プログラムとリズム

前回アップしたスティグレールの技術哲学に関する文章は、残念ながら稲葉氏のリアクションは(さすがに)もらえませんでしたが、幸いにもpikarrrさまというたいへん聡明な方に読んでいただくことができ、その続きの部分も読んでいただけるようですのでアップすることにしました。

とりあえず、前回つけた注意書きの一部をここにも貼っておきます。

1、文章の属性

全体でだいたい原稿用紙1000枚程度からなる修士論文のごく一部の抜粋。

2、読み方

だいたいは独立して読めるものですが、それでも基本的にはある全体のうちの部分ですので、その全体をそこはかとなく参照している部分がありますが、そこは無視する。

※なお、前回よりも他の箇所を何となく参照している割合が多い気がしますが、その点はご容赦ください。また、文字化けしている箇所も見受けられますが、内容の理解には差し障りはないと思い、修正していくことはしませんでした。こちらもご容赦ください。

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 プログラムの概念は、相続の問題を新しい角度から照らし出してくれる。相続に関しては、すでに相続の時間性というものを《すでに?そこに》の《取り込み=養子縁組》として考察したが、そこではいまだ痕跡とプログラムとは区別されていなかった。それゆえ現存在が《取り込む=養子縁組する》生きられたことのない過去、かつて一度も現在であったことのない亡霊としての過去は、たんに反復するものであるとしてのみ捉えられていた。
 痕跡とプログラムとを区別することによって見えてくるのは、《取り込み=養子縁組》においては痕跡とプログラムとが同時に相続される、あるいは痕跡の相続を通してプログラムが《取り込まれる=養子縁組される》、ということである。さしあたり世界をモノの集積場という観点で眺めるならば、世界には痕跡だけが残され、その痕跡がつぎつぎと手渡されていく様子を見出すことができる。道路や衣服や家や家具や自転車やもちろんハンマーや、などの物が、明滅するように現われては消えていく人間のもとを通過し着実に摩耗しながらも存続していき、またそれとは別の次元において言葉のさまざまなパターンが繰り返し姿を現す様子を観察することができるだろう。そこではそれぞれの物や言葉という痕跡が相続されていっているということが容易に理解される。そこにはいかなるプログラムも見出されることはない。プログラムとはモノではなく作動のプロセスであるからだ。しかしながらそこで相続されるそれらの痕跡のすべてはなんらかのプログラムの痕跡である、ということを思い出すならば、その相続の風景はまったくちがう風に見えてくる。道路という痕跡の相続は通行のプログラムの相続、衣服という痕跡の相続は着こなしのプログラムの相続、そしてハンマーという痕跡の相続は何かを叩きつける身ぶりのプログラムの相続でもあることが見えてくる。さらには同じハンマーの相続が、ある時点からはそれをアクロバティックに回転させる身ぶりのプログラムの相続と結びついていく様子が観察されるかもしれない。同じことは言葉に関しても当てはまる。ある言葉という痕跡の相続はその言葉をどのように用いるかというプログラムの相続であり、その痕跡の相続を追跡していけば、それに結びつくプログラムが次第に変化していく様子も観察できるだろう。またそれに平行して言葉という痕跡そのものがそれに結びつくプログラムの変化にあわせて少しずつ姿を変えていく、ということも十分に考えられる。一つの言葉だけでなく、書物に関しても事情は変わらない。一つの著者名と一つのタイトル名という固有名に結びついた固有の言葉の配列として痕跡を形づくるある書物は、その痕跡自体が相続されていく一方で、それがどのように読まれるのかというプログラムは不可避的に時代を通じて変化していく 。
 そこでは痕跡の相続と同時にプログラムもまた相続されていき、そしていかなる痕跡の相続もプログラムの相続なしでは果たされえない。そもそもプログラムの作動そのものが、その反復の指示においてすでに相続の命令である。反復とはつねにすでに相続することである。重要であるのは、その相続がつねに痕跡の相続でしかありえないことを踏まえると同時にプログラムの相続と痕跡の相続とを区別することである。現実にはプログラムと痕跡とは一つに重なっており、それゆえ世界をたんにモノの集積として見た場合にはそこには痕跡しか《存在》しない。プログラムとはあくまでも痕跡と結びついた反復の構成契機であるので、それはその反復の運動のただ中においてしか見出されえないのだ。
 空間と時間の相続の問題は、痕跡とプログラムとを区別することによってはじめて本当に明らかになる。たとえば線路という痕跡の出現は空間と時間とを同時に新しく編成し直す。それはそれまでには存在しなかった遠さと近さ、そして時間の濃度を創出する。しかし正確には、その創出が成立するためにはプログラムの存在も同時に考慮しなくてはならない。新しい空間と時間が実際に創出されるのは、線路の上を電車がどのくらいの速度で走るのか、それはどのくらいの間隔で運行するのかというそれぞれのプログラムを通してである。同じ線路は複数のプログラムに従うことができ、たとえば電車は平日と休日とではべつのプログラムに従い、それにともなって線路を通して創出される空間と時間の性格も変わる。
 ただし、実際にはプログラムが新しい空間と時間を創出するのだといっても、そのプログラムは線路という痕跡なくしては意味をもちえない。プログラムと両者はあくまでも区別されつつも不可避に結びつく。そしてその結びつきとは迂回の運動であり、その運動を通して痕跡とプログラムとがともに書き換えられていく。それは二重の書き換えである。一方で、社会的条件に由来する別のなんらかのプログラムにしたがって短間隔で高速の電車の運行のプログラムが線路と結びつく場合、痕跡そのものに変化の圧力がかかる。線路の数が増やされるかもしれないし、電車の機能が改善されるかもしれない。プログラムの変化は蓋然的に痕跡の変化に結びついていく。他方で、製鉄技術の向上や新しい動力機構の発明がより短間隔での高速の電車の運行のプログラムを可能とするかもしれない。さらにはそのプログラムの変化が社会における他のプログラムの変化へと波及するかもしれない。痕跡の変化がプログラムの変化に圧力を及ぼすということも十分に考えうるのだ。
 痕跡とプログラムの関係性というのは技術論の領域においても繰り返し論じられてきたテーマであり、そこでの議論は二つの対立する発想のあいだの綱引きのようなものとして展開されてきた。社会のプログラムの変化が痕跡の変化を導くという発想にもとづく姿勢が一方の極、痕跡の変化が社会のプログラムの変化を導くという発想にもとづく姿勢が他方の極である。ここではその詳細には触れられないが、プログラムの優位性から出発する発想は、アリストテレスにおけるロゴスに従属するものとしての技術観から出発し 、近代科学の「応用知」としての技術観を経て 、現在では科学認識論の影響下において開始されたピンチ、バイカー、ヒューズのプロジェクトに端を発する技術の社会構築論 、ブルーノ・ラトゥールやミシェル・カロンらのフランス鉱物学校グループによるアクター・ネットワーク論 、さらにはドン・イーデの現象学的技術論 へと受け継がれている。他方の痕跡の優位性から出発する発想は比較的新しいもので、生産概念に生産様式の概念を持ち込んだカール・マルクス史的唯物論にその先鞭を付けられ 、後期ハイデガーにおける「立て?組みGe-Stell」としての技術観 、ジャック・エリュールの悲観主義的な技術決定論 、その後はハロルド・イニス 、ウォルター・オング などのメディア論に依拠しつつ展開されたマーシャル・マクルーハンの楽観的な技術決定論 を経て、現在ではマーク・ポスターによる情報様式論 、ラカンのモデルに依拠して痕跡を捉えるフリードリッヒ・キットラーの書き込みシステム論 や、あるいはハワード・ラインゴールドに代表されるようなインターネットによる解放論 へと系譜が受け渡されている 。
 個々の議論にそなわるそれぞれの繊細さと発見力をとりあえず認めるとしても、プログラムと痕跡のどちらかに優位を与える発想には最終的には本質的な限界がある。というのもそのどちらの発想も、代補の論理というものを理解することができないからだ。すでに述べてきたように、さしあたりプログラムは痕跡へと外在化される、と述べることができるとすると、その外在化の運動は代補の論理に従う。繰り返しになるが代補の論理についてスティグレールは次のように述べていた。

「外在化されるものは、その外在化の過程そのものにおいて構成されるのであり、いかなる内部によっても先行されない。《代補の論理》とはそのようなものである 。」(“La technique et le temps 2”,p.11)

プログラムは痕跡への迂回という契機そのものによって生み出され、それと同時に痕跡もまたその迂回を通して上書きされる。プログラムと痕跡とはトランスダクティブな関係を有しており、そのトランスダクションの運動、迂回を通してその両項がともに変容していく運動が、デリダによって原?エクリチュールと呼ばれたものである。技術の問いがもっとも根源的な場面にまで遡ろうとするならば、それはこの原?エクリチュールの運動の場面に照準を合わせなければならない 。
 反復はつねに特定のプログラムに従って展開する。スティグレールはそのプログラムの機能をリズムの問題として捉え直す。

「プログラムの概念を通して、空間と時間との関係がそこで構成される集団のある共感覚のうちに、リズムと記憶とが分節化される 。」(ibid,p.87)

反復には必ずリズムが伴い、そのリズムはプログラムによって決定される。時間とはまずはこの反復のリズムとして現われるものであり、また開離的に見出される空間はこのリズムに浸透されている。
 ルロワ=グーランは動物の行動を感覚という側面から三つに分けている。

「一つは、有機体がみずから同化できる物質を取り扱い、体の機能を確実に保つ栄養摂取の行動、一つは種の遺伝的な生存を確立する生理的な感情性、一つは他の二つを可能にする生活空間での統合の面 。」(『身ぶりと言葉』,p.275)

そのうえで「外界関係の三つの面は、どれ一つとして、肉体のリズム性と照合装置との組み合わせなくしては考えられない」と述べられる。この三つの側面は、結びつきあいながらもそれぞれ独自のリズムを保つ。空腹になり食料を探しにいくリズム、生殖にそなえまた生殖を行なうリズム、そしてそれらのリズムが具体的に展開する場である環境におけるリズム。ルロワ=グーランは人間固有のリズムについても触れているが、奇妙なことにその固有性がどこに由来するのかについては具体的な議論を展開していない。それが奇妙であるというのは、まさにルロワ=グーランが人間固有のリズムを説明することを可能とするモデルを作り上げているからだ。
 人間という種の種別性は、他ならぬルロワ=グーランが述べているようにまずなによりも手が解放されその手を通して環境へと能動的に介入できることになったという点にある。この事態が意味するのは、生物を支配していたリズムから人間が離脱することができるようになった、ということだ。人間の出現以前、生物はまず環境が与えるリズムに適応し、その上で栄養摂取と生殖のリズムを作り上げていた。そこでは生物は環境に対しては完全に受動的であったのだが、一方の人間はというと手を通してその環境そのものに介入できるようになった。すなわちもはや人間が環境のリズムにたんに従属することをやめ始めたのだ。人間は技術的客体を通して、人間独自のリズムをそなえた人工環境を作り上げていく。
 ただしそこで獲得される能動性はけっして無条件的なものではない。まず、反復はつねに痕跡の迂回を通しての反復であるから、その反復可能性はそれが迂回しなければならない痕跡の抵抗に本質的に制約されている。人工環境の構築は繰り返し自然環境の抵抗に出会うし、それを完全に克服するということは不可能だ。痕跡を素通りすることができずつねにそこから出発しなければならないという点において、人間の能動性は制約されたものである。しかしながら痕跡への働きかけを際限なく繰り返していくことによって、抵抗はすこしずつではあれ着実に克服されていく。とすれば大きなスパンで見れば、程度の差はあれ手の解放によって人間は本質的な能動性を獲得したと言えるのではないか、という主張は当然予想される。たとえば手の解放を人間の能動性の獲得と結びつけるという発想に対してジャン・ブランは次のように述べている。

「どんな進化論も、機会あるたびに、「手の解放」を口にする。そう口にすることで、進化論は人間を時間の子たる一器官〔手〕の真の主人に変えようとする。この器官こそが人間自身を生み出したのだからである。〔・・・〕この故に、そうしたパースペクティブにおいては、手の解放は、自然発生を意図的技術に変様する手による解放へと行き着く。手の進化論は、そうなると、道具のプロメテウス主義に行き着く 。」(ジャン・ブラン,『手と精神』,中村文郎訳, 法政大学出版局,1990,p.41)

ここでは道具を通して環境に働きかけるという人間存在に特権的な能動性を賦与する態度がプロメテウス主義と呼ばれ批判されている。ここにはプログラムと痕跡との関係性が形を変えて現われている。人間のプログラムが先行するのかそれとも人間の外にある痕跡が先行するのか。ブランによってプロメテウス主義と呼ばれたものは、人間のプログラムの先行性を絶対視する態度であると言い換えることができる。そしてすでに述べたように、実際にはそこにはいかなる先行関係も規定関係もなく、プログラムと痕跡とは代補の運動を通して生み出される。この代補の運動という観点から、スティグレールもまたブランとは別の仕方でプロメテウス主義を批判している。

「ところでこの内在性はその外在化の外においては決して存在しない。問題となっているのは内部でも外部でもなく、ある起源的なコンプレックス=複合体である。そこでは二つの項は、そのどちらもがもう一方に先行することもその起源となることもなく、対立し合わずにお互いに構成しあう(同時に、一撃で、たったひとつの運動において互いに措定しあう)。というのも、起源はそれゆえ両項の共?到来あるいは同時的出現だからであり、その両項は実際には異なる観点から見て取られた同じものである。われわれはこの構造をのちにエピメテウス・コンプレックスと呼ぶことになる 。」(“La technique et le temps 1”,p.162)

ここで「エピメテウス・コンプレックス」と呼ばれている構造は別のところでは「プロメテウス/エピメテウス構造」と呼ばれているものである 。スティグレールは、プログラムと痕跡、内部と外部を対立させ前者に絶対的な能動性を与えるプロメテウス主義を批判するのだが、それはプロメテウス主義がプロメテウスの形象をエピメテウスの形象から切り離してしまうという点においてである。ここではプロメテウスとエピメテウスの神話をめぐるスティグレールの分析の詳細に立ち入ることはせず、プロメテウスが関わる先取りとエピメテウスが関わる遅れとが切り離しえない形で絡まりあっているというスティグレールの主張を確認していくに留めておく。
 人間は手を用いて環境に介入しそれを人工的に再構築していくのだとしても、しかしそこでも人間があくまでも環境のなかにあるということは変わらない。技術的客体は自然界に存在しなかった反復可能性を人間にもたらすが、そこにおいても人間が《すでに?そこに》ある反復可能性に巻き込まれるという点においては変わることがないのだ。たしかにそこでは人間は、たんに反復可能性に巻き込まれるだけではなく、自分を巻き込むことになる反復可能性に介入していくことができる。その点において人間はその他の動物には見られない能動性をそなえているということができる。ただしそれは迂回した能動性、遅らされた能動性であり、その遅れにおいてその能動性はつねにすでに受動的でもある。このことが意味するのは、飛行機の自動操縦装置をオンにして、あとは受動的に飛行機に運ばれていく、というような能動性の供託ではない。そこでは自動操縦装置をオンにする瞬間、あるいは自動装置を作り上げる瞬間というものが反復の起源として設定されている。新しい反復の可能性が生まれるのはその反復を創始する起源においてではなく、つねにすでに繰り返されてきた反復がそこへと迂回している痕跡に対して、まさに反復を通して働きかけることによってのみである。痕跡を通しての反復と反復の交差のみが、新しい反復可能性をもたらすことができる。
 つねにすでに反復のなかに投げ出されていること、この点に関しては人間も動物も変わることはない。異なっているのはその反復のプログラムであり、人間が巻き込まれているのは多くの場面において技術的客体を通して生み出されたプログラムによる反復である。人間はつねにすでに後成系統発生の層における反復のネットワークに巻き込まれており、そこに人間固有の《すでに?そこに》が見出される。その《すでに?そこに》への遅れを象徴しているのがエピメテウスの形象である、とスティグレールは述べる。それに対してプロメテウスの形象が象徴するのは未来への先取りである。しかしプロメテウスが未来を先取りするのは、あくまでもエピメテウスの遅れ、エピメテウスの過失を取り戻すためだ。逆説的であるが、先取りするプロメテウスはつねにエピメテウスに遅れてやってくる。スティグレールはエピメテウスとプロメテウスの神話を通して、《すでに?そこに》と《将来》との関係性を読み取り、《将来》はあくまでも絶対的な遅れを通して見出される《すでに?そこに》の《取り込み=養子縁組》を通してしか開示されなおとするとするのだ。スティグレールのプロメテウス主義批判は、それが人間の事実性としての遅れの介在を無視しまっている点に向けられている。そもそもスティグレールの技術哲学の本格的な展開の開始を告げる『技術と時間』シリーズの第一巻の副題が「エピメテウスの過ち」であった。プロメテウス主義とは、遅れなき未来への信仰である。その点においてプロメテウス主義への批判は、《すでに?そこに》を物質への迂回の手前でとらえ、《すでに?そこに》を《将来》への先駆に従属させたハイデガーにも同様に当てはまることになる 。
 プロメテウス主義への批判はまた別の観点からも組織されなくてはならない。プロメテウス主義は技術を通しての介入によって、自然に具わる強固な反復という抵抗を次第に克服していく、という見通しをもつ。やがては自然の抵抗は完全に、あるいはほとんど完全に克服され、それ以降は人間は技術によって自由に自分たちの環境を作り上げていくことができる、というわけだ。しかし、技術にとって可能であるのは痕跡へと迂回する反復可能性を新たな仕方で組織することだけである、ということを思い出すならば、プロメテウス主義的な見通しは原理的に成立しえないということが理解される。というのも、技術がもたらす反復可能性は、その痕跡性においてそれ自体が新たな反復可能性に対して抵抗を示すからだ。たとえ自然環境による抵抗が「十分に」克服されたのだとしても、今度はそこに技術的客体という痕跡がもたらす抵抗、技術論的抵抗が見出されることになる。とすれば抵抗一般というものに対する関係を考えるとすると、技術が可能とするのはそもそも抵抗の克服などではなく、抵抗の新しい配置を生み出すことでしかない、ということがわかる。そこでは抵抗と克服の関係は、自然と技術のあいだではなく、技術と技術の間で生じていくことになる。さらにこのような抵抗の絶対的な克服不可能性は、けっして技術に課された根源的制約であるわけではない。というのも抵抗なきところにはいかなる痕跡も残されえないからだ。痕跡は抵抗あるところにのみ、その抵抗への戦いの軌跡としてのみ刻み込まれることができる。技術そのものの成立自体、自然という抵抗するものに自然とはちがったやり方で痕跡を刻むことによって初めて可能となった。解放された手によって掴まれうるのは抵抗するものだけであり、世界がもし抵抗のないエーテルだけで成り立っているのだとしたら、手は永遠に空振りをつづけるしかない。とすれば抵抗とは技術に課される制約などではなく、技術そのものを可能としている根源的条件であるということになる。それゆえここに見出される抵抗は、《超越論的抵抗》とでも呼ばれるべきものである。むろん、ここでの《抵抗》の機能はいわゆるカント的またはフッサール的な「超越論的」なものとは大きく異なっているので、たとえばスティグレールが人工補綴性を説明する際に時おり用いるような「準?超越論的quasi-transcendental」 あるいは「無?超越論的a-transcendental」 といった別の形容辞に頼る方が適切であるかもしれない。しかし結局のところ、新しい試みがなすのは同一の痕跡に別の角度から反復を交差させ、そのことによってそこから新しいプログラムを少しずつ作動させていくことでしかない。それゆえここではあくまでも「超越論的」という言葉の痕跡にこだわって、上に述べた《抵抗》の機能を説明する形容辞として《超越論的》を用いることにする 。
 人間はエピメテウス的な遅れを伴いながらも、技術的客体を通して反復をリズムづけるプログラムを後成系統発生の層において構築していく。ルロワ=グーランは、行動の三つの側面のうち環境との関係は他の二つの側面、すなわち栄養摂取と生殖に関する二つの側面をも包み込むものであるとしていた。とすれば環境におけるリズムの変化は他の二つのリズムも当然ながら変化させることになる。実際、人間の栄養摂取と生殖は後成系統発生の層の発展にあわせてさまざまにリズムを変化させてきたし 、また人間には文化というものがそなわっているので、その文化のリズムも同様に変化してきた。
 空間と時間は、それぞれにリズムをもたらすそれぞれのプログラムがそこへと迂回する痕跡を通して構成される。これまで触れてきたのは主に線路やハンマーや衣服や自動車といった「物質的」痕跡についてであったが、むろん、プログラムがリズムを与えるのはそのような痕跡だけではない。

「プログラムは、食生活、宗教的お祭りのための身繕い、仕事を経て、祈り、礼儀の規則、そして歓待の掟、といったそれらの反復をリズムづける。民族の特徴というものは、日常的なプログラムが重要となればなるほど、この反復的な安定性のなかに書き込まれている 。」(“La technique et le temps 2”,p.91)

ここで挙げられているそれぞれの反復する身ぶりは、さまざまな「物質的」痕跡と結びつきながらも、だいたいは個々人の身体上に習慣性として刻み込まれた痕跡を迂回するプログラムに導かれている。家庭での食事の和やかな速度、それを着るたびに以前の祭りを思い出さずにはいられない一張羅を引っ張り出す手つき、時間をかけて作り上げてきた仕事のテンポ、挨拶の距離、夕方には大きく開かれる扉。それらの際限なく反復されてきた身ぶりが、ある親密な時間の濃度と空間の密度というものを構築していく。
 身ぶりだけではなく、記憶技術もまた空間と時間の構成に大きな役割を果たす。スティグレールは特定のプログラムによってリズムづけられた空間と時間をそれぞれ「枢軸性cardinalit?」、「カレンダー性calendalit?」と呼びながら次のように述べる。

「その原初にあっては天空の直接の広大さにおいて、計測装置と形象的表象の体制をもちいる記憶技術の出現とともに展開されるものとして確立された枢軸性とカレンダー性は、この世界の時間そしてこの世界の空間として、この世界を構成する世界への関係を開いた。このシステムの外において世界の空間と時間に到達することは不可能であり、そのシステムにおいては明らかに、たんにカレンダーや地図、腕時計や羅針盤だけでなく、リズムと共通の場所を確立するのに貢献しているすべてのものもまた考慮しなくてはならない。それは、より高次の水準の把持的配置、把持全般への到達可能性を組織するメタ把持、すなわち把持全般の分有、すなわち《取り込み=養子縁組》である 。」(“La technique et le temps 3”,p.211)

身ぶりの次元にある技術システムにおいて構成される記憶と象徴的分節の次元にある記憶技術において構成される記憶との関係性については第二部で扱うので、ここではたんにその両者を区別しておくに留めておく。
 いずれにせよ、身ぶりも象徴的分節も《何quoi》において反復するものであり、その反復のプログラムが司るリズムによって人間の空間と時間は組み立てられていく。そしてあらゆる技術的客体はそのように組み立てられた空間と時間のなかに作り出され見出されていくのだから、空間と時間のその構成はメタ把持という地位にあることになる。むろん、空間と時間の構成に関わるプログラムとそうでないプログラムを厳密に分けることはできない。実際には空間と時間の構成とはありとあらゆるプログラムの交錯の効果として浮かび上がってくるものだ。そこにはたんに後成系統発生のプログラムだけではなく、天体を運行させるプログラムや季節を移り変わらせるプログラム、あるいは身体の新陳代謝を司るプログラムも当然入り込んでいる。ただその一方で、一つの時代や一つの地域というそれなりに大きな時空を貫く基調となっているプログラムを見出すことも可能だろう。そのプログラムは、それだけで独立して一つの時代や一つの地域を作り出すのではなく、その時代や地域という一応の統一体を編み上げるあらゆる反復のプログラムにすこしずつ浸透しているために、全体を見るとその統一体全体がひとつの基調のもとにまとめられているように見えるというような、そんなプログラムである。それはたとえば文体というものに近いだろう。ある人が書いたありとあらゆる文章を、ほとんど身体的特徴であるかのように貫いているかに見える根本的基調のことを、ロラン・バルトは「文体=様式style」と呼んだのであった 。それはあくまでも文章の書き手について言われたものであったが、ひとつ社会もまた言葉と同様に反復の織り物であるのだから、そこに同様の「文体」が見出されるのだとしてもなにも不思議なことはない。上の引用で「民族の特徴」と呼ばれていたもの、それもまた一つの「文体=様式」である。スティグレール自身も間違いなくバルトを念頭に置きながら、民族性というものを一種の「文体=様式」として説明している。

「文体=様式とはひとつの特異化の、ひとつの固有言語性の刻印である。ただしそれはたんに言語としてのみ理解されるべきではなく、より一般的に、ある個人の身体的あるいは道徳的人格性について語るように民族的人格性について語ることができるという意味において、そこで人格的な特異性が与えられるような相としても理解されなくてはならない 。」(“La technique et le temps 2”,p.102.)

ある民族性を貫く親密な呼吸というものは、たしかに言語にはっきりと刻み込まれるものであるが、しかしその呼吸は同時にスティグレールが述べたように、ありとあらゆる日常的な身ぶりにも奥深く浸透している。その民族性は、たとえば日本人性なりなんなりというある本質の発現などではなく、一つの集団に生きられる時空を交錯するあらゆるプログラムが生み出す一つの効果effetとして、それこそ分泌されるように滲み出てくるものであり、それは反復の織り物が織りなす色模様として、時の流れに抵抗するそれなりに確かな痕跡である。
 スティグレールが空間と時間を構成する把持の織り物をメタ把持と呼び、それがあらゆる把持の《取り込み=養子縁組》の前提条件をなすと述べる時、メタ把持ということで意味されているのはこのような民族性のことである 。《取り込み=養子縁組》とは生きられたことのない過去を自分のものとしていく相続の運動であったが、そこで相続されるものはたんに反復するものではなく、つねになんらかの民族性という文体=様式によって浸透された空間と時間であるのだ。
 相続すなわち《取り込み=養子縁組》の問題は、反復を痕跡とプログラムの関係として捉え直し、加えて反復にリズムを生み出すというプログラムの性格を踏まえつつ、さらにそのリズムを通して浮かび上がるものとしての民族性までを考慮に入れることで初めて理解することができる。ハイデガーは《すでに?そこに》という概念を通して相続の問題を根源的な次元において考察するための道を開いたのであったが、そこでは物質性や反復性は頽落の領域に押しやられていたし、さらにハイデガーが「共同運命Geschick」 としての民族性について述べる際には、『存在と時間』に一貫する迂回の排除がその後のハイデガーの政治的な身ぶりと結びついて不吉な空気を漂わせる 。そして『存在と時間』は、プログラム固有の次元に伴うある問題を完全に見過ごしてしまった。そこで見過ごされてしまったもの、それは教育の問題である。
 教育とはプログラムについてのプログラムである。それは社会的身ぶりのプログラムを教えるプログラムであり、読み書きのプログラムについて教えるプログラムであり、さらには社会の仕組みをなしているプログラムについて教えるプログラムである。このメタプログラムとしての教育が存在することで、社会を構成するプログラムは安定的に反復していくことができる。そしていうまでもなく、そこでは同時に空間と時間も反復される。スティグレールは教育がなによりもまず空間と時間の獲得であると主張する。

「教育システムはなによりもまずカレンダー的配置、枢軸的配置の獲得と内面化の場である 。」(“La technique et le temps 3”,p.212)

むろん学校のようなシステム化された教育を経ずとも、たとえば家庭における教育もすでに「カレンダー的配置、枢軸的配置の獲得と内面化の場」である。朝早くに起こされ顔を洗い朝食を摂り歯を磨く。決まった時間に決まった公園に行き、その公園のある場所に設置されているブランコに乗せてもらう。暗くなったら家に帰っていつも決まった部屋の決まった席で晩ご飯を食べ、お風呂に入って決まった時間に寝かされる。ここにおいてすでに空間と時間はリズムを伴った枢軸性とカレンダー性を構成している。教育システムは、枢軸性とカレンダー性を集団的な次元で再編成するためのシステムである。
 ハイデガーはまったく気付くことはなかったが、教育の問題は《世間》の問題を新しい角度から照らし出す。現存在がさしあたりそれを通して自己を了解しているとされた《世間》とは、教育を通して獲得されるものに他ならない。それはシステム化された教育の手前で、家庭や世間を通してたとえば「もったいない」とか「みっともない」という言葉とともに躾としてあるいは常識として教え込まれるものだ。なぜそのようにしなければならないのかという合理的な説明も、あるいは死への先駆に導かれる決意=覚悟もなしに、ただたんにそのようなものとして教え込まれるもの、それが教育である。ハイデガーは、一般的には公共性あるいは公共圏と訳されポジティブな意味で用いられる「公開性?ffentlichkeit」の概念を《世間》と平行するものとして捉え頽落的なものであるとした。そこでは共同的な了解というものが、死の前に連れだされることで獲得される絶対的に孤独な本来的な了解と対比されている。またそれに平行して、死という根拠づけ不可能なものが、共通了解という根拠づけと対比されてもいる。そこにおいてハイデガーが決して気付くことがなかったのは次のことだ。すなわち、《世間》もまた絶対的に無根拠であるという事実である。《世間》とは反復するものであるが、繰り返し述べてきたようにそれは一度も現在であったことのない過去の反復であり、それゆえハイデガーの《死》と同じように存在しない、あるいは逆説的であるがハイデガーの《将来》と同じように《将に来たるべきもの》である。ハイデガーは現存在がそれへと向き合わされる存在しないものを表象された死にしか見出すことはなかったが、実際にはそのような表象の手前において、現存在は反復という存在しないものにつねにすでに巻き込まれている。
 反復とは必ずなんらかのプログラムによって指示された反復であり、それゆえ教育可能である。その教育可能性は同時に公共性の可能性でもある。スティグレールは次のように述べている。

「公共的生活はこれらのプログラムによって生み出されている 」(“La technique et le temps 2”,p.215)

ハイデガーは「私の死」という絶対的に私的なものを《世間》という公的なものに対立させたが、実は《世間》とは私的なものに対比させられる公的なものではなく、それは公と私の対立の《手前で》、その対立そのものを可能としている中性的な死の経験である。「私」の絶対的固有性がこの経験を通してつねにすでに「死」んでしまっていることが公的なものの条件をなしている。その死の経験とは一度たりとも現在であったことのない過去の反復の《取り込み=養子縁組》であるが、それは反復であるがゆえに特定のプログラムによって指示されており、またそのことによって特定のリズムに従っている。一度たりとも現在であったことのない過去はそれぞれのリズムに従って反復するのであり、ということはつまりその過去の《取り込み=養子縁組》もまたリズムに従っている。そして言うまでもなくそのリズムとは、教育のリズムでもある。
 空間と時間とを作り上げているリズムとは、亡霊が回帰するリズムであり、それはつねにすでに死者の空間と死者の時間である。実際、人間が生活している環境というのは、その多くがすでに死んでしまっている人間によって作り上げられたものだ。しかし重要であるのは、生きていると思われている人間でさえ、反復するプログラムに隅から隅まで貫かれている限りにおいてつねにすでにいくらかは死者である、ということである。しかしだとすればその逆もまた当てはまる。すなわち死んでしまっていると思われている人間でさえ、実はプログラムの反復を通して必ずいくらかは生き延びている。それゆえ人間は、生きている間にさえつねにすでにいくらかは死者であるというのとちょうど同じ分だけ、その身体的物理的な死を迎えたあとも生き延びていくいくらかは不死の存在であるのだ。