宮坂和男『哲学と言語 フッサール現象学と現代の言語哲学』

哲学と言語―フッサール現象学と現代の言語哲学 (広島修道大学学術選書)

哲学と言語―フッサール現象学と現代の言語哲学 (広島修道大学学術選書)

大まかに言えば、この本では三つの作業がなされています。
1、フッサール現象学の核心部分を検証していくことで、その限界地点を探り当てていく。
2、その限界地点を引き受けて新たな領域を切り拓いていった存在としてデリダを見出していく。
3、デリダの問題点を指摘し、今後の課題と思われるものをおずおずと提示する。

と、こういった議論の流れは明らかに「デリダの可能性の中心」的なところに焦点を当たてているわけなんですが、この本がとても興味深いのは、宮坂氏が明らかにフッサーリアンとして、フッサーリアン的な議論の手順から出発することでこのような議論を行なっている、という点です。普通、そういったフッセーリアン的な議論の手順がデリダとかに触れる場合には、「実はそれにちかいことはすでにフッサールが論じている、ほら」というパターンになるという風な印象を僕はもっているのですが、この宮坂氏はそうではなく、デリダの議論の方にむしろ足場をおいた上でフッサールを批判的に捉えていきます。こういった姿勢が稀であるのは、フッサールに本当に批判的な人はそれほどこまかく草稿なんかを読んでそれをデリダの議論へとつなげようなんてことはしないし、また草稿をこまかく読むっていうようなコストまで払った人はそれほどにはフッサールを突き放すことができない、っていう当たりに由来するんじゃないか、なんてことを思っているのですがどうでしょう。

まあそんな下世話な話はどうでもいいんです。ポイントは、デリダをちゃんと理解するためにはまずフッサールをちゃんと理解するのが一番の近道だと思うのですが、その近道のルートを素晴らしく鮮やかに作り上げてくれているのがこの『哲学と言語 フッサール現象学と現代の言語哲学』だということです。これはなかなか貴重だと思います。ありがちなデリダ史観だとフッサールは端的に音声/ロゴス中心主義で片付けられてしまうわけですが、最終的にはその診断が妥当なのだとしても、フッサールの議論自体は単純に捨て去られてしまわれるべきものではなく、そこではさまざまに繊細で生産的な議論もされており、それらの議論を踏まえた方が、デリダの議論のその出発点がよく見えるような気がします。

で、上で述べたような「近道」に関していえば、箇条書きにした三つの作業のうちの1と2の入り口までがそれに当たります。暴力的に要約してしまえば、明証性の最終的な根拠を繰り返し知覚に見出そうとするフッサールに対して、地平という契機がたえず回帰してきて最終的にはフッサール現象学の基礎づけ的試みを決定的に不可能にしてしまい、その不可能性を肯定的に捉えなおしているのがデリダである、という議論です。本書の内容に即していえば、サールとデリダの論争について論じているあたりです。とりあえず、そこまでの箇所は絶対に読む価値がある、と僕は思ったのでこうして紹介している次第なのでした。ではそれ以降の箇所はどうなのか、ということなのですが、そこでは1の部分ほどの繊細な議論はなされてはいませんが、それなりに面白いとは思います。が、微妙なところもあり(とくに最後のデリダ批判)、ここではコメントはしないことにします。

しかし、文章は平易で論点も明確であり、すくなくともフッサールについて論じている箇所に関しては素晴らしいのじゃないかと僕は思いました。そして後半部分の野心的(あるいは冒険的)な議論も含め、多くの人にこの本を読んで欲しいと思ったのでした。そういえばはてなキーワードの「ノエマ」の項はやけに詳細な説明がされているわけですが(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%A8%A5%DE)、この本を読むとその辺の議論についてもとてもクリアになると思います。さすがにフッサール入門の本にはならないかもしれませんが、入門書を読んだ次の本としては読めるんじゃないだろうか、という気がします。もしかすると、『現代思想の源流』で野家啓一が書いているフッサール解説を読んで次にこの宮坂氏の本を読む、というのが最短経路かもしれません。

現代思想の源流 (現代思想の冒険者たちSelect)

現代思想の源流 (現代思想の冒険者たちSelect)