ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過ち』その一

● 前口上

とある事情があり、ベルナール・スティグレールの『技術と時間』を詳細に読み直す必要が出ました。ということで、『技術と時間』を読みながらそれについてコメントをつけていくことにします。まずは第一巻。まだ邦訳がないので、それなりに情報的価値のあるものになるのでは、と思っています。

・方針
1、できるだけ自分の解釈は挟まずに、読んだだけで「スティグレールは『技術と時間』でこんなことを述べている」と知ったかぶりできるような文章にすること。
2、少々無理をしてでもコンパクトな分量にすること。
3、登場するいろいろな議論のコントラストを明確にすること。
→つまりは、「使える」文章にする、ということです。

・形式
それぞれの章ごとに、コンパクトかつ簡明な文章で、その章がどのようなことを述べているかを説明していく。

・『技術と時間1 エピメテウスの過ち』の目次

全体のイントロダクション
  第一部 人間の発明
イントロダクション
 第一章 技術的進化の諸理論
 第二章 テクノロジーと人類学
 第三章 《誰?》《何?》人間の発明
  第二部 エピメテウスの過ち
イントロダクション
 第一章 プロメテウスの肝臓
 第二章 すでにそこに
 第三章 《何》の救出

以上にあげたそれぞれのイントロや章が、コメントをつける一つの単位となります。
前口上終わり

● 全体のイントロダクション

西洋の形而上学は、エピステーメーとテクネーという、ホメロスの時代には存在していなかった区別を導入することで開始された、とスティグレールは述べる。そしてこの区別は形而上学の歴史をつねに貫いてきた。たとえば近代哲学においても、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において知の技術化を批判したフッサールはもちろんのこと、『存在と時間』で事物の道具性に焦点を当てることで現存在分析を開始し、後期においては徹底的な形而上学批判を展開したハイデガーにおいても、その事態はまったく変わることはない、とスティグレールは指摘する。その上でスティグレールは、後期ハイデガーと同じく「言語」に特権的な地位を与えることで独自のコミュニケーション哲学を構築したハーバーマスの技術批判とハイデガーの後期技術論とのあいだの、一見些細でありながら実はきわめて重大な差異に着目する。

ハーバーマスが、言語を通しての合意形成によって技術の領域に枠をはめ技術の自律性を制御することを主張するのに対し、ハイデガーは人間と技術との根本的に新しい関係性を開発することを主張する。ハイデガーにおいてはそこで主張されている人間と技術との新たな関係性というものが、結局は「自然(ピュシス)」や「言語」という、きわめて形而上学的な区分に基づくテロスへと回収されてしまっているという点については批判的に捉えながらも、スティグレールは人間と技術との新しい開発に向かう、というその方向性そのものに関しては、それを評価する。人間と技術の関係を捉え直す、ということはとりもなおさず、西洋の技術観をながらく規定してきた目的とその手段という枠組みを捨て去り、技術を捉えるための別の視座を開発することを意味する。ただし、問題はそのことには留まらない。目的に対する手段としての技術の位置づけが捨て去られるとき、今度はその手段を活用する主体の場所にそれまで位置していた人間像そのものが書き換えられざるを得ないのだ。技術と同時に人間を書き換える、この作業の出発点となりまた核心でもあるテーマとしてスティグレールが焦点を当てるのが、本のタイトルにもなっている「技術と時間」である。技術と人間とがともに書き換えられるとき、そこにはまったく新しい時間論が姿をあらわすことになるのだ。そのとき、プロメテウスとエピメテウスという二つの神話的形象が、「技術と時間」というテーマに光を当てる導きの糸として見出される。

● 第一部イントロダクション

スティグレールはまず「技術と時間」というテーマに踏み込むにあたって、「時間のなかでの技術」、という観点から技術の歴史について考察していく。そして技術の歴史というものを捉えていくに際しては、近代の科学技術のもつインパクトを無視することはできない、とスティグレールは考える。というのもそこにおいては、エピステーメーとテクネーという伝統的な区別が根本的に動揺させられているからだ。たとえば後期ハイデガーがゲシュテルという概念で描き出そうとしたように、現代の技術は自然のみならず人間をもみずからの資源として活用していくように見える。このとき、もはや技術を人間の目的に従う手段として捉える発想は有効性を失っている。近代の科学技術の出現がもたらしたこの新しい状況への応答として、スティグレールは技術の単位が個々の人間から機械へと移行したことのうちに近代の科学技術の特徴を見出すジルベール・シモンドンの議論や、技術のネットワークを内的論理を有する一つのシステムとして捉えていこうとするベルトラン・ジルの議論に着目する。その上で、技術というシステムの自律性が新たな問題をもたらす、ということをスティグレールは指摘する。それは、技術システムの進化の速度が、社会の他のシステムとの間に次第に大きな齟齬を生み出していく、という問題である。そしてスティグレールは「技術的傾向」という概念を用いて技術の進化とそれぞれの民族文化との関係を捉えていこうと試みた先史学者アンドレ・ルロワ=グーランの議論に、その問題との本質的な格闘を見出す。スティグレールは、シモンドン、ジル、ルロワ=グーランがそれぞれのやり方で取り組んだ技術の問題が、物理的次元にも生物学的次元にも還元されえない技術独自の進化論の可能性を指し示していると述べながら、それらの思考の道筋が、実は「人間」そのものの捉え方を根本から書き直すことで「技術と時間」というテーマの核心へとつながっていく、と示唆する。