民主党への失望

政権交代に大きく期待はしていたけれど、民主党そのものへの期待は、限りなく低かった。マニフェストに記された目玉の政策が実現しなかったとしてもほとんど失望しないし、むしろ、全部実現したらヤバいだろうから、それなりに現実的な判断が働いてあとは「ごめんなさい」と誠実に謝ればそれでいいんじゃないか、ぐらいに思っていました。

にもかかわらず、だ。まさかこんなにも早々に、しかもこんなにも激しく、民主党に失望し、さらには深い怒りまで覚えることになろうとは予想だにしませんでした。↓参照。
民主党の重大な「公約破り」はじまる 許すまじ!

僕は今、民主党に失望しているのと同時に、自分が感じている感情の思いがけぬ激しさに驚いているのですが、ちょっと冷静になってこの感情について振り返ってみると、そこには、失望に加えてある種も無力感も混じっていることが見て取れます。この後者については、民主党に対してのもの、というよりもむしろ、マスメディアに対する感情であるようです。

今回の怒りの激発は、今から思えばあらかじめ準備されていたものでした。上のリンク先からさらにリンクが飛んでいる上杉氏や神保氏の記事にあるように、記者会見のオープン化という民主党の方針は、これまでマスメディアでほとんど取り上げられてきませんでした。偉そうに既得権益を指弾するマスメディアが、他方では自らの既得権益に関わる点については見て見ぬ振りをするというその精神の醜さには、なんともいいようのない嫌悪を覚えてはいたのでした。が、それほど強くは意識していなかったのですが、今回の自分の感情の動きを見るに、この嫌悪はそうとう根の深いものであったようです。その嫌悪が、今回の件で触発されて一気に意識の全面に踊り出し、今回の怒りの激発につながったのだと思われます。

ただ、そこには同時に、既に書いたように、怒りの感情だけでなく、ある無力感もまたかなりの存在感を示しています。ネットが普及した現在、情報の経路がかなり多様化したことはまちがいなく、情報流通におけるマスメディアの地位がそれなりに相対化していることもまた間違いないでしょう。しかし、ある時代の空気というか、機運というか、そういう大きな流れを作り出すことができるのは、やはりマスメディアだけであるように思えます。ネット上で出回った情報が大きな機運に結びつくという出来事も、結局は、それがマスメディアに取り上げられることよってしか実現しないのではないでしょうか。

とすると、そのマスメディアそのものが意図的にある機運が盛り上がることを避けるのだとすれば、いかにネット上である種の言説が盛り上がっていったとしても、それは決して決定的な一線を越える、つまり全国的な運動へと結びつくことはできません。

ああ、だからゲリラ戦になるしかないです。

まあ考えてみれば、宮台氏のブログのリンク先にあるような、ずっとゲリラ戦を戦ってきたフリージャーナリストたちがいるというのに、それまでまったくの傍観者であった自分が、いまさらながらこのゲリラ戦に絶望するというのも、ずいぶん調子のいい話であるということにいま気づきました。文章を書いた効用です。

とりあえず、自分がいまさら無力感に苛まれるまでもなく、ずっと出口が見えない中、これよりも遥かに強い無力感のなかで戦いつづけてきた人々がいたのだ、ということにいまさらながら気づくことができたという点で、前向きに考えたいと思います。

・・・
ああ腹が立つ。

[追記]