デリダとスティグレール

フランスの思想家ベルナール・スティグレールの哲学のひとつのエッセンス(だと個人的に思えるもの)について文章を、二回に分けてアップしてきました。
「痕跡とプログラム」
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061222
「プログラムとリズム」
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061226

その後、コメント欄でのやりとりなどもあり、スティグレールデリダとの関係が気になる人はやはり多いだろうと思い、物質性という問題に限ってですが、デリダスティグレールの議論の焦点の違いについて簡単にまとめた箇所をアップすることにしました。

いつものように注意書き。
1、文章の属性
全体で原稿用紙換算で1000枚ほどからなる修士論文の序論部分のほぼ最後の方の一部。

2、読む際の注意
序論はフッサールの「幾何学の起源」とそれに付されたジャック・デリダの序説を取り上げ論じていくというスタイルをとっており、下の文章ではそこで論じられた内容が前提とされて書かれています。とくに最初の方がそうなので、そこは読み飛ばしていただいて結構です。物質性の話が始まるところからが一応本題です。なお、序論全体ではまったく一般的ではないフッサール解釈を行なっているので(スティグレールフッサール理解をさらに敷衍したものですが)、さしあたり気にしないでください。

※今回ははてな記法を試してみましたが、脚注はわかりにくかったかもしれません。また、例によってアクサン記号は文字化けしてます。

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 すでに述べたように、フッサールは一見すると互いに矛盾する二つの論理を用いて幾何学の起源と伝統との可能性を説明している。ひとつが過去から現在への連絡を受動性、沈殿、能動性の三つの概念を用いて、産出された理念的対象の十全な継承として幾何学の歴史を説明するもの。もうひとつが幾何学の未来への信憑を出発点にして自己による反復、他者による反復、そして幾何学の共同体による反復が信憑の連鎖として成立するのだと説明するもの。そしてフッサール自身はこのふたつの論理の関係をはっきりと説明することはなかったしおそらくその両者の矛盾関係を意識することもなかったが、そこでなされている説明そのものを整理するならば、最終的には幾何学の未来への信憑が幾何学の過去へと投影されることでひとつの幾何学の歴史というものが成り立つ、という論理になっている。ここにははっきりとある迂回の論理、未来への信憑が過去への信憑へと迂回するという論理が現われているのだが、当然ながらその論理もまたフッサールの目を完全に逃れている。
 フッサールは二つの論理を順番に並べるだけであり、実際にその二つの論理を同時に可能ならしめている迂回の論理には気付くことはなかった。そしてその理由は明らかである。それはフッサール自身が、幾何学の未来への信憑、というよりもより一般的に《同じもの》を志向するロゴスへの信憑をけっして手放すことがなかったからだ。それゆえフッサールの出発点はつねに、「ロゴスはある」というものでしかない。そこがフッサールの問いの絶対不変の出発点であるのだが、現象学はその可能性の条件を遡って問うていく。「幾何学」でのフッサール自身の言葉を借りるならば、起源への「遡行的問いR?ckfrage」を遂行していくのだ。そしてその結果としてフッサールが辿り着いた結論が、ロゴスは存在しない、少なくともある事物が世界のなかに存在するようには存在せず、それはあくまでも「いまだ存在しない」がしかしながら「将に来たるべき」ロゴスという様態をもって信憑されるだけである、ということであった。その「将に来たるべき」ものへの信憑が「すでに?そこに」存在しているはずのものへと投影されることで、実際にはロゴスへの信憑が形成されている、という機序である。いわば出発点にあるロゴスへの信憑を掘り崩してしまう結論に至るのだ。ここにフッサールの思索の稀に見る確かさが紛れもなく現われているのであるが、同時にそこがフッサールの限界点でもあった。未来から過去への迂回の論理というものを正面から取り上げることはフッサールには不可能であったのだ。
 あらゆる自然的態度、意識に現われている現象に対する一般的定立、すなわち「目の前に現われている事象はまさにそのように存在しているのだという信憑」を全面的にエポケー(宙吊り)にすることで現象学を開始したフッサールが決してエポケーすることがなかったもの、それがロゴスへの信憑である。そしてデリダが試みたことというのは、その信憑をやすやすとエポケーすることではなく、その信憑の権利問題を明るみに出していくことであった。ただしそこで採用される戦略は複雑である。まず、フッサールが日常的な信憑に対してなしたようなエポケーがロゴスに対しても可能であるとはデリダは決して考えなかった。そもそもフッサールについて論じるという身振りそのもの、あるいはなんらかの形で論理的手順を踏んでいくという身振りそのものが、つねにすでに遂行されているロゴスへの信憑なくしては不可能であり、デリダ自身、ロゴスへの信憑から出発することを決して止めることはなかった。フッサールがあらゆる日常的な信憑をエポケーすることができたのは、結局のところロゴスへの信憑そのものを暗黙のうちに確保していたからである。デリダはあらゆる信憑をそこにおいてエポケーすることが可能であるような中立の地点というものが存在することを認めなかったのだ。それゆえデリダは、ロゴスへの信憑の内部からその信憑を動揺させる、という身振りを選ぶことになる。いうまでもなく、これが一般的に「脱構築」と呼ばれているものである。しかし一概に「脱構築」といったところで、その内実は単純なものではない。
 『幾何学の起源への序説』は出版されたデリダの仕事の最初のものであり、いわば「脱構築」の出発点を画すものである。そこではまだのちに「脱構築」という名が喚起することになるアクロバティックな筆記はたしかに現われていないが、しかしながら「脱構築」を「ロゴスへの信憑の権利問題を明らかにすること」として理解するならば、「序説」もまた「脱構築」のプロジェクトのなかに紛れもなくひとつの地位を有している。「序説」でなされている「脱構築」は、いってみれば要約することのできる類いのものである。
 幾何学の統一性は、幾何学の未来への信憑がその過去へと投影されるという迂回の論理を通して構成されるものである。この論理をデリダは「起源」におけるフッサールの論理のなかにはっきりと見出している。

絶対者は伝統性であり、それは、意識がそこでは果てしもなくいつもすでに開始されている還元のうちでみずからの道程を創出し、すべての冒険がそこでは回心であり、起源への回帰がそこではすべて地平へ向かう果敢なさである運動において、一方から他方へと循環しつつ、一方を他方によって照らし出す 。*1

ロゴスの信憑が成立するのは、このような循環構造においてなのだ。そしてデリダが独創的であるのは、この循環構造を反復の問いと結びつけている点である。フッサールは反復の問題を、最終的には《生き生きとした現在》の反復へと還元することによって、反復という契機が有する構成性を排除してしまった。つまりまず明証的な現在があり、それが遅れて反復されるという順序である。それに対してデリダは、反復こそが起源的であるのだとする 。反復が起源的であるということ、これはつまり遅れこそが起源であり、起源から遅れて起源が反復されるのではない、ということである。『声と現象』においてデリダが知覚について述べたことを言い換えるならば、かつて一度も現在などというものは存在したことはなく、それは反復がもたらす遅れによって構成されるのだ。そして図らずもフッサールが証明してしまった事態、すなわちロゴスは存在せず、たんに来たるべきものとして信憑されるのみであるという事態は、じつは
現在そのものを構成しているこの反復の遅れというものを考慮に入れて初めて理解することができる。というのも、たんに充実した現在のみが際限なく連続するのであったら、そこにはいかなる未来への関係も生じる余地がないからだ。現在はつねにすでに遅れている。その遅れの時間、それはいわば未来を信じるための時間なのだ。そしてその未来への信憑が過去へと迂回することで、信憑された未来へと導かれているものとしての過去と現在が構成されることができる。「起源」で言えば、ロゴスあるいは理性に主導されているものとしての幾何学者の過去と現在が構成されることができるのだ。
 ここに、ロゴスへの信憑の権利問題が明らかになる。ロゴスはいまだ存在しない来たるべきものでなければならず、さらに現在そのものが反復によって遅らされていなければならない。現在を構成する遅れの時間において来たるべきロゴスを信憑すること、これがロゴスの構成であるのだ。このことを明らかにすることによって、デリダフッサールにおける明証性の絶対的な源泉である《生き生きとした現在》を根本から読み替えることになる。《生き生きとした現在》とはすなわちロゴスがみずからを指し示している現在であるのだが、その《現在》は逆説的であるけれども現在ではなく、現在を構成する遅れの時間において信憑された他なる時間なのである。

絶対的起源のこの他性は私の《生き生きとした現在》のなかに構造的に現出し、何らかの私の《生き生きとした現在》のようなものの本源性のうちにしか現出しえず、それと認められえないのだから、このことは、現象学的遅延と制限との本来性を意味している 。*2

絶対的起源という他なるもの、つまり無限なるものは、遅れを通して信憑されるものでしかない。世界は有限であるのだから、無限は端的に存在しない。それはたんに来たるべきものとして信憑されうるのみなのだ。そして《生き生きとした現在》というのは、あくまでもそのように信憑された他なる時間でしかない。現象学はその他なる時間への信憑から出発し、それゆえその他なる時間がたしかに存在すると信憑するのであるが、その信憑は、その信憑そのものを可能とする遅れによって裏切られる。デリダ現象学が信憑している《生き生きとした現在》を信憑によって産出された他なる時間であると捉えることによって、現象学をこの裏切りの絶えざる経験として位置づけ直す。

超越論的なのは、事実的な無限性をその意味と価値との無限性へと越えることによって、還元すれば差異を保持することによって、差異を「還元する」ように働く思考の純粋で果てしのない不安であろう。果てしなく留保される起源へと前進することによってしか、すでにみずからを告げているテロスを待望できないがゆえに、みずからがつねに来たるべきものであることをかつて学ぶ必要のなかった思考の純粋な確信こそは、超越論的であるだろう 。*3

差異とは、現在を構成する遅れと、その遅れを通して信憑される来たるべきものとの差異である。そして「来たるべきもの」を「存在するもの」であると信憑し(しかしそもそも信憑とはそのようなものである)、前者から後者への不可能な還元へと突き動かされる運動として超越論的企図が性格づけられる。ここに、現象学を導く運動があざやかに活写されると同時に、その運動のモチーフとなっているロゴスの機能の論理が描き出されている。これが「序説」においてデリダが行なったことのだいたいである。
 さて、反復がもたらす遅れの時間を通して何らかの形で未来が信憑され、その信憑が過去への迂回する、そのような迂回を可能とする遅れの運動がデリダによって差延differanceと呼ばれたものであり、それはきわめて普遍的なある運動のモデルである 。その差延の運動には反復という契機が不可避に入り込んでいるわけであるが、そこにおいて反復する「もの」、これが代補supplementと呼ばれる。そして代補の役割はさまざまな「もの」によって果たされうる。それゆえ『グラマトロジーについて』では、代補する「もの」がさしあたり《グラムgramme》と名付けられ、その一種の系譜学が試みられることになったのだ。ところで技術論においては、その代補する「もの」がなによりもまず問題となる。
 デリダ自身はどのように考えているのか。これは厳密に考えようとするならばきわめて困難な問いである。が、その問いに正面から取り組むことはここでの課題ではない。さしあたり「序説」に限って考えるならば、それはおおよそ記号的反復が念頭に置かれていると考えて間違えないだろう。たしかにデリダは物質の次元にも触れている。それも図書館の焼失の例を挙げていたように、理念的対象にそのもっとも根源から影響を与える次元として物質の次元が触れられている。しかしながらデリダは反復に問題について触れるにあたっては、物質の次元はまるで関与しないかであるように振る舞っている。第三節で述べたように、デリダは不用意に「知覚」という表現を用いており、そのことによって物質もまた何らかの仕方で反復されるものであるということがまったく見えなくなってしまうことになっていた。また、デリダはほとんど逐語的とも言っていいほどフッサールのテキストに詳細な注釈を付けていき、最終的にはその注釈対象の数倍にあたる分量を書き上げているのであるが、にもかかわらずデリダは「二重の層をもつ反復」というきわめて重要な表現に見向きもしない。そこではさりげない素振りにおいてではあるが、フッサールは物質の次元での反復と記号の次元での反復との二重性に触れているのであり、それは反復の問いを正面から取り上げるデリダにあっては無視できない表現であるにもかかわらずだ。総じて「序説」においては、物質の次元は理念的対象に致命的限界を課す一方で、反復を通しての遅れという決定的契機には関わっていないかのようであるのだ。
 『声と現象』においてはよりはっきりとしている。そこでは物質的指標性と語用論的指標性は実際にはほとんど区別されず、最終的には反復をもたらす記号というテーマに収斂しており、物質の次元はほぼ無視されていっていると言っても過言ではない。ただしそのことは『声と現象』がとりあげている『論理学研究』の性格からして必然的な帰結ともいえるので、そのことについて疑問を呈するのはいくらか無理がある。『グラマトロジーについて』では事態はもっと複雑である。そこではエクリチュールの物質の次元というものがはっきりと考慮されているように見える。『パイドロス』における技術の排除もそこではひとつのテーマとして取り上げられているし、痕跡という概念も文字通りに、ということはつまり物質としての痕跡として捉えている部分も明らかにある。たとえば痕跡について次のように述べられる。

痕跡とは差延作用であって、現れと意味作用とを開始する。それは、あらゆる反復とイデア性の根源であり、生物を無生物一般の上に分節するが、それ自身イデア的でも実在的でも、叡智的でも感覚的でもなく、また透明な意味作用でも不透明なエネルギーでもない 。*4

ここでの「無生物一般」という言葉において、なんらかのかたちで物質が念頭に置かれていることは間違いないだろう。とすれば差延における遅れの時間は、物質への迂回によってもたらされる遅れの時間でもあるということになる。さらには道という痕跡的経路についてもつぎのように述べられている。

道の可能性とエクリチュールとしての差異の可能性、エクリチュールの歴史と、道、決壊、via rupta、つまり断ち開かれ、切り開かれた(fracta)道の歴史、つまり可逆的空間と通り道によって跡をつけられた反復的空間、歴史と自然の、また自然的、野性的、救助的森林の、暴力的な疎隔と空間化とを、一緒に省察しなければならない 。*5

ここでは道が一種の「反復空間」であると述べられており、あきらかに物質的反復の問題が取り上げられている。デリダは物質の次元を決して無視してはいなかったし、それどころかきわめて深い洞察も随所に示してもいる。『グラマトロジーについて』からほぼ三十年後のある対談においては、人工補綴(プロテーズ)としての道具や、その変化とともに書くという経験そのものが変化を蒙るということについても述べている *6。しかしながらにもかかわらず、そこにはつねにある種の不明瞭さが伴っている。
 ルソーを読解するポール・ド・マンに注釈を加えながら、デリダが物質性という言葉を取り上げている箇所がある。そこでデリダは、「抵抗する物質」*7 や「脆くはあっても動じない物質、物質的な保管庫、媒体、支持体、文書」*8 に触れ、さらには「序説」において挙げていたような物質的カタストロフの可能性にも触れている。が、しかし物質へのこの問いはその後の箇所において「物質なき物質性」*9 、「物質的な基体のない抵抗の力」*10 の問いへと還元されてしまう。こうして「物質」と「物質性」とを区別した上で、デリダは次のように述べる。

この物質性という用語を解釈する際には、物質、実質的な基体、「物質」と呼ばれる審級のあらゆる意味論的な含みを、物質そのものと呼ばれる何らかの内容へのあらゆる参照を除外する必要があるのです。そして物質のない「物質の効果」だけを意味する必要があるのです 。*11

そしてその物質性の概念が、「テキストの出来事」の概念を決定するのだとされる。すなわちここでは、「物質性」という名において考察されているのは最終的にはテキストなのである。デリダは一方では「物質」を参照しているかのような身振りをしながら、他方では即座にその参照を「除外」してテキストの出来事に焦点を当てる。この二重の身振りは、「物質」について触れるデリダにつねにつきまとうものである。
 アントナン・アルトーについて論じている『基底材を猛り狂わせる』には、その二重の身振りがどこに由来しているのかがはっきりと示されている。基底材subjectileというのは、絵画がそこに描かれるキャンバスなどといった、いわば作品をその「下」で支える物質のことである。デリダはそのような常識的定義を根本から転倒させようとするのであるが、しかしながら同時にその定義もはっきりと射程に入れている*12デリダが物質的下部として参照される「基底材」を動揺させる際にとる最初の戦略は、「基底材」という言葉は、それがある物質的下部を参照すると同時に、それ自体がひとつの基底材であると宣言することである。

「基底材」という単語は、それ自体ひとつの基底材である 。*13

「基底材」とは、言葉の外部にある物質的下部という現実を参照する透明な記号なのではなく、それ自体がそれに引きつづく諸記号の参照先となるひとつの「基底材」なのだというわけである。たんに、基底材とは作品を支える物質的下部である、と述べられるときにはそこではシニフィアンシニフィエという厳密な二項関係が想定されており、それが記号と現実という関係に引き写される。「基底材」というシニフィアンが、現実世界に確かに存在している基底材という対象を指し示す、というわけである。この関係はさらには作品そのものにも同様に引き写されることができ、物質という純粋に受動的な支持体と、そこに意味を刻み込む純粋に能動的な意図という二項関係が見出されることになる。デリダが見出すアルトーの試みが、作品という場におけるそのような二項関係こそを動揺させようとするものであったとするならば、その試みの可能性を汲み出そうとするデリダもまた、シニフィアンシニフィエという二項関係に依拠することはできないということになる。つまりそこでは、基底材とは作品を支える物質的下部である、とたんに措定してしまうことも禁じられているし、またアルトーはその下部そのものに働きかけることでその二項関係を動揺させようとした、とアルトーの振る舞いを参照的に名指すことも禁じられているのだ。
 こういった禁止を源泉として、『基底材を猛り狂わせる』はある異様なエクリチュールを展開していくことになる。そこでは言葉と物という参照関係も、デリダアルトーという参照関係も禁じられている。つぎの表現はその基本態度を簡潔に体現している。

単語もページもともに基底材である *14

そしてこのことから、次のことも同様に帰結する。

言語の秩序=命令と手の秩序=命令との間、耳と眼との間には、時間の先後関係もない、論理もない、ヒエラルキーもない 。*15

ここに現われているのは、エクリチュールのある独特な速度である。ふつう、基底材という言葉はある物質的現実を指し示す。そしてまたそこに引きつづく言葉も同様にその現実を指し示すとともに、その現実をさまざまに分節化していく。こうして、記号の秩序は現実の秩序を分節化する、すくなくともそこを指し示すものとして何となく理解されている。だからたとえばアルトーが手を触れたあるキャンバスを基底材と呼び、そこに向けて繰り広げられたアルトーの振る舞いをその基底材の上での分節化であると指し示し、そうした営為の全体を「アルトーの作品」といった名で参照することができることになるのだ。しかしながらデリダは、あるいは「脱構築」のあるプログラムはそういった冗長さ、かりそめに超越的であると措定されているシニフィエにさまざまなシニフィアンを繰り返し差し向けるという冗長さを破壊してしまう。そこでは、純粋なシニフィエ、安定的な基底材というものは前提とされず、あるシニフィエを参照していると思われたシニフィアンを即座に別のシニフィアンによってシニフィエと化し、そしてそれが繰り返される。その結果として、シニフィエの安定性といったものは根本から動揺させられ、つぎつぎと参照を向けあうシニフィアンの連鎖の運動が姿を現す、というわけだ。
 このような「脱構築」はつねに可能である。というのも、すでに述べたように現在そのもの??つまり、現在そこにあるものという形で名指されるもの??が反復によって構成されているからだ。その名指し行為、参照行為が安定性を有することができるのは、ここでもまた、反復がもたらす遅れの時間において未来が信憑されるからである。現在の現象としての確かさは、まずもってそれが確かなものとして続いていくだろうという信憑を源泉としている。そしてその未来への信憑は、過去へと投影されて現在を作り上げてきた確かな過去への信憑となる。このことをシニフィアンの機能の観点から述べるならば、シニフィアンが参照していると思われているシニフィエの確かさは、それに引きつづくシニフィアンもまた同様のシニフィエを参照するだろうと信憑されていることにもとづいている。そしてその信憑が過去のシニフィアンの連鎖へと投影されることで、シニフィアンの総体がある超越的なシニフィエに従属するという形で安定することができる。この構造には、そういったシニフィエの安定性の根源的不確かさがはっきりと現われている。事実、「脱構築」と呼ばれているものは主にその不確かさこそを標的としている。つまり、あるシニフィエを指し示すシニフィアンに引きつづくシニフィアンが、もはや同様のシニフィエを指し示すことなく、先行するシニフィアンそのものを指し示そうとする時、そこではシニフィエの安定性が動揺し、そのシニフィエを遅れにおいて構成していた反復の運動そのものが前面に出てくることになるのだ。
 「序説」においてデリダがとっていた戦略は、おおよそフッサールが「論じていること」の可能性を展開するというものであり、その結果として差延的な契機を迂回せざるを得ないというロゴスの働きが明るみに出された。それゆえロゴスの機能の権利問題を明らかにする、ということが「脱構築」であるならば、これもすでに一種の脱構築であるとは言えたのであった。しかしながらそれはあくまでもコンスタティブなもの、つまりある論理構成を参照し指し示すという形式における「脱構築」であり、ここではまだシニフィアンシニフィエ、記号とそれが参照する現実という二項対立に忠実なまま論が進められている。そこではデリダフッサールの議論を参照しているのだ。その点、『基底材』はいわゆる「脱構築」をきわめて鮮やかに体現している。それは、差延を通してのロゴスの構成という働きを指し示すのではなく、みずからをその差延の時間として、反復を通しての遅れとして、それが差し向けられるテクストへと接続していく。そのことによって、そのテクストが最終的に前提としている安定的シニフィエを動揺させる。つまり、そのシニフィエに差し向けられているそれぞれのシニフィアンそれ自体を別のシニフィアンシニフィエとすることで、シニフィアンの連鎖そのものを前景化させるとともにシニフィエの指し示しという身振りを挫折させるのだ。そしてそれゆえこの「脱構築」が実際に行なっていることは、「序説」の場合とは異なり要約不可能である。
 さて、いうまでもなくデリダが「脱構築的」介入を行なうのは、ほぼ言葉を通してである。それゆえデリダが負荷をかけていこうとする場というのはあくまでも言葉、その言葉が可能とする反復である。そしてそのことから、物質の問いは原理上、そのものとして問われることは不可能となっている。というのもその「脱構築」のプログラムにおいては物質とはあくまでも記号としての「物質」でしかありえず、それが「脱構築」しようとするのは「物質」という記号によってある物質という外部的現実を安定的に参照することが可能であると信じて疑わない態度であるからだ。アルトー論において「基底材」という言葉を舞台としてなされたように、「物質」もまたそれが外部の参照を遂行しようとした途端に「脱構築」され、それゆえ記号の連鎖へと差し向けられてしまう。「脱構築」に内在するこの根本的な姿勢が、物質にたいするデリダの両義的な姿勢を説明する。デリダ自身、折りに触れて物質という言葉によってある外部的現実を参照するのだが、それと同時にそういった参照行為そのものをみずから「脱構築」してしまうのだ 。ただしデリダは誰しもが必ずそうしなければならないといった規範を提示しているのではない。そこでなされているのはたんに、そのような「脱構築」はつねにすでに可能であり、またその可能性を通してのみそこで「脱構築」されているシニフィエの参照そのものが可能となっているのだというロゴスの権利問題を、いわば遂行的に指し示すことである。それゆえそこには、つねに別の道を辿る可能性というものを残されている。
 見てきたように、デリダが採用している姿勢、そこでの独特の速度というものは、物質について安定的に問うことを不可能としてしまう。このことはつまり、技術についての問いを不完全にしてしまうことを意味する。とすれば、技術の問いが反復や迂回の論理、すなわち差延の論理から出発するのだとしても、そこに物質の問いを避けがたく組み入れていかなければならないないのだとすれば、デリダ的な「脱構築」とは別の速度のエコノミーを採用する必要があるだろう。そして、技術を考察するにあたってデリダ差延の論理から出発しながら、同時に物質の問いを正面から問うためにその速度においてデリダから決定的に袂を分かっている技術哲学者、それがベルナール・スティグレールである。ただ、そこではたんに速度が異なるだけではない。差延の論理が根源的に物質の次元への迂回の論理でもあることをはっきりと示すことで、スティグレールデリダのうちに潜在的にみられた差延の論理のある側面を全面的に展開している。たとえばデリダは『グラマトロジーについて』においてこのように述べていた。

新たな超越論的感性論は、たんに数学的理念性によってだけではなく、刻印一般の可能性によって導かれねばならないであろうし、この刻印一般はすでに構成された空間に偶然的出来事として付け加わるのではなく、空間の空間性を産出するのである。〔・・・〕空間にかんする超越論的な問いは、時空経験の前歴史的、前文化的地層に関わるのであり、この地層はあらゆる主観性と文化とにたいして、経験的多様性やそれらの時間、空間の固有な方向づけの手前で、普遍的な単一の地盤を提供するのである 。*16

ここで述べられている「新たな超越論的感性論」は、その不可避な位置を割り与えられながらもデリダ自身によって展開されることはなかった。その後「脱構築」は、言葉そのものを場とした特異なエクリチュールの展開へと発展していったのであるが、ここで述べられたような「超越論的感性論」を試みるにはある歴史的現実と物質的現実への参照行為なくしては不可能なのだ。スティグレールの議論の一つの核心が、デリダによって「新たな超越論的感性論」と呼ばれたものの探求であることはまちがいない。むろん、その問題意識はスティレールだけが有するものではない。たとえばメディオロジーを展開するレジス・ドゥブレは自身のプロジェクトの先駆的業績として他ならぬ『グラマトロジーについて』を挙げているし 、またカトリーヌ・マラブーはその独創的なマルクス読解において、デリダ差延の概念とマルクス唯物論とを接続させようとしている 。しかしながらデリダの議論の可能性の核心をまさに技術であると見なしそれを展開していったという点において、技術の問いという観点からスティグレールは特別な地位を占めている。
 差延や代補といったデリダ独自の概念のみならず、技術について考察していくにあたってスティグレールが用いる諸概念や問題系の多くはすでにデリダにおいても見出されるものである。その技術哲学のひとつの核となる人工器官(プロテーズ)の概念についても断片的にではあれデリダは繰り返し語っているし、アンドレ・ルロワ=グーランに由来する外在化やプログラムの概念もまたデリダが『グラマトロジーについて』において依拠していたものである。また哲学的文脈においても、デリダを除けばスティグレールの最大の参照先であるフッサールハイデガーなどは、ほとんどデリダの揺籃の場といってもいい。しかしながら実際にそこで展開されている議論の内実は、ある点においてはデリダに忠実でありながらそのほとんどにおいてまったく新しいものとなっている。
 スティグレールデリダの思想の違いを検討していくことはこの論考の課題ではないが、両者の基本的な焦点の違いを押さえてくことは最低限必要であると思われる。その違いを理解するには、ルソーへの両者の態度の共通点と相違とをあわせて見ていくのが好適だろう。きわめて簡単にではあるが、両者のルソー論を振り返ることにする。
 デリダの『グラマトロジーについて』の後半部全体はルソー論に当てられているが、その中心をなすのは「短くて殆ど知られていないテクスト」 *17、『言語起源論』の読解である。他方、スティグレールが『技術と時間一巻 エピメテウスの過失』の第一部第二章において取り上げているのは『不平等起原論』である。このように異なるテクストを取り上げている両者のルソーに対する態度は、ほとんどの点において共通しているのであるが、しかしある根本的な点において決定的に異なっている。両者において共通しているのは、ルソーのなかに形而上学的身振りの端的な現れを見出している点である。それゆえ分析を通して見出されるルソーの身振りをプラトンから一貫して形而上学を規定しているある身振りの文脈に位置づける、という手続きを両者とも踏んでいる。ルソーの身振りをも規定しているその形而上学的な身振りとは、ある排除の身振りである。形而上学はみずからを可能としている根源的な次元のまさにその根源性を抑圧し、それを二項対立の徴づけられた一方へと排除することによって、その他方に純粋な形而上学の領域を打ち立てる。その身振りがルソーにおいても同様に見出されるのであるが、しかしその排除の身振りはつねに痕跡を残す。形而上学がそこにおいて自足しているかに見える一項は、つねに自身を構成している根源的な次元を二項対立の他項へと追いやるという運動を通してしか確保されえない。とすればそういった排除の身振りそのものが実はそこで排除されている根源的な次元の痕跡をなしているのであるが、その痕跡をこそ読みとろうとする点においてもデリダスティグレールは完全に一致している。両者ともに、形而上学に対して同じ戦略を通してそれを読み替えようとするのだ。というよりも実際には、スティグレールデリダの戦略をそのまま踏襲しているというのが正確なところであるだろう。たとえば『不平等起原論』を形而上学の文脈に位置づける際にスティグレールが述べていることは、その通りにデリダが『言語起源論』に関して述べていてもまったく違和感はない。

『不平等起源論』が属しているのは、起源においてはその起源からの墜落しか決して存在しないこの伝統、そしてこのアポリアがつねに最後には二つの契機、すなわち純粋さと堕落、以前と以後という二つの契機を対立させてしまう??その二つの契機を分かつ瞬間はつねに希釈されてしまっているにもかかわらず??ひとつの神話学へと硬直してしまうこの伝統である 。*18

そしてまた、そこにおいて排除されているのは根源的な代補である、という点においてもスティグレールデリダの議論をそのまま踏襲している。形而上学の最終的な参照項である純粋な現前は、代補へと迂回する差延の運動によって構成されているという理解もまた両者によって共有されているのだ。問題は、その代補の内実である。乱暴にまとめてしまえば、形而上学が根源的に抑圧しているものとして、デリダが言語を挙げるのに対し、スティグレールは技術を挙げるのだ。むろんすでに述べたように、デリダ自身の議論はきわめて複雑なものであり、そこで技術がまったく考慮されていなということは決してない。しかしながら最終的にはデリダの議論の焦点はつねに言語であり、そのことを象徴的に示すのが『グラマトロジーについて』におけるルソー論なのだ。そしていうまでもなく、デリダが論じた他ならぬルソーを取り上げ、さらにデリダの基本的戦略を完全に踏襲した上で、デリダによる言語の代補の根源性についての主張を技術の代補の根源性についての主張で置き換えたスティグレールの意図は明白である。デリダが展開した差延の論理を、技術哲学として書き換えようというのだ。当然ながら、このことはスティグレールが言語の問題、象徴的分節の問題を技術の問題に還元しているということを意味するわけではない。言語の問題は、技術の問いの地平のなかに新たに位置づけ直されるのだ。その問題系については本編第二部で扱うことになる。
 代補の機能を果たすものとして(原理的な矛盾を押して「代補の支持体として」と言いたいところだが)言語を想定するか技術を想定するかというちがいは、代補の論理そのものの性格づけにも影響を与える。代補を性格づけるものとして、デリダが「分節化articulation」を挙げるのに対しスティグレールは「外在化exteriorisation」を挙げるのだ。デリダは次のように述べている。

分節化は言語のエクリチュール化である。ところで、このエクリチュール化が起源に後から到来し、それに基づき、それ以後のものだと言いたいように見えるルソーは、実際このエクリチュール化が起源に後から到来し、起源の後に生ずるその仕方を記述している。言語のエクリチュール化は、言語の言語化である。彼は自分が言わんとすることを明言している。つまり分節化とエクリチュールとは言語の起源以後の病であるということである。彼は自分が言いたくないことを語っている、あるいは記述している。つまり分節化は、したがってエクリチュールの空間は、言語の起源において作用しているということだ 。〔傍点による強調はデリダ*19

ここでははっきりと起源を差延的に構成するものとして分節化というものが挙げられている。また別の箇所では「分節する能力」が「代補性の能力」と言いかえられ *20、またエクリチュールが「代補性の構造の別名」*21 であると述べられる。このように代補の性格を分節化であるとするデリダに対し、スティグレールは外在化の過程を代補の運動であるとする。

脱自然化とは、自己が、起源が、本来的なものが、作りものへと、技術へと、死せる人工物へと外在化され、依存?化され、疎外されることであるだろう。それら〔作り物、技術、死せる人工物〕は社会的世界そして客体とそれゆえ主体によって差異分化された世界の媒介性を構成する。なぜなら脱自然化が生じたならば、自己がみずからを定義するのはもはやそれらの客体によって(つまり自己が所有する客体によって)でしかなく、そしてそれゆえもはや自己ではないからである 。*22

いうまでもなくスティグレールは純粋な自然が存在するところにこの脱自然化が生じたと考えているのではなく、脱自然化は人間にとってはつねにすでに生じているのであり、逆説的ではあるけれど脱自然化こそが人間の自然であるということが論じられている。そのことによって、技術的外在化という契機に繰り返し触れながらもそれを純粋な自然からの堕落として位置づけようとするルソーの議論を転覆させている。その転覆の身振りをデリダと完全に共有しつつ、デリダが言語的分節化に与えている役割をそのまま技術的外在化に置き換えているのがスティグレールである。ただし、スティグレールは言語的分節化は代補の機能を果たさないと述べているわけでも考えているわけでもない。スティグレールの主張は、言語的分節化と技術的外在化は権利上区別されるべきであり、その上で技術的外在化をより根源的なものであると考えなければならない、ということである。スティグレールは言語的分節化の問題を論じている『技術と時間II』では、代補の運動と技術的外在化、言語的分節化の関係について次のように述べている。

あらゆる代補は技術であり、そしてあらゆる代補的技術はプログラムを《外在化》する記憶の支持体である。しかしあらゆる技術的代補が一方で記憶化の技術であるわけではない 。*23

ここではふたつの技術が区別されている。というよりも、技術一般からとくに「記憶化の技術」が区別されているというのが正確なところだろう。ここで「記憶化の技術」と呼ばれているものは他のところでは「記憶技術mn?motechnique」と呼ばれているものであり、端的に言えば象徴的分節化を通して記憶を外在化する技術である。言語はこの「記憶技術」の一部を構成するものとしてスティグレールによって理解されている。しかし技術の歴史は「記憶技術」の歴史に還元されるものではない。「記憶技術」と区別されて「技術システムsystem technique」と呼ばれる技術の一般的な地平は、「記憶技術」の出現以前からつねにすでに代補の運動を働かせていたとスティグレールは捉えている。人類そのものの歴史から見れば、「技術システム」による代補が先行し、その代補をある時点から「記憶技術」の代補が重層決定するようになった、というのがスティグレールのヴィジョンである。

技術的個体化の過程のなかで、新石器時代になると、記憶技術という下位システムの個体化が出現する。この下位システムは、技術一般の個体化が形づくる技術システムから身を引き離し、そしてそこにおいて文字化の過程が展開されていくことになる 。*24

「技術システム」と「記憶技術」とのこの区別は、物質をいかにして考えるかという問いを避けえないものとする。デリダの「脱構築」の問題圏はつねに言葉にあったから、物質の問いは最終的には「物質」という言葉の問いへと縮減されえた。「記憶技術」の次元での代補の運動は、象徴の次元での反復可能性によってもたらされるものであるのだ。しかしながら「技術システム」固有の次元は、そういった象徴次元での反復可能性とは別の次元の反復可能性によって組織されている。そこでは、いわば物質的反復を考察しなければならないのだ。その物質的反復を考察するための概念が外在化である。
 「起源」の読解において不器用に物質的反復と記号的反復と呼ばれた二つの反復は、スティグレールが「技術システム」と「記憶技術」と呼ぶものの別の名であった。すでに述べたように、デリダは物質の問題にも踏み込みながらも、そこに独自の反復の層、物質的反復の層が成立していることを見ることはなかった。そしてスティグレールの技術哲学の出発点は、デリダが作り上げた概念装置をもちいてデリダが正面から取り上げることのなかった物質的反復の問題を考察することである。

*1:幾何学の起源 J・デリダ序説』p245

*2:ibid,p249,250〔一部改訳〕

*3:ibid,p251

*4:『グラマトロジーについて 上』,足立和浩訳,現代思潮社,p128,129

*5:ibid,p220

*6:ワードプロセッサー」,『パピエ・マシン上』,中山元訳,ちくま学芸文庫

*7:「タイプライターのリボン 有限責任会社II」,ibid,p197

*8:ibid,p196

*9:ibid,p.242

*10:ibid,p.243

*11:ibid,p.250

*12:「基底材を、もしこう言ってよければ「物」そのものを」,『基底材を猛り狂わせる』,松浦寿輝訳,みすず書房,p.41

*13:ibid,p10

*14:ibid,p.94,95

*15:ibid,p.119

*16:『グラマトロジーについて 下』p283,284

*17:『グラマトロジーについて 上』,p11

*18:Bernard Stiegler, La technique et le temps 1. La faute d’?pim?t?e, Paris, Galil?e,p112

*19:『グラマトロジーについて 下』,p.168,169〔一部改訳〕

*20:ibid,p.191

*21:ibid,p.199

*22:“La technique et le temps 1”.p.125

*23:“La technique et le temps 2”,p.16

*24:Benard Stiegler,“De la mis?re symbolique 1”.,Galil?e,p141,142