ももいろクローバーZ『5th Dimension』の反時代性

ずいぶん久しぶりの更新で、なぜか4月10日に発売されたももいろクローバーZのニューアルバム『5th Dimension』ついて書くことになりました。なにとぞご容赦ください。

前段:音楽コンテンツの売れない時代

 この記事では、ももクロのニューアルバム『5th Dimension』の反時代性というものについて論じるわけですが、そもそも反時代性とは何かということから語り起こす必要があるでしょう。ここで「反時代的」という言葉で念頭に置いているのは、フリードリヒ・ニーチェの『反時代的考察』です。そこで「反時代的」ということで言われているのは、(たぶん)たんに時流に逆らうということ以上の、たとえば自衛隊が戦国時代にタイムスリップしてしまうような、通常の時間の流れの論理を逸脱する時間性です。「反時代性」とは、それゆえ本当は「新しい」も「古い」もなく、脈絡のない「闖入」とでも呼ぶべき時間の論理を意味するのです(たぶん)。

 とはいえ、ももクロの反時代的アルバムがどのような時代に闖入してきたのかというその時代背景を抑えておくと、その闖入の破壊度の深さを測りやすくなるでしょう。ということで、『5th Dimension』に強烈な闖入をかまされた現代という時代について簡単に振り返ってみます。

 いまさら数字を出すまでもなく、昨今の音楽産業は猛烈な冬の時代を迎えています。諸悪の根源はデジタル技術とインターネッツ。そう、音楽コンテンツの音源が、Youtubeをはじめとした、合法非合法を問わずあらゆるルートで出回るようになったのです。自分自身、高校時代は月のバイト代の半分以上をCD等の音楽コンテンツに費やしてきましたが、気付くとCDを買うという習慣はまるっきり消え去っていました。もちろん年を取ったというのもありますが、それ以上、なにか聴きたいものがあったとしても、わざわざ買わなくともネット上で見つかる、もし見つからなければ見つかるものを聴けばいい、という感覚が普通になっていったということが大きいように思います。音楽コンテンツを聴くのにお金を払う必然性を感じなくなった、この感覚は、それなりに一般的なのではないかと思います。

 クリス・アンダーソンが『フリー』のなかで、「情報はフリーになりたがる」と述べていましたが、この原理は音楽コンテンツにも当てはまるようです。CDとしてパッケージ化された音楽情報は、すぐさまデジタルデータと取り出してオンライン上に挙げられ加速度的に出回っていく。その結果として、オンライン上には無料の音楽があふれかえっていくことになります。デジタル的な複製技術の時代において、音楽コンテンツが長期的には無料化へと向かっていくことはおそらく時代の趨勢なのでしょう。ということで、音楽コンテンツをパッケージ化して販売することを飯の種にしてきた音楽産業は、なにか別のビジネスモデルを模索しなければならなくなったわけです。

体験の消費化1―AKB王国の誕生

 音楽コンテンツがデジタルな複製技術によっていやおうなく無料化されていってしまう事態に対して、音楽産業はどのように対抗しうるのか。当然頭の固い人間は、複製行為そのものを法的に取り締まることで、従来のビジネスモデルを救おうと考えるわけですが、そんなことうまくいくはずがありません。いくら法的規制をかけたところで、大規模なものは別として、個人個人の範囲で行う複製行為をすべて取り締まることは不可能です。ではどうしればいいのか。答えは簡単です。デジタル技術が複製できないものを商品にすればいいのです。複製が不可能なもの、それはつまり、体験です。

 複製可能な音楽コンテンツが売れないのならば、体験を売るしかない、この当たり前といえば当たり前の結論を音楽産業でもっとも大規模に展開したのは、いうまでもなく秋元康AKB48です。自前の劇場を作り、握手会を方法論化することで、AKB48は体験を商品化しました。何月何日のある時間に劇場で公演をみるという体験や、推しメンの誰かと握手をしたという経験は、絶対に複製不可能なのです。秋元康はその複製不可能な体験を商品化することによって、デジタル時代の音楽産業(あるいはエンターテイメント産業)の一つの回答としたわけです。

 握手券を付けてCDを大量に販売する手法は、AKB商法やドーピングなどと言われ批判を受けていますが、それらの批判は部分的には筋違いと言えるでしょう。複製可能な音楽コンテンツそのものはもはや商品とはなりにくい、ということは周知の事実です。CDを買う人の大部分がお金を払っているのは、音源そのものに対してではなく、ジャケットや歌詞カードを含むモノとしてのCDや、さまざまな特典や、あるいは特定の日付にCDが発売されるというそのイベント性に参加するためでしょう。もちろんオンラインのダウンロードという形で音源そのものを購入するというケースも増えていますが、しかしいくらでも複製可能なものそのものを商品とするのは、ビジネスモデルとしては脆弱であるような気がします。

 音楽コンテンツの音源そのものは商業的価値を失いつつあります。そのことは誰もが気付いているわけですが、AKBのビジネスモデルは、その事実がはらむ帰結を極限にまで展開している、という点で前衛的です。ビジネスモデルとしてのAKBは、そもそも音楽コンテンツを商品としているのではなく体験を商品としているのであり、その体験を売るためのチケットとして、CDという音楽コンテンツのパッケージを利用しているだけです。これはきわめて賢明な戦略と言えるでしょう。音楽産業が作り上げてきた既存の流通システムと、さらにはオリコンチャートなどの話題生成システムも同時に利用することができる。そしてもちろん音楽という素材そのものが、体験を売るための乗りもとしてきわめて有効であるのだと思います。AKBは、音楽コンテンツを売るために握手券というドーピングをしているわけではなく、AKBが生み出す体験を売るための販売経路として、既存のシステムをハックしているだけなのです。当然、音楽コンテンツを売るというロジックと、体験を売るというロジックが一つのヒットチャートのなかで混ざり合ってしまうので、そこに強い軋轢が生まれるのは必然的にですが、まあ時代の変わり目なんだってことです。

体験の商品化2――ももいろクローバーのゲリラ戦

 さて、ようやくももいろクローバーZの話に入ることができます。AKBのシステムは、デジタルな複製時代に複製不可能な体験を商品とすることで大躍進し、一大アイドル王国を築き上げました。それを推し進めた秋元康の着眼点と手腕は天才的だといわざるを得ないでしょう。しかしそのAKB王国が盤石の体制を築き上げているその傍らで、もう一つのアイドルグループが活動を開始しました。2008年に産声を上げたももいろクローバーです。僕の理解では、ももいろクローバー、そして改名後のももいろクローバーZは、AKBとは別のアプローチで、デジタルな複製時代におけるエンターテイメント産業からの回答を提示しています。詳しく説明していきましょう。

 ところでこの記事では、ももクロの魅力そのものにはまったく触れることはしません。ここで扱われるのは、ももクロが躍進することを可能とした環境条件だけです。ただしその環境条件を説明していく中で、ももクロがどのような点でその環境条件にうまく適応することができたのか、という点については言及することになるでしょう。

 ももクロもまた、AKBとは別の方法論を用いて、デジタル技術では複製できない体験を商品としました。その中心となるのは、LIVEパフォーマンスです。もちろん多くの音楽のアーティストはLIVEパフォーマンスを売りとしているわけで、ももクロだけが特別なわけではありません。では、ももクロのケースは、ほかの多くのアーティストのケースとどのように違うのか。メディア的環境条件、およびそれにうまく適応した三つの要素という観点からその点を考察していく。

環境条件:動画サイトのアーカイブ

 かつては、あるグループ(ソロでも)が広い認知を集めるためにはマスメディアに経由するしかありませんでした。しかし現在ではネットを介して、原理的にはネットに接続できるすべての人に認知してもらえる可能性があります。さらには動画サイトにPVやライブパフォーマンスの動画が挙げられていることによって、ちょっと興味を持った人がいくらでもハマっていくことのできる素材が用意されています。ももクロの躍進(驚異的な新規ファン獲得の速度)が、こういった技術的環境によって可能となったということは、誰しもが認めるところだと思います。もちろんこの環境は誰でもが利用できるものであり、なぜももクロだけがここまで躍進したのか、という説明にはなりません。

適応要素1:ライブパフォーマンス

 インターネットを介した認知獲得という回路が生まれたことで、ライブパフォーマンスというものの価値が大きく変わりました。とくにももクロの躍進は、ある種のライブパフォーマンスの映像がもつ驚異的な感染力を証明した、と言えると思います。かつては、「ライブがすごい」と言われても、そのライブをすぐに見ることはできず、それゆえ感染力には限界がありました。しかし現在では多くの動画がネットに転がっているので、「ライブがすごい」という口コミが、即座に「ほんとうだすごい」という感染につながるわけです。ライブ映像というのは、感染力は高いが寿命の短いウイルスみたいなものです。人口密度が低ければ感染者がほかの誰かに出会うまでにウィルスが死んでしまうが、人口密度が高いと次々に感染が連鎖してパンデミックが起こる。現在のメディア環境は、一定以上の感染力の高いライブパフォーマンスを、動画サイトを介して大流行させることができる、というわけです。とはいってもこの事実は、凄いライブパフォーマンスをするグループは一気に認知が広がる、という環境条件を説明しているにすぎず、魅力的なライブパフォーマンスを行うグループが数えきれないほどあるなかで、なぜももクロのライブパフォーマンスだけがなぜこれほどの感染力を持ったのか、という説明にはなっていません。

適応要素2:成長する少女の物語性

 結果的にももクロが見せた驚異的な感染力は、おそらく「アイドル」というジャンルと切り離すことができません。ライムスターの宇多丸の定義によれば、アイドルとは「魅力が実力を凌駕している存在」(うろ覚え)です。つまりそこには魅力と実力の隔たりというものがあって、そこに存在する実力の不足をファンが応援によって埋め合わせる、という関係を作り出すのがアイドルだというわけです。そしておそらくアイドルのリアリティー・テレビ化が始まったモーニング娘。の時代から、アイドルの本質である(らしい)魅力と実力の隔たりは、アイドルの成長物語という性格を持つことになったのだと思われます。アイドルのまだまだ未熟な部分を積極的にファンに見せていくことによって、そのアイドルが成長していく様をファンたちが共有する、というアイドル消費の形式が確立されたわけです。モーニング娘。がテレビというメディアでやったことを、AKBはインターネットと劇場を使って再び大成功させました。なにやら、「必死に頑張る少女の成長」というものにはある種普遍的な魔力があるようです。おそらくこの普遍的な魔力が、アイドルという存在がもつ不思議な感染力の源なのでしょう。

 さて、ももクロです。ももクロが大躍進するきっかけとなったのは、2011年4月の早見あかり脱退からZ改名に至る一連の出来事でしょう。この時期に、「必死に頑張る少女の成長」の物語は、まったく新しい強度を持つことになりました。もちろんそこには、紅白出場というわかりやすい目標も用意されていました。そしてさまざまな動画サイトを通して、新たにももクロに興味を持った人が関連動画に出会いこの物語にどハマりしていく。ベルトコンベアー式のモノノフ生産工場です。ここではその物語の魅力について主観的に語ることはしませんが、結果としてももクロの物語が発揮した感染力から逆算すると、エボラ出血熱なみに強力な物語ウィルスが生成されたのだと推測されます。もちろんこの大きな物語だけではなく、ライブパフォーマンスそのものにひそんでいる小さな物語も存在します。まだ未熟ながらも必死に歌って踊る姿には、やはり「必死に頑張る少女の成長」物語がミクロにひそんでいます。そしておそらくこのミクロの物語もまた、ペスト並みの感染力を持っていたのでしょう。

適応要素3:ネットを介して垣間見える素顔

 「アイドル」という言葉はもともと「偶像」という意味であり、だとすれば「アイドルの素顔」というのは語義矛盾だったりするわけです。しかし現代のメディア環境は、アイドルの素顔というものをファンにひたすらにさらしていきます。それゆえおそらく、現代ほどアイドルの「人柄」や「人間性」というものが重要になっている時代もないでしょう。テレビしかなかった時代であれば隠せていただろうものも、現代ではダダ漏れになってしまうのです。それゆえ現代では、アイドルの人間性が、そのアイドルがもつ感染力の大きな源にならざるをえません。そしておそらくももクロの場合、ライブパフォーマンスや脱退&紅白の物語に加え、メンバーの人間性という点でも驚異的な感染力を持ったのでしょう。ただし言ううまでもなく、さまざまな経路を通して漏れてくるメンバーの人間性は、ライブパフォーマンスの魅力やグループをめぐる物語の吸引力と不可分に結びついています。メンバーの人間性を知っていれば、ライブパフォーマンスの魅力は深まりますし、また真に感動的な物語の素材となるのは、メンバーの人間性以外の何物でもないわけです。「ねぇあかりん?」*1という物語内のセリフの意味は、それを裏付ける人間性によってまったく変わってくるわけです。

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 まとめると、ももクロは、動画メディアが整備されている環境のなかで、1)ライブパフォーマンス、2)成長物語、3)人間性という三つの要素で驚異的な感染力を発揮することによって、AKBに迫るほどの社会的認知を獲得した、ということです。そして、AKBがメンバーとの接触という複製不可能な体験を商品とするように、ももクロ人間性と物語性とによってさらに磨き上げられたライブパフォーマンスという複製不可能な体験を商品としているわけです。どちらの戦略においても、前提には音楽コンテンツそのものは商品にならないという認識があります。たとえばももクロの場合、極端な話CDを出さずに曲は全部PVとして無料でネット上に挙げ、それらは商品ではなくライブに来てもらうための導線とする、というスタイルを取ることだってできるわけです。実際ももクロファンには、シングルはほとんど買わず動画サイトで聴き、しかしライブには全力で参戦という層も一定程度いると思われます。とにかく、音楽コンテンツが商品にならない時代に、それぞれの手法で体験を商品にして成功しているのがAKBとももクロである、というのがおおまかな時代な趨勢であるわけです。

『5th Dimension」―異次元のコンセプトアルバム

 『5th Dimension』発売の一か月近く前、アルバムのタイトルを冠したツアーが開催されました。このツアーはファンの間で大きな議論を呼びました。議論の的となったのは、大きく次の三つの点。
1)二部構成の第一部が、まだ発売されていないアルバムの曲を曲順通りに全演奏
→知らない曲ばかりで、うりゃおい騒ごうとやってきたモノノフ完全置いてけぼり

2)五次元バンド使用でコンサート第一部はサイリウム完全禁止
→観客には中央制御で光る五次元バンドなるものが渡され、ももクロファン(モノノフ)の象徴ともいえるサイリウムが禁止され、モノノフやるせなす

3)仮面装着&MCなしの純粋パフォーマンスライブ
→コンサート一部の間は仮面装着でメンバーの顔が全く見えず、またわちゃちゃトークによるMCもなしでモノノフ萌えられず

とまあ、いつものライブを期待していたファンの一部は大荒れし、五次元という世界観や、また五次元の象徴となっていたドリアンマスクに批判殺到、ということがあったわけです。ツアー自体は少しずつ評価がよくなっていったようですが、しかしくすぶるものはしっかりくすぶったまま、アルバム発売日を迎える。

さあ、ようやく本題です。恥ずかしながら人生初のフラゲというやつで『5th Dimension』を聴いたのですが、腰を抜かしました。最初は、単純に内容が素晴らしすぎて腰を抜かしていたのです。既発のそれぞれきわめて特徴的なシングル曲が、不思議なことにアルバムのコンセプトにぴったりとはまるように配置されている。しかも、シングル曲以外のアルバム曲がどれも素晴らしく、バリエーションもぶっ飛んでいて、それでもやはり全体で一つのコンセプトを貫いている。見事すぎるコンセプトアルバムです。でも、そのうちに、このアルバムの異次元具合にしだいに気付いていきました。長々書いてきたように、時代の趨勢は音楽コンテンツではなく体験を売る、というもので、ももクロそのものがまさにその趨勢にハマりにハマって大量のモノノフを生産してきたわけです。しかしなんなんだ、このアルバムは。

『5th Dimension』というアルバムを聴き、そこで実現しているおそるべき完成度の曲の流れを知った時点から振り返るならば、一か月前のツアーで、モノノフを置いてきぼりにしてまでも「五次元」という世界観を貫徹したこともむべなるかなと大きくうなずける。うなずけるのだけど、時代の趨勢はどこにいった?時代の趨勢に完璧に乗っていたはずのアイドルグループから、なぜ、音楽コンテンツそのものの完成度を追求し、しかもそれを驚くべきレベルで実現してしまうということが生じうるのか。わけわからんちん。しかもご丁寧にとげとげドリアンマスクまでかぶって、アイドル的な「体験」の方向をゼロにするどころかマイナスに落としてまで、こんな時代を外れたコンセプトアルバムを作ってしまうって、何なの?斜め上どころか、まさしく五次元から飛び出してきたとしか言えない「反時代的」な産物です。時代に逆行するどころではなく、ハムレット風に言えば時間に関節技かけてマジ脱臼起こさせているレベル。

ポストAKBと呼ばれ、ビジネスモデル的にもAKBに並走する形で時代の趨勢にチューニングしていたももクロ。それがいきなり五次元カーブを切って視界から消えたと思うと、ドリアンマスクかぶって別の惑星で踊っている。凄すぎワロタ。むしろ泣いた。五次元までついていきます。本当にありがとうございました。