料化、統治能力の欠如などなど。それらの要素はマスメディアなどでは一言で、政権の担い手である「民主党への失望」という言葉で表現されているように思います。いわく、多くの有権者が大いなる期待をもって迎えた鳩山民主政権が、その期待を完全に裏切ってしまい、いま国民は民主党に失望してしまっているのだ、と。結論から言うと、僕は、この失望の図式というものはそもそも間違っている、という風に考えています。それは別に、みなが思っているより民主党はよくやっているということを言いたいわけでも、成果が上がるのをもっと気長に待つべきだと言いたいわけでもありません。では何を言いたいのか。それを明らかにするためには、そもそも政権交代というものが何であったのか、という点についてもう一度振り返ってみる必要があるかと思います。

言うまでもなく、「失望」は「期待」があってはじめて生じます。ということは「民主党への失望」というものが生じているとすれば、その裏には、「民主党への期待」があったということです。ところで、僕の考えが間違っていなければ、衆院選挙で民主党を政権の座につかせたのは、「民主党への期待」というよりは、むしろ「自民党への失望」であり、もしそこになんらかの期待があったとすれば、民主党という政党に対するポジティヴな期待というよりは、「政権交代」という根本的な変化の契機に対するぼんやりとした期待であったように思います。この考えが間違っていないとするならば、そもそも「民主党への失望」というものはお門違いであるということになります。もし、何かに失望すべきであるとするならば、それは民主党に対しではなく、政権交代に対してでなければならないからです。

だからなんだというのだ?という声がいかにもどこかから聞こえてきそうです。もとにあったのが「政権交代への期待」であったのだとしても、結局はその政権交代を担ったのは民主党なのだから、それは「民主党への期待」と同じではないか、と。そしてその民主党がまったく期待に応えられていないのだから、それに失望するのは当然ではないか、と。でも本当にそうでしょうか?「政権交代への期待」は、「民主党への期待」と等価でしょうか?

政権交代への期待」を「民主党への期待」と等価であると考える人は、「与党」という観点から政権交代というものを考えているように思えます。つまり政権交代とは、「与党」を交代させるものである、という発想です。これは一見当たり前の考え方のようですが、しかし実はそうではないのだ、ということをここでは主張してみたいと思います。

いわゆる「民主党への失望」と呼ばれるものの内実を考えてみると、政治と金という問題ももちろん大きいですが、やはり一番の問題は、選挙前に掲げられていた非現実的な公約と、政権を運営していく上でぶつからざるを得なかった現実的困難とのギャップである、という気がします。普天間であれ、子供手当であれ、高速道路無料化であれ、どう考えてもその通りには実現できないような公約を掲げて選挙を戦い、勝ったのはいいが、実際に政権についてみると、できもしない公約のために右往左往することになり、それが国民の失望を招いた、というところが中心にあるのではないか、ということです。

さて、ここで一つ問いかけをしたいのですが、もとから実現不可能な公約を実現することができない、というとき、そこでの問題は、いったん掲げられた公約をちゃんと実現することができない点にあるのでしょうか、それとも実現不可能な公約を掲げてしまった点にあるのでしょうか?答えが後者であることは明らかです。それに比べれば、実現不可能な公約を軌道修正していくのは、むしろまともな選択であるといえます。

もちろん不可能な公約を掲げたのもそれを実行できないのも同じ民主党なのだから、その二つの段階を区別することに意味などない、端的に民主党が悪いのだ、と主張する人もいるでしょう。しかし、公約とその実行との間に、選挙という決定的な契機が入っており、そしてその前後で、民主党のステータスが「野党」から「与党」へと変化している、という点を考慮するなら、事態はそれほど簡単ではないことがわかります。

野党の存在価値は、第一義的には与党の政策を批判的に検討していくことにある、とひとまずは言えると思います。しかし一口に「批判的」と言っても、その内実は一様ではありません。たとえば二大政党制が根付いている国における野党による批判と、55年体制時の社民党共産党による批判とは、大きく性質を異にしています。というのも、前者の場合、次の選挙の結果によっては与党の座に就くことがありえ、それゆえかつて与党に向けていた批判が自身に帰ってくる可能性があるのに対し、後者の場合はその可能性が(ほぼ)ゼロであるからです。この相違は、批判にともなう責任性という点に如実に現れてきます。二大政党制の野党は、やがて自身が権力を担い実際に国家を運営していく可能性があるため無責任な批判や対案を出せないのに対し(その後のしっぺ返しを予期するため)、日本の旧社会党共産党の場合、いくら言いっぱなしにしてもその責任をとらなくても済むからです(どのみち政権につくことはないため)。政権につく可能性があるのか、それとも万年野党であるのかによって、一言で「野党」と言ってもその内実はまったく異なるのです。

日本においては、昨年に民主党が政権をとるまでは、野党が選挙によって政権を獲得するということまったく起こったことがありませんでした(政治家による数合わせによって与野党の交代が起こったことはありましたが)。しかし今回の政権交代によって、はじめて野党が与党となり、責任ある立場に立たされるということが起こりました。このことがもつ帰結はなんでしょうか?

一般的な答えは、すでに述べたように、政権交代は与党を変える、というものでしょう。しかしここでは次のように主張したいと思います。すなわち、政権交代が変えるのは、与党ではなくてむしろ野党である、と。つまり、無責任な批判を言いっぱなしの野党を、やがて自身が政権を担うかもしれないということを予期する、責任ある野党に変えるのです。

このように考えてみた場合、日本における政権交代は現在どのような地点にあるでしょうか?鳩山首相の辞任に象徴されるように、与党民主党はほとんど地の底を這っている状態です。今の民主党をこのように苦しめているのは、「野党」時代の公約です。ところでここでの「野党」は、政権交代以前のモデルが実現する以前の、いわば55年体制の最後の残滓としての野党です。実現不可能な公約や政府への対案を掲げる、結局は無責任な野党です。現在、民主党に向けられているさまざまな批判は、実は与党民主党に向けられた批判ではなく、実のところ、政権交代前夜の「最後の無責任な野党」の呪縛に向けられた批判であるのではないでしょうか?だとするならば、無責任な野党を責任ある野党に変えていくプロセスとしての政権交代は、実はいまこの瞬間に佳境に入っている、と言えるのではいでしょうか?

それゆえ今というこの段階では、失望する必要などまったくなく、そのうえで民主党の公約違反を厳しく追及していけばいいのだと思います。そうすることで、無責任な批判を政府に向けたり実現不可能な公約を掲げて選挙を戦ったりすることの恐怖を、「政権交代以後」のあらゆる野党に植えつければいいのです。そうすることで、政権を担う「与党」が立派になるのではなく、むしろ政権を批判し対案を提示する「野党」が立派になることによって、真の政権交代が実現するのだと思います。

だから失望するのはあまりに早すぎる。なぜなら政権交代はまだはじまったばかりであり、ようやくその佳境に入ったところなのだから。首相がころころ変わるのは確かに困ったものですが、これは政権交代という「野党を変革する」大きな試みに付随するやむを得ないコストとしてしばらくは受け入れるしかないでしょう。別に民主党そのものを長い目で見る必要はありません。しかし政権交代というプロセスについては、いましばらくは失望することなく長い目で見る必要があると思うのです。