pikarrrさんに答えて

「まなざしの快楽」のid:pikarrrさんからトラックバックをいただきました。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061230
三回にわたって部分的にアップしてきた文章についてのコメントです。
「痕跡とプログラム」
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061222
「プログラムとリズム」
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061226
デリダスティグレール
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061229

またすでにpikarrrさんとはいくらかのやり取りをさせていただいています。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061227

はじめに

僕の基本的な発想をまず説明すると、僕は「現代思想」文脈に棹さしたそれぞれの解釈にはあまり興味がなく、あくまでも生きていく中で出会われていくさまざまな出来事、事象がどのようなものであるかを理解したいということを最大の動機としてもっており、「現代思想」的なものは、現実の「理解」のためにきわめて有用だと思うから自分の目に入った限りで読んでいます。とりあえず。

決定(determine)と条件付け(condition)

pikarrrさんが提示された個々の論点に反応していくとどうしてもこまごまとした話になってしまいますし、またそれ以前に大きな発想の枠組みの次元での歩み寄りがまず不可欠だと思ったので、その大きな枠組みの次元の話をします。それは、「決定」と「条件付け」の区別という問題です。大まかに言って僕は、生物学的身体の次元、技術的客体(物質的痕跡)の次元、言語(記号的痕跡)の次元を区別しています。そのうえで、技術的客体に焦点を当てた議論をしています。しかしこのことは、技術的客体の次元が言語の次元を決定づけるという「強い主張」を意味するのではなく、前者が後者を条件づけているという「弱い主張」をしているだけです。そこで念頭に置かれているのはきわめて素朴なシチュエーションです。たとえば僕はpikarrrさんとやり取りをしているわけですが、パソコンが壊れてしまったらそのやりとりは滞ります。関東大震災が来て情報インフラが壊滅状態に陥ったらそもそもやりとりは不可能になります。ぼくはこのごくごく当たり前のことを理解したいと思っており、またそれを理解するための道具立てを作りたいと思っています。ぼくは、物質的基底がまったく存在しなければ、言語的なやりとりは「絶対に」不可能であると強く主張します。それはいわゆる「技術」にかぎらず、空気の振動や声帯の振動やペンを動かす腕なども含まれます。しかしこのことは、物質的基底が言語的な次元を「決定する」と述べているのではなく、たんに「条件付ける」と述べているだけです。パソコンが壊れてしまえばこのやりとりはいったん中断されてしまいますが、パソコンがうまく機能している限りでは、パソコンとネットによって提供される環境の内部で言葉でのやり取りを行なうことができます。そしてそこで行なわれるやり取りは、絶対に物質的基底には還元不可能です。物質の次元の強調は、言語の次元が物質の次元によって何らかの程度は「決定されている」という主張ではまったくありません。どうも、「決定」と「条件付け」との区別がうまく伝わっていないような気がしました。ぼくはpikarrrさんが言語の次元に固有な性格として見出しているものを否定しようとしているのではなく、たんに、その性格が機能するためにはまず物質的な条件がうまくととのえられている必要がある、という「条件」の話をしているだけです。重病で寝込んでしまえばこのやり取りはできません。ここに、生物学的な次元での条件付けが働きます。つぎに、技術的環境が機能しなければ同じくやり取りはできません。ここに、技術的な次元での条件付けが働きます。そして以上の二つの条件がうまくととのえられている限りで、言葉でのやり取りができます。このごくごくあたりまえの事態を踏まえた上で、ではそのような事態は厳密にはどのように成り立っているのだろうか、ということを僕は考えたいわけです。この階層性と条件付けの関係を、おおいに強調しておきたいと思います。この強調は、あくまでも現実世界を構成しているさまざまな事象を理解するためになされています。

道具とコンテクスト

pikarrrさんは次のように書かれていました。

デリダの「散種」は、エクリチュール(痕跡)が様々なコンテクストの中で、反復運動すると考えられますが、スティグレールの技術論では、コンテクストにも記憶があるということです。

「言葉はさまざまなコンテクストにおいて反復する」というこの理解は、東浩紀デリダ解釈が真に受けられている状況ではやむを得ないのかもしれませんが、完全に間違っているとはいえないにしても、あきらかに不十分なものだと僕は考えています。デリダにおける反復のもつ意味はより根源的なものであって、あるなにかがコンテクストの中で反復するのではなく、反復可能性そのものがコンテクストを構成する、と理解される必要があります。僕が議論のなかで反復あるいはプログラムということで念頭においていたのはそのような意味での根源的な反復でした。だとすれば、かなり初めの方からじつはボタンの掛け違いが始まっていたのかもしれません。上に述べたような根源的な反復というものを考慮に入れるならば、さまざまなコンテクストの中で反復するエクリチュールと、コンテクストそのものとして反復する道具、という二項対立は成立しません。言葉にせよ、道具にせよ、反復そのものがコンテクストを可能にしていく、という点では変わることはありません。ただその両者では、そこで生み出されるコンテクストの水準が決定的にちがいます。技術システムと記憶技術の関係について述べたときにもぼくはそのような意味での水準の違いを念頭に置いていたのですが、この点に関しては、その手前のところでうまくコミュニケーションが成立していなかったと思われます。ぼくはその二つの水準を区別した上で、技術システムが記憶システムを「条件付ける」関係にある、と理解しています。そして反復の問題、「決定」と「条件付け」の問題での行き違いが、身体一元論、という印象を生んでいるように思います。僕は心の次元、あるいは言葉の次元は物質的な次元には絶対に還元不能であると考えています。「決定」と「条件付け」の区別を踏まえれば、そのことは当たり前です。で、そのような還元不能性を前提にする時点で、身体一元論ということはいえないと思いますがいかがでしょうか。スティグレールはつぎのように述べています。

知が第一義的な回帰によって構成されてもいるという意味において、わたしは精神について語ります。しかしまたわたしは、この精神の《条件》としての時間の物質化についても語りますし、そしてこの意味において、わたしは自分をひとりの唯物論者であると受け取りつづけます。ここで問題となっているのはあきらかに異形の唯物論です。すなわち、それはある意味では《精神主義的》な唯物論であり、そこでは、精神は物質へと還元可能なものではなく、《条件》という言葉のあらゆる意味において、物質は精神の条件である、ということが主張されます。(『偶然から哲学する』p39)

その他

ほかにもいろいろコメントしたいことはありますが、上で挙げた二つの点をクリアにしておかなければ行き違いが増えるばかりだと思いますので今回はこれだけにしておきます。ちなみに、言語と技術(道具)や、あるいは根源的時間性と技術とを対立させる発想は、スティグレールがその主著『技術と時間』の一巻の冒頭でまっさきに批判しているものです。