故障したコンピュータは電気狂人の夢を見るか――物質的脆さについての試論――

以下に載せるのは、知り合いが発行した「クロニック・ラヴ」という同人誌に掲載してもらった文章です。

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1、フッサール:コンピュータ画面の現象学

 この文章を書きだす前に、おそらく一分ほどの間、なにも書かれていないまっさらなワードのシートを眺めてみた。まっさら、とはいってもむろん上部にはさまざまな機能を示すアイコンが並んでおり、下部にもその他のウィンドウの一覧が並んでいる。またワード文書の白地の部分についても、一か所、黒いカーソルが点滅している。とにかくそういった画面を眺めながら、トール・ノーレットランダーシュの『ユーザー・イリュージョン』*1という書名を思い浮かべていた。くしくもダニエル・デネットの『解明される意識』*2と同年に出版されたその本では、コンピュータをモデルとすることで、人間の意識というものをコンピュータによる計算の効果として生まれる「イリュージョン」とみなす、という考え方が提示されていた(上記のデネットの本でも同様だ)。
 そこで、コンピュータのスクリーンやそこに並ぶさまざまなウィンドウをモデルとして人間の意識を理解する、という発想をひとまずは真に受けてみよう。さて、自分がいま目にしているまっさらなワードの画面を、その通りに自分の意識の現象形態であると考えることに自分はリアリティーを覚えることができるだろうか。しかしここではまだ、この問いは問いのままに留めておくことにする。
 一瞬話が飛ぶようだが、エドムント・フッサールが提唱した現象学は、世界に実在しているモノへの信念をいったんカッコに括り、まずは意識に現れる現象そのものから出発すべしという公準をもっている。意識に現れるその現象から出発し、そこから遡るようにして、その現象を構成しているさまざまな作用(意識の志向性)や要素(質料)を取り出して行く、というのがその分析の手順だ。「ものそのものへ」というキャッチフレーズを携えているこの現象学は、しかし、パソコン画面に没入する意識というものを前にする時、いささか戸惑わざるをえないだろう。
 何よりもまず問題となるのは、画面に向かい合う意識に現れる現象を構成する諸作用というものを考えようとするとき、さまざまな感性的対象を画面上に生成するコンピュータの計算処理をどのように位置づけるのかという点だ。たとえば『イデーン*3で提示されている分析枠組を厳密に適用するならば、コンピュータの計算処理はあくまでも意識を触発する質料(ヒュレー)の問題であるとされ、特定の対象を生み出す能動的な地位を与えられることはないだろう。「意識に現れる現象が(部分的にであれ)コンピュータの計算処理によって生成される」という言明は、コンピュータという意識外の対象に準拠しているため、現象学の出発点となる公準に違反することになってしまうからだ。しかし、画面に向かい合う意識という具体的な事象を前にして、コンピュータによる計算処理の働きをすべてカッコに入れざるを得ないのだとしたら、現象学とはなんとも心許ないではないか。
 これはフッサールにつねにつきまとう問題であるのだが、形相と質料との関係、この場合では、対象を能動的に構成する意識とその意識を受動的に触発する外界との関係に関する古典的な見解がここにも顔を出す。意識とは現象を産出するいわば最終審級であり、意識をなんからの形で産出する外在的存在というものは、現象学では原理的に排除されるのだ。しかしこのような議論の枠組みには、コンピュータを操作する意識という場面を念頭に置く際には、根本的な問題があるのではないだろうか。そこでは意識はいくぶんかは、コンピュータの計算処理によって構成されている、とは言えないだろうか。


2、デリダエクリチュールとコンピュータ

 ところでフッサールは、絶えず自己の足元を掘り崩していくことで自身の理論を進展させていく稀有な哲学者であり、その最晩年の試論である「幾何学の起源」では、出来事の特権的な場としての意識の地位を根本的に相対化させる主張を行っている。フッサールはその試論のなかで幾何学の歴史の成立条件を論じるにあたって、幾何学上のそれぞれの成果を後続の幾何学者たちにアクセス可能にする文字が、幾何学の成立に根本的な役割を果たしていると主張して次のように述べているのだ。

直接間接の人格的話しかけを必要とせずに伝達を可能にすること、いわば潜在的になった伝達であることが、文字に書かれ、記録された言語表現の重要な機能である。このことによって、人類の共同体化もまたある新しい段階へと高められる*4

 このように述べられるとき、幾何学者の意識というものは、本質的に意識に外在する文字と、いわば内的な関係にある。その意識に生じる出来事は、フッサールによれば文字というインターフェースにおいて生じるのだ。そこでは意識は、ある本質的な形で特定の文字を通して構成されている。
 フッサール現象学の文脈上で明らかに異質なこの主張に、エクリチュールの哲学者ジャック・デリダが着目したのは必然的な成行きだったと言える。デリダエクリチュールについての自身の思想の出発点として「幾何学の起源」を選び、その翻訳に長大な序説を付して出版することでデビューを飾った。その後デリダは、その最初の書物でフッサール批判という形で行った、意識を構成するものとしての文字というこの問題を、グラマトロジー(文字論)という表題のもとで一般的な理論にまで練り上げることになる*5。そこでは人間の意識というものが、生命の遺伝的プログラムからコンピュータのプログラムにまでいたる文字の系譜のなかに位置づけられることになる*6。その議論に則るならば、意識は、特定の文字によって一方的に産出されるものではないにしても、少なくともつねにすでになんらかの文字との相互作用において構成されているのだということになる。
 デリダが展開するこの主張は、いうまでもなくコンピュータと意識との関係性を俎上に乗せる際に新たな光を投げかけてくれる。フッサールが扱った幾何学者の意識が、通常の文字の読み書きを通して構成されているのだとすれば、コンピュータの画面をインターフェースとして生み出される意識はどのようなものとなるだろうか。デリダのグラマトロジーは、文字と意識の系譜学、という視座を与えてくれるのだ。しかしさらに踏み込んで考察を進める前に、この問題の理解を助けてくれると思われるもう一本の補助線を引こうと思う。それは、デリダの弟子でもあるベルナール・スティグレールによるフッサール批判だ。


3、スティグレール:意識と忘却

 ベルナール・スティグレールは、デリダのグラマトロジーを批判的に継承することで、技術あるいはテクノロジーの問題という観点からプラトン以来の西洋哲学総体の再解釈を試みているフランスの哲学者だ。スティグレールにはすでに20冊を超える著作があるが、そのなかでも彼の哲学的プログラムのいわば骨組みの部分を展開しているのが『技術と時間』シリーズである*7。1996年に刊行されたその第二巻『方向喪失』*8ではフッサールが俎上に乗せられ、とりわけその時間論が詳細に検討されている(第四章)。
 スティグレールが扱っているのは、『内的時間意識の現象学*9にまとめられているフッサールのいわゆる初期時間論だ。その時間論の中心をなしているのは、過去把持と想起という記憶の二つのモードの区別だ。想起というのは、一般的に言及されるところの記憶で、かつて生じた出来事を思い返す作用だ。それに対して過去把持というのは、たった今過ぎ去ったばかりの記憶を意識の現在のうちに保持しておく作用であり、フッサールによれば、この記憶作用は「意識の今」に属している。つまり、「意識の今」というのは時間軸上の点であるのではなく、直前の記憶を保持することによって一定の時間的「広がり」を有している、というのがフッサールの主張だ。フッサールは「今」を拡張するこの過去把持を、「彗星の尾」という比喩で説明している。
 フッサールは意識の時間性を構成するこのような構造を、メロディーを聴く意識、という事象を題材にすることで分析していく。メロディーを聴くという事態を理解するためには、意識の現在というものを、たんなる点の連続として捉えることはできない。メロディーをメロディーとして理解するためには、現在聴きつつある音の中に、直前の音がなんらかの形で浸透していなければならない。メロディーを聴く意識の現在を構成しているのは、このように、直前の音の記憶が現在の音に浸透しているという、「拡張された今」であるのだ。
 このようなフッサールの議論を検討していくスティグレールの手つきの独自性は、その時間論を、フォノグラムというメロディーを機械的に再生することを可能とする機器を脇に並べて捉え直していくという戦略にある。そこで試されるのは、フッサールの時間論は、機械的に再生されるメロディーを聴くという意識の体験、それも繰り返し聴くという意識の体験を説明できるのかという点だ。そしてその分析の結果明るみに出されるのは、フッサールのある忘却である。それは、忘却の忘却、すなわち、たえず忘却していくという意識の性質についてのフッサールの忘却だ。
 端的にいって、意識の記憶能力には限界があり、スティグレールはこの限界を、デリダの用語を借りて「把持の有限性」と呼ぶ。フッサールは「意識の今」に属する過去把持について論じるのだが、そこでは過去把持が、過ぎ去ったすべての記憶を潜在的には保持しておけるということが暗黙のうちに前提とされている*10スティグレールはこの前提に対し、フォノグラムを通して同一の音を繰り返し聴くという経験を喚起することで、そこにはつねに忘却の作用が働いていることを示す。機械的に記録された完全に同一の音を繰り返し聴くとき、そこにはそのつど異なる聴取の経験が実現する。スティグレールはこのありきたりな事態を、忘却とそれをつかさどる基準の働きという観点から説明する。人間の有限な意識はすべてを聴きとることはできず、またすべてを保持しておくこともできない。それゆえそこにはつねに忘却のプロセスが働くのだが、忘却が生じるためには、何を忘れ何を覚えておくのかというなんらかの基準が必ず伴うことになる。聴取に先だって存在しているいわば経験の基準というものが、あらかじめ聴取の可能性を構造化しており、その基準に則って聴取が行われるのだ。そして、そこで実現する聴取の経験が、こんどは経験の基準を豊富化していくことになる。絶えざる忘却をともなうこういった循環プロセスを通して経験の基準がつねに変容していくために、一度として完全に同一の聴取は存在しない、というのがスティグレールの主張だ。
 このようにスティグレールは、フッサールがその時間論において過去把持という概念を導入することで行った意識の時間と記憶の分析を、フォノグラムという機械的記録/再生技術の光で照らしだすことで、忘却のエコノミーという観点から捉え返していった。フッサールの前提に反し、意識はつねに忘却とともに流れていくのであり、その忘却のエコノミーを正面から捉えていく必要があるというのだ。この忘却のエコノミーというものを考えるに際しては、テクノロジー(この場合はフォノグラム)はたんにそれを浮かび上がらせる契機にはとどまらない。むしろ、その忘却のエコノミーそのものを根底から支えているのが技術あるいはテクノロジーなのだ、というのがスティグレール
主張だ。その点を端的に表現しているのが、フッサールの区別を位置づけ直すことで作り出された、一次的過去把持、二次的過去把持、三次的過去把持というスティグレールの区別である。


4、スティグレール:過去把持の三つのタイプ

 一次的過去把持rétention primaireと二次的過去把持rétention secondaireとはそれぞれ、「意識の今」に属する過ぎ去ったばかりの記憶を保持する過去把持と、すでに完全に過ぎ去った記憶を改めて思い出す想起、というフッサールの区別に対応するものだ。スティグレールはこの二つに、三次的過去把持rétention tertiaireなるものを加える。これは、技術的媒体に記録された外在的記憶を指し、さきほどの例でいえばフォノグラムによる記録がそれに当たる。
 フッサールは、スティグレールが三次的過去把持と呼んだような外在化された記憶に触れてはいるが、それはたんにそのような記憶は彼の問題の範疇外にあるということを示すためだけにである*11フッサール現象学では、現象というできごとはつねに意識という場においてしか起こらないのだ。フッサールにとっては、メロディーがオーケストラで演奏されようと、フォノグラムで再生されようと、あるいはipodで再生されようと、まったく関係がない。しかしスティグレールはこのような発想に明確に反対する。というのも、意識の記憶と忘却のエコノミーは、つねにそれを支える技術的記憶の体制から出発することによってしか理解できないからだ。
 スティグレールは上に挙げられた三つの過去把持の関係を、端的に「一次的過去把持と二次的過去把持の関係を、三次的過去把持が重層決定する」という表現で定式化している。意識は、二次的過去把持という記憶のリソースを元手にしながら、「意識の今」においてたえず記憶の選別を行っているが、そのプロセスの総体は、意識を取り囲みサポートする三次的過去把持の体制によって条件づけられている、というのだ。
 スティグレールはこの議論をまずは文化産業論という文脈の中に位置付けているが、その事例は確かにわかりやすい。たとえば一本の映画を観るという体験には、すくなくとも、それまでに見てきた多くの映画の記憶がなんからの形で合流している。映画を観賞するその時間のなかで、ぼくらはさまざまな記憶を喚起させられることになる。その記憶そのものは、もちろん個々人の頭のなかに蓄えられた二次的過去把持であるが、それが映画にまつわるさまざまな技術や制度によって可能となった総体的な三次的過去把持を環境としていることは間違いない。
 このことはたんに、参照できる記憶のリソースだけに関する事態ではない。たとえば映画評論家の蓮實重彦がどこかで語っていたことだが、家庭用ビデオデッキというものが存在しない時代、映画館で映画を観るときには、その機会を逃したらもう一生その映画を再び観ることができないかもしれない、という緊張感があった、という。それだから彼は、映画を構成するシーンをすべて記憶するぐらいの気持ちで観ていた、とも。もちろんそこには氏が有する特殊能力も関係しているだろうが、しかし同時に、映画への技術的・制度的なアクセス環境そのものが、映画を観るという一次的な経験そのものの体制に影響を及ぼす、という一般的な事態が見て取れるだろう。あらゆる情報がデジタルアーカイブに一元化されつつある、という感覚がどことなく共有されているように思われる現在では、蓮實氏が語っていたような「今」に向けられる集中力というのは、絶対に不可能ではないにしても、傾向的には淘汰されていく方向にあると言えるだろう。フリードリヒ・キットラー風に述べるならば、意識の「書き込みシステム」は、技術の「書き込みシステム」の体制を暗黙のうちに頭の片隅に置いており、そのことによって、自身の負担をさまざまな形で節約しているのだ。


5、再びコンピュータ画面と意識
 
 ここで、コンピュータに向き合う意識という事象に再び立ち戻ってみよう。フッサールは、そしてその議論を受けてスティグレールは、メロディーを聴く意識というものを題材にして、意識を構成する時間性を分析していった。それではそこで取り出された成果を、コンピュータに向き合う意識へと適用すると何が見えてくるだろうか。
 とりあえずはネットサーフィンをしている意識というものを考えてみよう。スティグレールのモデルに従えば、そこでは一次的過去把持、二次的過去把持、三次的過去把持という三つの記憶の審級が作動している。
 まず、一次的過去把持について考えてみよう。書物の場合には、「意識の今」という一次的過去把持の計算処理は、文字を追っていく眼球の運動や、ページをめくる手の動きと連動していた。対してコンピュータの場合、その計算処理はキーボードのタイプやクリックといった指の動きと連動している。さらに、その動きによって引き起こされる画面上の動きは、当然ながら、書物の場合のような物理的制約からは解放されている。そこでの画面転換の法則を司るのは、物理学ではなくヴァーチャルなリンク構造である。書物をめくる際に基本的な物理法則が暗黙のうちに念頭に置かれているように、クリックをする際にもその構造が念頭に置かれている。このような環境の中で、コンピュータ画面に向きあう意識は体験を組織する。
 次は二次的過去把持だが、この機能は、コンピュータという環境によって大きく縮減することになると思われる。というのも、コンピュータあるいはネットワークによる外在化された記憶が、それまで二次的過去把持に課せられていた役割を、相当程度、代替していくことになると思われるからだ。もちろん書物においても、書物への書き込みやメモ取りなどの三次的過去把持は大きな役割を有していた。しかしコンピュータというテクノロジーは、記憶および記憶の組織化という点で圧倒的な効率性を発揮することになる。文字情報であれば、まったく場所を取ることなくほとんど無限に情報を貯めこんでおくことができるし、音声や映像に関しては、記録保存の効率性はもちろんだが、さらにはこれまではほぼ全面的に個人の二次的過去把持に頼らなければならなかったそれらへのアノテーションやタグ付けによる構造化が、コンピュータ上で可能となる。また「お気に入り」に登録することで、二次的過去把持による記憶を、三次的過去把持への記録(というよりはリンクの保存)へと委譲するという身振りも、今日ではきわめて一般的なものとなっている。
 加えて、ナビゲーションという側面について考えてみよう。書物の場合、意識の流れをナビゲーションする役割を外在化するものとして、文字の線的な流れに加え、目次やページ、それに索引などが組み込まれている。さらには内容上で、他の書物への参照がなされていることもある。一方、コンピュータの操作やあるいはインターネットをサーフィンする場合には、ナビゲーションはさまざまなアイコンやリンク構造によってなされる。これに関しては、感覚的、直感的に把握できるようなレイアウトが日々開発されている。つまり、意識への負荷がどんどん外在化されつつあるのだ。意識がきわめて容易にインターネットの世界にかくも深く、かくも長時間にわたって没入することができるのは、このように意識が能動的に果たさなければならない役割が相当程度、外在化されているからだと思われる。
 ところで、コンピュータに向き合う意識の記憶のあり方という問題に関して、少々脱線を許していただきたい。筆者が小学校の高学年生だった頃、ある瞬間に、もし誰かが死んでも教会で復活させることはできないのだという当たり前のことに思いが至って驚愕したということがあった。この「教会」というのはもちろんRPGゲームの『ドラゴンクエスト』の教会のことだが、そのことに驚いたのと同時に、小学校高学年ともなれば多少の分別はついているので、人間の生死といったもっとも深刻な領域でのリアリティーに、ゲームを通して培った感覚がこれほどまでに深く浸透しているということにも、強く驚いたのだった。人間が死ねば生き返ることはできない、ということはもちろんその当時も頭では完全にわかっていた。しかし感覚のレベルでは、あたかも「ザオリクは存在する」と信じていたような節がどこかにあったのだ。
 現在、誰もがコンピュータに触れ、またネットに接続しているという状況にあって、「ザオリクは存在する」ではないけれど、「忘却は存在しない」という感覚レベルでの信憑のようなものが広がっているのではないか、という気がする。少なくとも、自分のなかにはそのような感覚がどこかに潜んでいるように思えてならない。たとえばある歴史的な事柄について詳しく覚えていなくても、「ググればすぐにわかる」という感覚はつねに頭のどこかにあるような気がする。
 さまざまな物事を記憶しておくことや、記憶された内容を構造化しておくこと、あるいはさまざまな情報をたどっていく際の方法論などは、これまではその大部分が意識に内在化された能力として具体化してきた。そしてその能力の発達は、かならず意識そのものへと書き込まれた。しかしコンピュータというテクノロジーは、それらの多くを外在化することを可能とした。そのため、かつては意識によって実行され、そしてそこに書き込まれていった能力は、今後はコンピュータへと書き込まれることになった。とはいっても意識が完全にお払い箱になるということではもちろんない。そこでは、まったく新しいタイプの能力、コンピュータへと外在化された能力をうまく制御するための能力が、意識へと書き込まれるようになったのだ。


6、コンピュータと脳

 ここでいったんデリダに立ち戻る。フッサールの批判を通して、デリダが意識を構成する審級としての文字という考え方を推し進めたという点についてはすでに説明した。しかし、「幾何学の起源」で問題となったようないわゆる読み書きされる文字と、コンピュータを構成しているデジタルの文字(つまり0と1)との間には、大きな断絶がある。それは、前者が人間の意識によって扱われる文字であるのに対し、後者は機械によって扱われる文字である、という点だ。
 たとえば、いわゆる文字を読んだり書いたりする時、意識の思考の流れは、そこで扱われる文字そのものの形式によって構造化される。そこでは意識そのものが文字の形式を直接に経由するのだ。しかしコンピュータを画面上でカーソルやアイコンに頼って操作する時、意識は0と1で構成される文字を直接に経由することはない。0と1で織りなされる際限のない計算処理を直接に扱っているのはコンピュータという機械であり、意識はというと、ヒューマン・インターフェースを通して間接的にその処理を統御しているにすぎない。
 つまり両者での意識と文字との関係は、一方が直接的であるのに対して他方が間接的であるという違いがあり、だとすれば、「文字が意識を構成する」と一言で言うにしても、その内実には大きな差異が生じることになる。読み書きしているときには当然ながら意識は、文字が何をしているのかを知っている。しかしコンピュータを操作するという段になると、ほとんどの場合、意識は文字が何をしているのかを知らない。この文章を書いているとき、意識が行っているのは日本語の入力であるが、しかしその入力作業の実現は、0と1とが織りなすコンピュータによる得体のしれない計算によって遂行されている。
 ところで、人間と機械とのインタフェースの地点に見られるこのギャップは、意識と脳との関係とある部分ではパラレルである。たとえば意識がコップを持ちあげるとき、脳ではニューロンが活発に行き来するが、もちろん意識はそのことを知らない。しかしそのような並行関係が見られるとして、だからなんだというのか。
 ここに来て唐突に脳について言及することになったが、本当のことを言えば、脳の問題はこの文章の出発点にあった。いや、この言い方はあまり正確ではない。正確を期するためには、「サーバーパンク」というキーワードに言及する必要がある。


7、マラブー:「サーバーパンク」なる奇妙な語と「新しい負傷者」
 
 そもそもこの文章を書くきっかけとなったのは、「サーバーパンク」という奇妙な語だった。まずは知人から、「サーバーパンク」という造語を出発点として同人誌を作りたいという話を聞き、また同時にこの言葉をめぐって何か文章を書いてくれないか、と頼まれた。その依頼のメールには合わせて、関連する用語として「サーバ」や「パンク」、「輻輳」といった言葉を説明するwikipediaのページのリンクが張られていた。なんとなくそれらを眺めているうちに、コンピュータへの指令が社会活動の最もベーシックなインフラとなっているというぼくらを取り巻く現状と、「物理的な故障」というものがもつある種の想像喚起力との組み合わせに興味を覚えていった。そのときに思い至ったのが、フランスの現代の代表的な哲学者の一人であるカトリーヌ・マラブーが2007年に出した『新しい負傷者たち』*12という書物だった。
 これは、マラブーの祖母がアルツハイマー病に罹り記憶を喪失していったという個人的な体験と、彼女がそれまで積み重ねてきた哲学との格闘との交差点で書かれたとされる書物だが、そこで問題となっていたのは、脳の「物理的故障」というものが有する哲学的なステータスであった。
 アルツハイマー病による記憶の喪失は、心理的に引き起こされるものではなく、脳という意識のハードウェアそのものの故障によるものだ。このような故障という事態への着目は、哲学の文脈ではフロイト精神分析との批判的な関係を必然的に帯びることになる。そもそも「新しい負傷者」が対比させられる「古い負傷者」とは、フロイトのトラウマ理論にインスピレーションを与えた、第一次世界大戦の負傷兵のことを指している。そのトラウマ理論のなかでフロイトは、トラウマの原因を最終的には家庭内での心理的出来事へと還元していた。つまり「古い負傷者」とは心理的な場面に限定される負傷者であり、それに対してマラブーは、心理へと致命的な影響を及ぼす物理的故障を負った「新しい負傷者」に着目しようというのだ。
 この対比とセットをなすものとしてマラブーは、フロイトによる「セクシュアリティー」という概念との対比で、「脳因性cérébralité」という概念を提案する。これは、性を原因として「出来事を生み出す体制」を指し示す概念である「セクシュアリティー」の脳バージョンとして、心的出来事を生じさせる脳次元での作用体制を指し示す概念だ。アルツハイマー病に罹ったマラブーの祖母の記憶喪失という「出来事」をもたらしているのは、フロイトが扱ったような性という心理的領域ではなく、脳という物理的領域であり、「脳因性」とは、このような事態を指し示すための概念だ。
 マラブーが提起しているこの議論は、そこで直接的に扱われている脳という領域に限定されるものではない。そこでは、心的出来事を最もベーシックな次元で支えていると同時に、場合によってはそれに深刻な影響を及ぼしうる物理的なインフラの働きというものが考察されているのだ。意識は、たんに脳の物理的な構造へと還元しうるものではないが、しかしその物理的な構造による支えがなければ、そもそも意識そのものが存在しえない。そして、その物理的構造の深刻な故障は、意識そのものに致命的な破綻をもたらしもする。意識とそれを支える物質的な次元との、相対的に自律した関係性を哲学はどのように捉えていくことができるのか。これが、マラブーによる問題提起の核心であると思われる。


8、文字と物質性

 意識の物理的なインフラの崩壊に焦点を当てたマラブーの議論は、先に挙げたスティグレールの議論との対比としても非常に興味深いものだ。すでに述べたように、スティグレールは人間の有限性、とりわけ把持の有限性に焦点を当て、そこに生じる記憶のエコノミーの問題を技術やテクノロジーの観点から論じていったのだった。それらのテーマは、人間の意識を構成する物質的な層に関わるものだが、マラブーもまたこの同じ層に目を向けながら、相当に毛色の異なる議論を展開している。一言でいえば、スティグレールが把持の有限性にともなう忘却(と技術によるその代補)を扱っているのに対し、マラブーは崩壊あるいは故障というよりラディカルな物質的出来事に焦点を当てるのだ。
 ただし忘れてはならないのは、マラブーが問題としたような物質的な「パンク」は、デリダがその最初期のフッサール批判の中ですでに取り上げていたものであるという点だ。デリダは文字に不可避にともなう「危機」について次のように述べていた。

客観性の保証である文字記号は事実上毀損することもありうる。この危険は書き込みそのものの事実的世界内性に固有のものであり、何ものもこの危険からそれを決定的に保護することはできない。このような場合、ひとまずこう考えてよさそうである。フッサールにとって意味は即自でも純粋な精神的内面性でもなく、徹頭徹尾「対象」なのだから、客観性の番人である記号の崩壊に続く忘却は、「プラトン主義」や「ベルクソン主義」におけるように、忘却によって傷つけられることのない意味の表層ですむものではないだろう、と*13

これにつづけてデリダは、「一切をなめつくす大火、世界中の図書館の消失、遺物あるいは「資料」一般の破局」という事態に言及している。この事態は、マラブーにインスピレーションを与えたアルツハイマー病のまったくの等価物ではなかろうか。マラブーの祖母は、以前の記憶を完全に喪失したまま、それでもその心そのものは空白のまま生きつづけている。同じように、もし全面的な資料喪失が幾何学を襲ったとすれば、すべての記憶、すべての蓄積は無に帰することになる。ただし、潜在的幾何学者たちの無垢な魂はそのままに。
 このとき問われるのは、文字という存在の二重性だ。たとえばフッサールが論じた幾何学的対象は、文字を通して構成されるものだが、それは机や椅子のようにどこかに存在しているわけではない。それは幾何学が構成するというヴァーチャルな平面にのみ存在するヴァーチャルな対象だ。しかしそのような対象を構成する文字そのものは、必ずなんらかの物質的な支持体に書き込まれる必要があり、それゆえ物質的に毀損しうる。そしてデリダが述べているように、ヴァーチャルな対象を構成する物質的な文字の物質的な毀損は、ヴァーチャルな対象そのものを不可能たらしめる。
 これと同じ構図は意識にもほぼその通りに見られる。人間の記憶は実在するものではない。ベルクソンが『物質と記憶』のなかで論じているように、記憶された事柄は、実在したかもしれなかった出来事そのものとは異なり、本質的にヴァーチャルな対象だ*14。もちろんベルクソンの想定とは異なり、その記憶は有限で忘れ去られうるもの、すなわち脳という支持体に物質的に書き込まれたものにすぎない。この点で、多くの論者がそう論じてきたように(そのなかにはむろんフロイトの名もある)、記憶を一種の文字の書き込みと捉える発想は正当であると言える。記憶は、ヴァーチャルな対象を産出するリアルな書き込みという文字的なプロセスによって構成されるのだ。
 文字の有するこのような性質を押さえておくと、コンピュータがまぎれもなく文字の系譜に連なる存在であることが明白になる。コンピュータによる計算を通して画面上に生成される諸対象は、いうまでもなくヴァーチャルなものだ。しかしそのヴァーチャルな諸対象は、コンピュータというリアルな存在によって生成されている。そこでの従来の文字との違いは、かつては文字がヴァーチャル化した諸対象をアクチュアルにするのは、あくまでもそれを読み取る人間の意識の仕事であったのに対し、今ではコンピュータそのものがヴァーチャルな諸対象を画面上にアクチュアルにするという点だ。この点でも、コンピュータはまさしく意識になぞらえるにふさわしく、そして忘れてはならないが、そこで実現されるヴァーチャルな諸内容は、物質的毀損によって致命的な損害を受けることになる。「サーバーパンク」という標語が生き生きとしてくるのは、このようなパースペクティブのもとにおいてだと思われる。
 

9、物質性の二つの側面と「サーバーパンク」

 ベルナール・スティグレールは先に挙げた『方向喪失』のなかで、コンピュータの計算処理にともなう不可欠の物質性が、アラン・チューリングによるチューリング・マシンの構想時点ですでに忘却されているという事実を指摘している*15。コンピュータはこのリストの最終列に位置している。そこでは、古来より人間の知的能力を構成する基本要素とされた、記憶力、想像力、理性が徹底的に外在化される。人間にとっての「できること」のエコノミーが、現在、有史以来もっとも深く技術あるいはテクノロジーによって浸透されていることは間違いない。その事態を端的に現しているのがコンピュータであり、ぼくらに「できること」の大部分は、そのつどコンピュータ画面上に描き出される。
 このとき忘れてはならないのは、ぼくらがその画面に投影する「想像的なもの」を支えているのが、コンピュータによる計算処理という(非人間的な)「象徴的なもの」と、さらには最終的なインフラとしての物質的な支持体であるという点だ。サイバーパンクは当時の最新のテクノロジーを依りしろとして、想像的なものへと存分に没入した。これに対して「サーバーパンク」が提起するのは、「想像的なもの」を支える物質的な次元と同時に、「パンク」という言葉を通して、そこに懐胎されているまったく新たなカタストロフの可能性だ。交通網の整備によって立ち上げられた速度の体制が交通事故(その残骸は不気味なモノ以外の何物だろうか)を発明したのだとポール・ヴィリリオが述べるような意味で*16、コンピュータ・ネットワークが可能とした未曾有の速度は、まったく新しい種類の事故の可能性を発明しているにちがいないのだ。

*1:トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』、柴田裕之訳、紀伊国屋書店、二〇〇二(原書は1991)。

*2:ダニエル・デネット『解明される意識』、山口泰司訳、青土社、一九九八年(原書は1991)。

*3:エドムント・フッサールイデーンI-I』、『イデーンI-II』、渡辺二郎訳、みすず書房、一九七九年。

*4:エドムント・フッサール『「幾何学の起源」への序説』、p.272。

*5:ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上、下巻、足立和浩訳、現代思潮社、一九七二年。

*6:「ルロワ=グーランが敢えて用いた表現を受け入れるなら、われわれは「記憶の解放」について、また痕跡の、つねにすでに始まってはいるがつねにすでに増大した外在化について、語ることができよう。この外在化は、いわゆる「本能的」行動のプログラムから電子的分類索引、翻訳機械の構成にいたるまで、差延と保蔵化の可能性とを拡大する。この可能性は、同一の運動において、いわゆる意識的主観性、そのロゴス、その神学的諸属性、を構成すると同時に抹消するのである。」、同上(上巻)、p.176〔訳語は修正〕。

*7:2009年現在で、六巻まで予告されているうちの三巻まで刊行。一巻の『エピメテウスの過失』は西兼志訳で法政大学出版会より邦訳がさきほど刊行された。

*8:Bernard Stiegler, La technique et le temps2. La désorientation, Galilée,1996.

*9:エドムント・フッサール『内的時間意識の現象学』、立松弘孝訳、みすず書房、一九六七年。

*10:Cf,「すべてを過去把持的に保持しているような意識も理念的にはおそらく可能であろう」(エドムント・フッサール『内的時間意識の現象学』,p.43。)

*11:「意識的な模写性(絵画・胸像など)の場合のように相似の客観による再現が問題になっているのではない。」(エドムント・フッサール『内的時間意識の現象学』、立松弘孝訳、みすず書房、一九六七年、p.78)

*12:Catherine Malabou, Les nouveaux blessés, Bayard, 2007.

*13:ジャック・デリダ『「幾何学の起源」への序説』、p.138。

*14:Cf, 「過去は本質上ヴァーチャルなものであり、暗闇から白日下へと出つつ現在のイマージュへと開花するその運動を、私たちが、追跡しかつ取り入れる場合にのみ、過去として私たちによってとらえられうるのだ。」(アンリ・ベルクソン物質と記憶』、田島節夫訳、白水社、一九九九年、p.153、〔訳語は修正〕)

*15:Cf, 「容易に理解されるように、ここでは補助はそのものとしては考察されず、この文脈では支持体は瑣末な問題である。なぜなら重要であるのは、形式的で抽象的なモデルが、原則的には変質をこうむることなく様々な形で実現しうることを示すことだからだ。しかしながらこのことに含意されているのは、理論的なモデルにおいては、機械のリボンが構成する記憶が無限であるということだ。形式的なモデルによっては考察されえないのは、把持の有限性であるのだ。」(Bernard Stiegler, La technique et le temps2. La désorientation,p.191)))。チューリング・マシンを構成するのは、計算プロセスであるプログラムと、その計算結果をパンチとして記録するリボンとであるが、その際チューリングは、記録媒体であるところのリボンには権利上限界がないと想定している。スティグレールはこの想定のうちに、フッサールの時間論に見られたのと同様の形而上学的予断を見て取る。実際スティグレールは、その想定がたんにコンピュータの構想にとどまらず、それ以後のコンピュータをモデルとして人間の意識を捉え直していく発想の根底に留まりつづけたことを浮かび上がらせていく。  デリダおよびマラブーの議論を踏まえるならば、スティグレールが記憶の有限性という観点から注意を促している物質性という問題に関して、崩壊や毀損という観点も付け加える必要があることは、もはや明らかだ。コンピュータという存在にともなう物質的な有限性と毀損可能性、この二つは、「サーバーパンク」という新しい名に冠されるべき二大看板ではないだろうか。  一方で、容量過多やそれにともなう処理速度あるいは通信速度の限界は、サイバースペースという言葉が喚起する快感原則の世界に現実原則によってフラストレーションを課す。他方で、パソコンの故障や場合によってはハードディスクの毀損は、記憶のほとんどをそこに貯めこんでいるぼくらをしばしば茫然とさせる。ヴァーチャルな世界を縁取り支え、同時に事あるごとに顔を出してくるこれらのリアルなものは、コンピュータがもたらしたさまざまなポジティブな側面の裏側で、ある種のネガティブなリアリティーを確かに生み出していると言えるだろう。 10、もう一つの現実界へ  最後に再び、この小論の出発点にあった光景に立ち戻りたい。ワープロソフトが立ち上げられたこの画面、ヴァーチャルな書き込み平面だ。マラブーが仮想敵とした精神分析の言葉づかいを借りるならば、この画面そのものは「想像的なもの」にあたる。ぼくは、ここに書き込まれていくテクストが、すでに誰かに読まれているとどこかで信じている。実際にそれが読まれるには、印刷され、製本され、頒布されるという具体的なプロセスが必要となるが、しかしその以前にすでに、ここに書き込みつつあるテクストを、ぼくは「誰か」と共有している気になっている。そもそもそれがなければ、何事かを書くという行為は不可能であるのだ。先取りされた他者が出現する空間、それが画面という想像的な場所だ。  しかし「象徴的なもの」が問われるとなると、その時点で精神分析とは切断することになる。というのもパソコン画面においては「象徴的なもの」は二重化するからだ。たとえばぼくは、ここに書き込まれつつあるテクストが他者によって厳密にどのようなコードで読み取られることになるのかを知らない。これは精神分析における一般的な意味での「象徴的なもの」の領域だ。しかし同時にここに書き込まれつつあるテクストは、もう一つの、得体の知れないコードで読み取られてもいる。それはコンピュータによる計算処理だ。書き込まれていく一つ一つの文字が、究極的には0と1で織りなされる、人間には読むことのできない文字へと変換されていく。ジャック・ラカンは繰り返し文字について語ったが、しかしそれはあくまでも人間が読む文字であって、コンピュータが読む文字とそれが織り成す「象徴的なもの」はその議論には入ってこない。  そして「現実的なもの」。マラブーの議論は、精神分析がまったく扱うことのできない「現実的なもの」を俎上に乗せている。すなわち、コンピュータの計算を支える物質。さらにその画面がネットワークに接続されているならば、それを支える物質。意識に構造的な故障をもたらすものとしての現実的なものは、ここではもはやその心理主義を捨て去って、有限かつ破壊可能な物質となる。フロイトは、無意識は不死で非時間的で破壊不可能であると述べたが、対してマラブーは、ニューロン的無意識が可死で時間的で破壊可能であることを強調していた。同じく、物質としてのコンピュータは留保なく破壊可能であり、破壊のあとには、機能不全に陥った不気味なモノだけが残る。  アンドレ・ルロワ=グーランによれば、技術による外在化のプロセスを通して人類は、まずは身振りを、次に筋力を、そして最後には神経を技術へと次第に委譲していった((アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』、荒木亨訳、新潮社、一九七三年。

*16:「蒸気船や帆船を発明するとは難破を発明することであり、列車を発明するとは鉄道の脱線事故を発明することである。自家用車を発明するとは、高速道路での玉突き事故を生産することなのである。」(ポール・ヴィリリオ『アクシデント――事故と文明』、小林正巳訳、青土社、二〇〇六年、p.26)