指標の信頼に足る不確実性について

去る7月11日には参議院選挙の投開票がありました。予想されていた民主党の敗北が現実となり、世間全体があわただしくなっている傍らで、東浩紀氏のtwitter上でのつぶやきがささやかな波紋を呼んでいました。それは、今回の参議院を棄権した、とのつぶやきでした。

ちなみにぼくは今回棄権した(どうせこれでネットで批判殺到するんだろうけどさ)。なぜか。それはいろいろ考えるとタリーズコーヒーに入れるしかないと思ったからである。less than a minute ago via web

果たせるかな、そのつぶやきには当然予想されたような批判がいくつか寄せられ、かといってとりわけ盛り上がることもなく、まさしくささやかに、それらはタイムラインの彼方へと緩やかにフェードアウトしていったのでした。

ここではその何ということもない一風景に言寄せて、投票行為というものについて若干の考察をしてみたいと思います。ただしあらかじめ告白してしまえば、今回書こうと思っていることの中心にあるのは、指標とパラメータの違いという、以前から何となく考えていた別の問題です。東氏の投票棄権をめぐる今回の風景を眺めているうちに、それを理解するための一つの考え方として、そのうち書こうと思っていたその問題がいくらか役に立つかもしれないと思えたので、思いつくままに書いてみることにします。

とりあえず出発点にあるのは次の考え方です。

「投票行動は、政治意識の高さの指標ではあるが、パラメータではない」。

まず僕個人としては、社会を構成する一人ひとりの個人が高い政治意識をもつことは「望ましい」と考えています。より具体的には、「民主主義という統治形態」と「高い政治意識をもった選挙民」のカップリングが、政治の在り方として「望ましい」、ということです。ところでこのような立場をとるとき、「選挙における投票の棄権は望ましくない」と述べることができるでしょうか?この問いを別の観点から捉えるとこういうことになります。

「投票の棄権は政治意識の低さを示しているか?」

この問いに対しては、まずは「それほど簡単に答えられる問題ではない」と応答することになるのですが、そこで重要なのは、ではその「難しさ」とはどの辺にあるのか、という点です。そしてその「難しさ」を腑分けし、その由来を明らかにするために必要だと思われる言明が、「投票行動は、政治意識の高さの指標ではあるが、パラメータではない」であるのです。

ではこの辺りまでを枕として、指標とパラメータの違い、という問題について考えてみたいと思います。

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まずは指標とパラメータについて、それぞれ仮に次のように定義したいと思います。

・指標=ある現実を間接的に(ということは不確実に)示すもの
・パラメータ=ある現実を直接的に反映するもの

たとえば戦闘力的な意味での「強さ」というものを考えてみましょう。RPGなどのゲームの場合、あるキャラクターの「強さ」は完全にパラメータに反映されます。というよりも、もろもろのパラメータこそが「強さ」の定義なので、そこに不確実性が入り込む余地はまったくありません。それに対して生身の人間における「強さ」というものを考えた場合、その強さを測るのはパラメータではなく指標です。たとえば筋肉の立派さは「強さ」の指標ですが、パラメータではありません。筋肉の立派さは、蓋然的な仕方で「強さ」を示すだけです。筋肉のポテンシャルが高くても、反応速度が異様に遅ければたんなるデクの坊です。確かにさまざまな科学的な手法を用いることで、筋力系や神経系のポテンシャルをすべて計測しつくす、ということは理念的には可能かもしれません。しかし現実世界では、ゲームの場合とは異なり、身体的な次元に限ったとしても「強さ」といったものの内実はきわめて多義的です。だとすると科学的に計測された数値の束も、結局は「強さ」を間接的、すなわち不確実に証言する指標でしかありません。現実世界には、パラメータは存在せず指標しか存在しないのです。

経済(学)という領域では、指標とパラメータの違いがしばしば混同されがちであるような気がします。経済の領域では多くの数字がやりとりされますが、しかしたとえば「好調な経済」だとか「景気の良し悪し」だとかが語られる際には、そこで最終的に問題となるのは経済活動をする人間です。数字にとっては景気が良かろうが悪かろうが関係なく、人々が幸福(なんとも多義的な言葉ですが)に暮らしていくためにこそ、景気の良さというものが必要であるわけです。

たとえばGDPや経済成長率という数値があります。これらは経済の現状を計る際にしばしば援用されるわけですが、当然ながらこれらの数値はあくまでも経済の指標であり、パラメータではありません。つまりそれらの数値の上昇は、人々が経済的に豊かであることの指標ではありますが、パラメータではありません。ただし指標がつねになんらかの不確実性を伴うものであるのだとしても、そこには指標が指標として機能するための根拠というものは見出されるはずです。GDPという数値の上昇という場合ならば、なぜその数値の上昇が人々の全般的な経済的豊かさの指標となりうるかについて、容易に因果関係を説明できるのだろうと思います。指標というものは蓋然的に信用できるものであり、通常はそのような信用のもとで使用され、その蓋然性を担保している因果関係をいちいち追跡するということはなされません。それはもちろん指標というものを利用する際の正しい態度ではありますが、ただ、やはり注意も必要であります。

経済音痴の自分にはこれが事例として適切なのかちゃんと判断できないのですが、小泉改革の時代などにしばしば、大企業だけが業績を伸ばすことでGDPが上昇したのだとしても、そのことは一般の人々の経済的な豊かさとは結びつかない、ということが主張されていた気がします。この主張が正しいのか正しくないのか、ということはとりあえずカッコに入れるとしても、経済の構造が変われば、指標を指標として成立せしめていた因果関係が成立しなくなる、ということは充分ありえます。指標を扱う際には、そこにはつねにこのような不確実性が存在する、つまり指標=パラメータではない、ということにどこかで意識的である必要がある気がします。

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選挙で投票に行くという行為は、その人が一定程度以上、政治に対して意識を持っていることの指標である、と言えると思います。ここで「政治的意識の高さ」ということで指しているのは、おおざっぱに、政策や政治的動向や政治家について関心を持っていること、というぐらいの意味です。投票率の高さは、多くの人が政治に関心をもっていることの指標ですし、逆に投票率の低さは、多くの人が政治に関心を持てないことの指標である、ともいえます。もちろん指標であるからには不確定性があり、盲信するわけにはいきません。たとえば全体主義国家では投票率が100パーセント近くになるということが起こりますが、このことは政治的意識の高さを示すものではまったくありません。また、特定の利益団体に属していて、その団体の決定に従って何も考えずに指定された候補に投票している選挙民が高い政治的意識を持っているかと言うと、必ずしもそうとは言えません。おそらく、政治的意識の高さの指標としての投票行為という事例は、経済においてGDPが人々の経済的豊かさの指標であるという事例よりも、指標の信頼性というか、それが指し示す事象との連関は、緩やかなものであると言えるでしょう。

それゆえ、政治的意識の高さの指標としての投票行為というものを考える場合、それがどのようにして指標として機能しうるのか、ということについてちゃんと理解しておく必要があるでしょう。

指標としての投票行為には、大きく分けて二つの側面があると思います。一つは、投票するという行為は、そうせしめた原因としての政治的意識の高さを間接的に表示している蓋然性が高いという、「間接的表示」の側面。もう一つは、投票という行為そのものが事後的に投票者に政治的意識をもたらすという、「再帰的効果」の側面です。


■ 投票による「間接的表示」
投票を行うには動機があります。常識的に考えれば、投票へと結びつくような動機は、政治的意識によって生み出されます。それゆえ、投票という行為は、間接的に政治的意識の高さを間接的に表示している、と言えるかと思います。もちろんすでに述べたように留保が必要で、ある投票行為が実際に政治的意識の高さを間接的に表示していることを蓋然的に示すには、それなりの状況証拠を確認しておく必要があります。たとえば、投票者が誰かに強制されているわけではなく、あるいは強制とまでは言わなくても、たんに習慣的、惰性的に特定の候補、政党に入れていたりしているわけではなく、自分で考えて投票を行っている、という状況証拠があれば、その投票行為は投票者の政治的意識の高さを示している蓋然性は上がります。

■ 投票による「再帰的効果」
投票するという行為には、言語行為論でいうところのある種の行為遂行的(パフォーマティヴ)な側面があります。つまりそれは、たんにすでに存在している政治的意識の表明である(ありうる)にとどまらず、投票するという行為そのものによって、あとから政治に関心を持つようになる、という効果があるわけです。たとえば小泉旋風の際に、とくに深く考えず面白半分で投票した人が、投票したというその事実によって、自分の投票した政党や候補者の動向に関心を向けるようになり、あとから政治的意識を育てていく、ということはおそらくあったでしょう。一回の投票行為は、そのような「再帰的効果」を投票者にもたらすと思われますし、またこれまでに繰り返された投票行為は、「再帰的効果」に依拠する蓋然性によって、その人が高い政治的意識を有していることを指標的に示します。

以上の理由で、指標としての投票行為は、一定以上の蓋然性をもって、投票者の政治的意識の一定以上の高さを示します。

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しかしここでもまた、指標はパラメータではないということを忘れてはいけません。投票行為は政治的意識の高さの定義ではない、ということが意味するのは、高い政治的意識をもちながらも投票を行わないということは可能であるし、またそれほどありそうにないことでもない、ということです。とりわけ、たった一回の投票の棄権に関して述べるならばなおさらです。

それでは、高い政治的意識を持ちながら投票を行わない、というケースにはどのようなものがあるでしょうか。当然ながら、事故に遭ったり海外にいたりなど、物理的に投票に行けないというケースがあります。これは当たり前と言えば当たり前ですが、指標というものの不確実性は、こういったケースにも影響されうるという点にあるので無視することはできません。問題は、投票に行けるけれども行かなかった、という場合で、今回の東氏はこのケースにあります。そして東氏は、今回投票に行かなかった理由を明確に語っています。

ぼくは今回みんなの党を支持するしか選択肢がないという結論に至ったのですが、同党の候補者には地元比例区ともに投票したいひとはいませんでした。以上が棄権の原因です。RT @E17n 参議院の比例は候補者名を書けるのに、投票したい人が一人もいなかったの?less than a minute ago via web

棄権ズルい!とか言う人々の感覚はわかる。そういうひとはきっと、本当は投票したくない候補者に投票したのだろう。その不愉快が義務だという考えもまたわかる。でもぼくとしては、いろいろぐるぐると回った挙げ句、投票したくないなら投票しなくていいじゃん、という素朴なところに戻ったのです。less than a minute ago via web

多くを語る必要はないと思いますが、この場合は明確に、政治的意識の高さの結果として投票の棄権という結果に行きついています。蓋然性としては、投票に行った人と行かなかった人とを比較すれば、前者の方が高い政治的意識を有している可能性が高いですが、しかし指標というものの信頼性は、それを指標として機能せしめている因果関係と、またそれを有効たらしめている状況証拠とともに理解される必要があります。それゆえ、多くの人が政治的意識を高く持つことを「望ましい」と考えている人間にとっても、誰かの投票棄権という事実を前にして、それを即座に「望ましくない」とは判断できないのです。

もし誰かの投票棄権を、たんにその事実において「望ましくない」と判断しうるのだとすれば、ぼくの想像が及ぶ限りでは、全体の投票率が人々の政治的意識に対して「再帰的効果」を及ぼすかもしれない、という点に関してくらいかと思いますが、たとえそこに分子ほどの正当性があるとしても、ほとんど言いがかりのようなものでしょう。

ただしこれは不特定の一回限りの投票についてであり、投票に伴う「再帰的効果」というものを考えるならば、たとえば投票権を得る二〇歳から何度かの選挙に関しては、もし選挙時点では政治に興味をもっていなくても、投票することによって政治に意識を向けていくようになる、ということが蓋然的に期待できるので、「ごたごた言わずとりあえず投票行っとけ」という立場を取りたいと思います(そういう自分がその当時投票に行っていたかはもちろん秘密です)。

あとは今回の東氏のケースについて言えば、投票を棄権することと、棄権したことを公言することとは根本的に異なる、という問題がありますが、これについては指標とパラメータという問題とは関係ないので、ここでは触れないことにします。

ということで、指標とパラメータというテーマについて書きたいがためだけに、わざわざセンシティヴな事例をひっぱってきて人さまを勝手に巻き込んでしまっているのですが、ここにはまったく他意なきことを読み取っていただいた上でご寛恕願えれば幸いです。