ジャック・デリダ “Mal d’archive”その2

● 前置き

フロイトについて論じたジャック・デリダの“Mal d’archive”について感想を書いた前回(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070213#p1参照)のつづきを書きます。ただその前に簡単な注意喚起。僕は基本的に、読んだ本に実際に書かれていた内容を手際よくまとめる、ということが苦手です。むしろ、自分がそれをどう理解したのか、にどうしても焦点が当たってしまい、書いているうちに必ず実際に書いてあったこととは、表面上は別のことを書くことになってしまいます。ただ、その本についての理解としては間違っていないことを書いている、と自分では考えています。前回の感想文もその口であり、途中からは“Mal d’archive”そのものの内容からはいくらか離れて、それを理解するために必要だと思われる補助線を引くことがメインになってしまっています。その点、くれぐれもご注意ください。

しかし今回は、できるだけ「実際に書かれていること」を紹介するというスタンスを目指したいと思います。なんというか、卑近にいえば便利な文章、あるいは使える文章にしたいと思っているわけです。そのために、さっきまで“Mal d’archive”をざっと読み返して、ルーズリーフに簡単なメモまでしました。こんなことははじめてです。

● 本題

さて本題です。きわめて多くのことが絡み合った形で論じられているデリダの“Mal d’archive”ですが、ここでは三つの軸を設定します。それらの軸は、デリダが「本論」のなかで立てている三つのテーゼに対応しています。その三つの軸を目次的に箇条書きにすると次のようになります。
a)アーカイブの支持体
b)アーカイブ死の欲動
c)アーカイブと父の亡霊
これらの三つのテーマについて順番に説明していく過程で、そのそれぞれに関連するサブテーマについても触れていく、という手順を取ることにします。あと、なにかと便利だと思うので前回載せた目次を再び挙げておきます。

銘・・・・・19
前置き・・・45
序文・・・・55
本論・・・・129
追伸・・・・149

a)アーカイブの支持体

デリダは「銘」の部分において、「フロイトアーカイブ」というものに深く関係する三つの要素を挙げるのですが、そこで最初に挙げられるのがアーカイブとその支持体supportの関係です。支持体、というのは要は記号が書き込まれる媒体のことですね。当然ながら、このような支持体なくしてはいかなるアーカイブも不可能であるわけです。この強調は、すでに『グラマトロジーについて』から一貫しているエクリチュールの物質性への関心に連なるものですね。デリダは次のように述べます。

連署の場なくして、反復の技術なくして、そして何らかの外在性なくしてはアーカイブは存在しない。外部なきアーカイブは不可能である。P26

アーカイブは、この「外部」へと迂回しそこに痕跡を残すことではじめて構成されるわけです。ここにはまた、想起に関するギリシャ的、ということはつまり形而上学的伝統もまた関わってきます。たとえばプラトンの『メノン』では、想起(アナムネーシス)というものに特権的な地位が与えられており、その想起を通してのみ人は本当の知に到達することができる、とされていたわけですが、そのような想起においては、支持体、つまり物質への迂回という契機は非本質的なものとして排除されていました。同じくプラトンの『パイドロス』では、支持体に記録された言葉、すなわちエクリチュールは人々の記憶力を損なうものとして非難されていました。ちなみにこの、支持体への書き込みに依拠することによってなされる想起は、外的想起(ヒュポムネーシス)であり、ここにはアナムネーシスとヒュポムネーシスという二項対立が見出されるのであり、デリダはその点に明確に注意を促しています。その上でデリダは支持体なきアーカイブは存在せず、それゆえアーカイブとは外的想起である、としています。さらに面白いことにデリダは、アーカイブと支持体との関係を、反復一般と死の欲動との関係に平行するものであるとも述べています。この読書感想文ではそこには深くは立ち入りませんが、そのどちらもが起源の固有性を破壊あるいは汚染する、という点で共通点をもっているということだけを述べておきます。この辺りの議論はすべて原書のp26にあります。

アーカイブはつねに支持体を必要とする、というこのデリダの主張は、考えるまでもなくあまりにも当たり前なものです。むろんデリダは、その当たり前のことがどれだけの可能性を孕んでおり、その可能性を形而上学がつねに抑圧しつづけてきた、という点を論じるわけですが、その主張そのものはなにも奇妙なものでありません。しかし、デリダはこの主張から派生するものとして二つの主張を掲げるのですが、それらは、明らかに常識を裏切るものです。その二つを仮に、1)意識の支持体、2)理論の支持体と名づけて順に説明していくことにします。

1) 意識と支持体
フロイトは人間の意識の構造を局所論として空間のイメージで説明することを繰り返し試みていた結果、その晩年にマジック・メモというある道具を意識を説明するためのモデルに採用した、ということはよく知られていますし*1デリダもまた『エークリチュールと差異』に入っている「フロイトエクリチュールの舞台」でそのことについて詳しく論じていました。デリダはここでもそのマジック・メモをモデルとしたフロイトの意識の構造についての説明を引き合いに出しながら、次のように述べます。

すくなくとも次のように自問することができる。すなわち、外在的な些細な部分とは別に、その本質において、心的装置の構造、フロイトが「マジック・メモ」によって記述しようとしていた同時に記憶的であり外的想起的でもあるこのシステムは、アーカイブの科学-技術の進化に対して抵抗するのだろうか、しないのだろうか、と。心的装置は、アーカイブの、そして複製の技術的配置、生き生きとしていると言われる記憶の人工補綴、生けるもののシミュラークルといった多くのもの?それらはすでに、そして未来においてははるかに「マジック・メモ」よりも洗練され、複雑化し、強力となっているだろう(ミクロ情報化、電子化、コンピュータ?化等々)?によって、より良く表象される、あるいは別の仕方で触発されるのではないか?p32

常識的に考えるならば、マジック・メモというのは意識について説明するための暫定的なモデルである、という位置づけがなされるのが妥当でしょう。そしてたとえば現代であればマジック・メモのかわりにコンピューターをモデルとして使うこともできるだろう、と*2。しかしデリダがここで述べている、すくなくとも暗示しているのは、技術的環境が変化することによって、意識の構造そのものが変化するのではないか、ということです。引用部分の後半では、技術的客体による意識の表象と触発が並列されており、一般的に考えるならばこの二つはまったく異なるものです。表象の場合は、言ってみればそれは説明のためのモデルでしかありませんが、触発の場合は技術的客体そのものが意識の構造に介入する、ということになります。しかしデリダは、この両者が密接に絡まり合っているものとして捉えており、それぞれの技術的客体は、意識の構造を表象すると同時に触発する、という風に理解されているようです。これは明らかに異様な主張のように見えますが、実は、「銘」における第一の主張、つまりアーカイブはつねに支持体を必要とするという主張と一貫したものです。

簡単に言ってしまえば、アーカイブも意識も、どちらも「外部」への迂回なくしては存在しえない、ということです。前回の記事において、デリダの議論ではアーカイブの問題と意識の問題とが平行するものであるということが前提とされている、ということを書きましたが、そのことはこの箇所にとくにはっきりと現われていると言えると思います。そしてアーカイブも意識も、その「外部」への迂回以前にすでに存在しているのではなく、まさにその迂回の契機を通して構成されるとされているわけです。それゆえ、それらはそれがそこへと迂回する場、つまり支持体や技術の性格によってその根源において「触発」されることになります。

2)理論の支持体
「意識の支持体」に関するデリダの主張は、基本的に精神分析の理論の内容に関するものです。そこでデリダは、非歴史的なものとして想定されている精神分析的な意識モデルに対して、意識そのものが技術的環境を通してその根本から歴史的に規定されているのではないか、という疑義を呈していたのでした。しかしこの「理論の支持体」は、デリダの言葉を用いれば「精神分析アーカイブ化」に関わるものです。デリダは次のように述べています。

それ〔「理論の支持体」の問題〕は、その〔精神分析の〕制度的、そして臨床的な実践の、われわれが知っているところの出版物や翻訳物の膨大な問題に関する法的-編集的、学問的、そして科学的観点のアーカイブ化に関係する。P33

これは一見するとごくごく常識的なことを言っているように思えます。つまり、精神分析という理論を生み出すためにはさまざまな学問的コミュニケーションが展開される必要があるわけですが、そこでもまたアーカイブ化とその支持体の問題が関係する、ということです。学問的コミュニケーションは透明な声の通信ではなく、アーカイブ化(ということは支持体への書き込み)を通してのみ可能となるのです。しかしその一見常識的な装いに惑わされてはいけません。常識的な発想は、学問的コミュニケーションはそれとして完結したものであり、それが「あとから」それぞれの支持体に記録され、それがやり取りされる、という順序で「アーカイブ化」というものを理解するようにおもいます。が、デリダの議論においては、支持体への書き込みに先行する抽象的実体など存在せず、あらゆるものがその書き込みを通して構成されるものとして理解されます。とすると、デリダの理解においては、精神分析の理論そのものが、実はアーカイブ化のテクノロジーの性格によって、「影響」という表現はとりあえず避けるとしても、すくなくとも「触発」されることによって生み出されている、ということになります。デリダは次のように述べています。

そのような〔精神分析の〕制度を、その理論的かつ実践的な次元において、郵便的コミュニケーションや郵便のそのような形式、それらの支持体、それらの凡庸な速度、へと結びつけている歴史的で、非偶有的な理由を探さなくてはならない。手で書かれた手紙は、ヨーロッパの他の都市へと届くのに幾日もかかり、なにものもこの遅れから自由であることはできない。すべてがその尺度に従うのだ。p35

つまり、デリダ精神分析の理論そのものを、特定のメディア環境において構成されたものとして捉えなおそうとするわけです。だから、たとえばデリダはEメールを例に挙げて、そのような環境においては精神分析の理論は動揺せざるをえない、ということを示唆します。むろん、こういった「メディア論」そのものは珍しくないわけですが、デリダの場合は、特定のメディア環境によって触発されている精神分析の理論、という見取り図が、特定の技術環境によって触発されている意識の構造、という見取り図と同時に理解されており、それがさらにアーカイブをめぐる他の諸テーマをも同時に含み込むものとして構想されているわけです。このことを自分なりに解釈すれば、つまりいわゆる「メディア論」が扱っている問題を本当に徹底すると、このデリダの場所まで来てしまう、ということなのだと思います。

またこの問題に付随するものとして、アーカイブの形成とは、つねにある選別のプロセスであるわけですが、その選別がたんに意味的な次元においてのみではなく、物質的な次元においても機能する、ということも述べることができます。というよりも、たとえば精神分析に関するコミュニケーションの管理は、まずもってそのコミュニケーションが書き込まれたもろもろの支持体の管理であるわけです。で、スティグレールの『無信仰と不信』が論じていることですが、かつては文書の解釈をする権利があったのは、その物質としての文書を管理している人間だけであった、ということもあります。そういった大昔の例を挙げなくても、前回の記事でちょっと触れたように全集への収録という選別や、あるいは図書館やフロイトミュージアム、といった場所への資料収集に関する選別なども、意味的な次元での展開可能性を、物質的な次元でまずは管理しているわけです。そういった管理が可能となるのは、いうまでもなくアーカイブがつねに支持体への迂回なくしては存在しえないからです。

● 水入り

なんだかまたまた長くなってしまったので、今日は「a)アーカイブと支持体」の軸だけにしておきます。次回に、「b)アーカイブ死の欲動」と「c)アーカイブと父の亡霊」について書くことにします。ということで、今回のまとめをちょっとだけ。

今回あつかった支持体に関する議論は、個人的に一番興味があるところです。物質への迂回の論理、というのは僕の中心テーマで、先月提出した修士論文もそれについて書いたのでした*3。そのテーマに関しては、これまでも繰り返して書いているようにベルナール・スティグレールの議論がもっとも「使える」と思っているのですが、それにしてもデリダの議論の鮮やかさには、やはりなにか特権的な輝きがある、とでもいいたくなってしまいます。しかしその輝きゆえにかなり扱いづらいというのが玉にきずですね、どうも。

ちょっと話がそれますが、レジス・ドゥブレはメディオロジー的発想の哲学的先駆としてデリダの『グラマトロジーについて』を挙げていましたが*4、この『アーカイブ熱』はより直接にメディオロジーの哲学的基礎づけ的な役割を果たしうる気がします。あと、明らかにフーコーアーカイブ論を念頭に置いているだろう箇所や、ラカンを思わせる箇所もあり、直接にそれらの名前は挙げられていませんが、彼らに向けられた批判としても読むことができそうです。ただ、ラカンの場合はともかく、フーコーの場合は案外すんなりとデリダアーカイブ論との接続ができるんじゃないかっていう気がしてます。個人的には、イアン・ハッキングの「マトリックス」の概念と、ブルーノ・ラトゥールの「処方箋inscription」の概念が、そのいい仲立ちになるんじゃないか、と。まあこれは自分への課題です。

デリダの『アーカイブ熱』の次にはペーター・サンディー(Peter・Szendy)の “Membres Fantomes  des corps musiciens”について感想文を書こうと思っているのですが、この調子だと時間がかかりそうです。

*1:ジークムント・フロイト『自我論集』(ちくま学芸文庫中山元訳)所収の「マジック・メモについてのノート」参照

*2:たとえば次の記事ではそのような発想がなされていますhttp://plaza.rakuten.co.jp/neuron/diary/200510300000/

*3:この修士論文を欲しい人は、その旨をお伝え願えれば送ります

*4:レジス・ドブレ『一般メディオロジー講義』,嶋崎正樹訳,NTT出版,p.34.