ヒマを巡る哲学的序説

以前、同人誌を出すという知り合いに求められて書いたものの、結局同人誌そのものが立ち消えになり、ずっと宙づりになっていた文章を載せます。マルクスの娘婿であるポール・ラファルグの『怠ける権利』の批判から出発し、、ベルナール・スティグレールの議論を参考に、怠けることとは区別される「ヒマ」という時間の在り方について考察しています。

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1、あまりに牧歌的な「怠けること」

 ポール・ラファルグというオッサンが、ずっと昔のことだけれど、『怠ける権利』という本を書いたらしい。聞くところによるとその本では、労働三時間制というものが提唱されているとのこと。人は一日三時間働けばそれでいい、というなんとも心地のよい主張。で、その本を読んでみたところおそらく該当するのは次の箇所、オッサンはプロレタリアートについてこう語っている。

(……)彼らがみずからの力を自覚するためには、(……)自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。
ポール・ラファルグ『怠ける権利』、p.37

 労働時間が三時間、というのはとてもわかりやすい主張だが、その一方で「怠ける」ということが何を指しているのかはいまいちよくわからない。で、上の引用文を見てみると、とりあえず「旨いもの」をたらふく食べるということが「怠ける」には含まれているらしい。また「自然の本能」という文言が見られるように、オッサンが労働を非難するときは、その裏側に人間のある種の「自然」というものが念頭に置かれている。たとえば次のような一文にもそのことは明らかだ。

民話や昔話に出てくるあの陽気なおばさん連中はどこに行ったのだ。あけすけに語り、天真爛漫にぱくつく、徳利大明神の恋人たちは。いつもこまめに駆けまわり、料理と歌が好きで、喜びをふりまいては、健康で逞しいちびたちを陣痛もなく産み、生命の種を撒く、あの朗らかな娘たちはどこに行ってしまったのか。
同上、p.23

 この一文が引き合いに出しているのは、ある牧歌的なライフスタイルだ。無邪気な精神の持ち主たちが、飲み食い遊び繁殖する。そこでは誰もが生まれつき生き方というものを知っている。労働ひいては資本主義が敵視されるのは、この生まれつきの生き方というものを解体してしまうとされているからだと思われる。とすると「怠ける権利」と呼ばれているのは、この生き方へと立ち戻る権利のことなのだろう。
 しかしラファルグの時代以降の資本主義の動向というものを思い出すならば、そう牧歌的に「怠ける権利」というものを謳い上げている場合ではないことはすぐにわかる。このオッサンが標的にしているのは、労働、つまり生産するという行為だ。そしてその生産行為の外部に、あの牧歌的な生き方が無傷で眠っているのだと想定されている。しかし19世紀から20世紀にかけての資本主義、たとえばベンヤミンが『パサージュ論』で描き出しているような資本主義以降は、むしろ消費が資本主義の運動の中心に位置するようになっている。そして消費という問題が『怠ける権利』との関係で重要なのは、消費というものが、すなわち生き方の消費に他ならないからだ。


2、消費することと「生きる仕方」

 たしかにラファルグのオッサンも消費の問題について言及してはいる。が、そこでは消費は生産と切り離されていて、生産の回路から離れさえすれば、人々は自動的にあの生まれつきの生き方へと立ち戻ることができるかのように扱われている。しかしそんなことはありえない。ラファルグの義理の父親であるカール・マルクスがすでに論じているように、生産と消費とは不可分に結びついている。たとえば生産されうるのは消費の対象だけだ。つまり、そもそも人々が何を消費するのかが、生産されるものをある程度決定する。マルクスの有名な表現を用いるなら、消費は生産に「≪finishing stroke最後の仕上げ≫をくらわす*1」のだ。
 ただしここで問題となるのは、たんに一般的な生産と消費との循環だけではない。消費されなければ再び生産することができず、再生産のプロセスが立ち行かなくなる、ということだけが問題となっているのではないのだ。というのもこれまたマルクスが述べているように、「消費は、欲望を再生産する*2」からだ。つまり、モノの消費と生産という再生産プロセスだけではなく、そこでは同時に欲望の消費と生産という再生産プロセスもまた作動しているのだ。
 何を食べ、何を着て、どういう場所に住むのか、これらのことは、どのように生きるのかということと切り離すことができない。この点についても、マルクスはきわめて明確に語っている。

〔消費の〕対象は、けっして対象一般ではなくて、ある一定の対象であり、しかもそれは、ある一定の、生産そのものによってふたたび媒介されるような仕方で、消費されなくてはならない。空腹は空腹であるが、料理された肉をフォークやナイフでたべてみたされる空腹は手や爪や牙をつかって生肉をむさぼりくらいような空腹とは、別のものである。だから消費の対象ばかりではなく、消費の仕方もまた、生産によって、客体的にはむろんのこと主体的にも、生産される。生産は、こうして消費者を創造する。
マルクス『経済学批判』,300頁

 生産は、消費の対象を生み出すだけでなく、それらを消費する仕方をも生み出す。ごくごく素朴な風景を想像してみよう。たとえばゴッホが描いた靴、マルティン・ハイデガーが『芸術作品の根源』で取り上げた、あの使い古された農民の靴。あの靴のうちには、農民がどのように生産しているのかが紛れもなくにじみ出ている。そしてそれは、マルクスが「一般的労働時間」と呼んだような分断され抽象化された労働行為ではなく、それ自身が「生きる仕方」であるような行為だ。産業資本主義が労働を機械化し抽象化する以前には、働くことと「生きる仕方」とは不即不離の関係にあったはずなのだ。
 またその靴が喚起する生産の場面は、同時に消費の場面とも切り離せない。ゴッホの見た農民が具体的にどのような生活をしていたのかは僕は知らないが、そこには、生産と消費とをともに貫く、農民のある「生きる仕方」というものが存在していたことは疑いえない。つまり生産と消費とは、循環プロセスをなすひとつの「生きる仕方」のそれぞれの側面に過ぎないのだ。ラファルグは、このように不可分に結びついているはずの生産と消費との関係を切り離してしまい、「消費の仕方」を生まれつきの自明ものとして自然化してしまう。しかしマルクスの偉大な発見によれば、消費の仕方そのものも、そのときどきの生産体制を通して作り上げられる歴史的なものにすぎないのだ。


3 象徴的貧困と感性の闘争

 産業資本主義は、機械化され抽象化された労働を導入し、働くという行為を「生きる仕方」の再生産プロセスから切り離した。ラファルグはこの動向に、「怠ける権利」なるものを対置させた。その挙動自体はわからないことはないが、ただしそこでの問題は、特定の「生きる仕方」が、「怠ける」ことで自動的に手に入るということを前提にしている点にある。実際には、「生きる仕方」というものは自動的に手に入るものではなく、特定の歴史的諸条件のなかでまさしく生産されていかなければならないものだ。
 そのことは、マルクスの死後はるか経った現在、とりわけアドルノとホルクハイマーが文化産業を激しく指弾した時代以後に生きる僕らにとって、より切実な問題になっている。たとえばアドルノとホルクハイマーは人間の想像力の産業的横領を論じていたし、ベンヤミンは文化産業の基盤である複製技術の到来がもたらした感性の変容を指摘していた。つまりある時点以降の資本主義は、たんに生活物資とその利用方法を変容させるだけでなく、「生きる仕方」を根底のところで支えている「感じる仕方」そのものに影響を及ぼすのだ。
 このような状況下では、ノンキに怠けている場合ではないのではないか。いつの時代であれひとびとは、良かれ悪しかれ自分たちを取り囲む環境に触発される。映画、テレビ、インターネット、携帯といったさまざまなメディアにつねに触れざるをえない現代の人々にとってはなおさらだ。「このような状況でたんに怠けるのは危険なのではないか?」、現代のフランスの思想家ベルナール・スティグレールなら、きっとそうラファルグに反論するでしょう。
 このスティグレールが提唱する「象徴的貧困」という言葉は、感性的次元での貧困、いわば「感じる仕方」の貧困を指し示すものだ。現代において問題とされるべきは、この「感じる仕方」の貧困であり、そこにこそ政治が戦っていかなければならない本質的な領域が存在している、というのがスティグレールの主張だ。『象徴の貧困』と題された書物の第一巻冒頭で、彼は次のように述べている。

政治の問題とは感性学(美学)の問題であり、また逆に、感性学の問題は政治の問題である。わたしはここで感性学(esthetique)という用語を、もっとも広い意味で用いている。つまり、アイステーシス(aisthesis)が感覚を意味し、それゆえ感性学が感じることと感受性一般の問題となるような、広い意味で用いている。
スティグレール『象徴の貧困1』、p.17(原著)私訳

 日本語では一般に美学と訳されるエステティックという言葉は、もともとは「感覚に関する学」という広い意味を有していた。スティグレールはこの元来の語義に立ち戻りつつ、「感じる仕方」の問題こそがまさに政治の問題の核心にあるのだと述べている。この問題意識の背後には、経済主体がますます消費者というステータスへと還元されていく経済システムの動向に対する認識が控えている。

20世紀には、個人を消費者へと仕立て上げるために、その情動的、感性学的次元を機能化する新たな感性学が立ち上げられた。
同上、p.23

 この「新たな感性学」を導くものとして名指されるのがマーケティングだ。個々人の感性や情動を商品の回路へと誘導していくテクニックとしてのマーケティングとは、消費者を作り上げるテクニックにほかならない。そこでは個々人の欲望が、いわばそれぞれの商品のサイズに適合するように整形され、結果的にその回路の外で何かを生み出すという契機を押しつぶしてしまう。スティグレールはこのような経済的傾向に対抗する一つの手段として、『象徴の貧困』シリーズでは芸術の役割に期待を寄せている。感性をカタログ化するマーケティングに抗して、特異性の経験を生み出す感性的な闘争を行う営為として、芸術が捉えられているのだ。


4 仕事と雇用

 もちろん「感性のカタログ化」への抵抗は芸術家だけの特権ではない。戦線は社会のあらゆる場所で展開されているのだ。スティグレールは『民主主義に対する遠隔支配』(2006年)および『新たな政治経済批判のために』(2009年)のなかで、「仕事」という概念の再定義を通して、感性をめぐる闘争を、芸術という限られた領域を超えた「仕事」一般の問題として捉えなおしている。
 マルクスによれば、資本主義は働くという行為を「一般的労働時間」という抽象的で量的な次元へと還元してしまう。これは、マルクスの時代の資本主義が依拠していた産業モデル、つまり機械化された生産プロセスのなかで労働者が単純労働を行うというモデルに関係する事態だ。しかし現在に生きる僕らにとってもこの「一般的労働時間」という発想は、実はきわめて身近なものだといえる。たとえば僕らが「働く」という行為をその対価としての賃金という観点からのみ理解するとき、そのとき僕らは知らない間に「一般的労働時間」を参照している。つまり、労働の内容=質は完全に無視され、そこでの労働は賃金=量に還元されるからだ。
 この発想の背景には、「働く」という行為を「雇用」に還元する、というより根本的な発想がある。つまり、「働くこと」を「雇用されること」と同一視する発想だ。常識的には、生活する=消費するためにはお金が必要で、働くのはそのお金を稼ぐためだ。だとすれば、働かないで消費できるならそれに越したことはない。ラファルグのオッサンの「怠ける」という言葉が魅力的に響いてくる。この場合には「働く」のモチベーションは消費のためのお金を獲得することであり、つまり「雇用」されることだ。そのモチベーションは、当然ながらお金が手に入れば消えることになる。
 スティグレールが異議を申し立てるのは、この発想に対してだ。

すべての雇用が仕事であるわけではない。つまり、すべての雇用が知識を獲得し、発達させてくれるわけではなく、またその知識を通して個体化することを可能としてくれるわけではない、すなわち、雇用され収入を得ることで購買力をもつ消費者としてだけでなく、社会のなかでの生産者としての位置をもたらしてくれるわけではないのだ。対して個体化とは、雇用を超えるものである仕事がもたらしてくれるものである。ただしそのためには仕事というものを、自身がもっている知識をもとにして世界を変えるために世界に働きかける行為、として理解しなければならない。ところで今日では仕事は、(・・・)だいたいにおいて雇用へと還元されてしまっている。
スティグレール『民主主義に対する遠隔支配』,p243,244

 ここには、スティグレール独自の仕事観が現れている。それによると仕事とは、雇用され賃金を得ることにつきるものではなく、ある「個体化」のプロセスを実現していく営為に他ならない。フランスの思想家ジルベール・シモンドンに由来する「個体化individuation」という概念は、ここでは、個体と環境との間のポジティブな相互作用のプロセスのことを指している。仕事を例に挙げるならば、仕事をする人間はその行為を通して環境=世界へと働きかけ、またその行為を通して自分自身を豊かにしていく、というプロセスだ。ちなみにここで環境=世界と呼ばれているものは、物理的な環境であると同時に、個人をとりまく社会でもある。この後者のケースはとくに「横断的個体化trans-individuation」と呼ばれ、個と社会とがダイナミックに相互作用を行うプロセスのことを指す。
 このような「個体化」という観点から出発するならば、仕事はたんに時間の切り売りとは全く異なるものであり、それは自己と世界とを同時に豊かにしていく営為であることになる。先に名前の挙がったジルベール・シモンドンは、まさにこのような観点からマルクスの疎外概念を批判していた。マルクスは疎外という概念を剰余価値の搾取という観点から捉えた。その議論はまず、仕事というものをあらかじめ抽象化され賃金へと換算された労働行為へと還元し、そのうえで、その成果の一部を資本家が搾取しているという点に労働主体による労働成果に対する疎外、というものを見出している。そこでは疎外は最終的には労働の成果との関係においてのみ捉えられている。したがって労働のプロセスそのものは、その成果に対する疎外を構造化している契機としてのみ位置付けられることになる。この見方に反対してシモンドンは、疎外という事態は労働の成果との関係にではなく、労働のプロセスそのもののうちに見出すべきであると主張したのだ。
 シモンドンによれば、産業資本主義の到来が仕事という営為にもたらした決定的な変化は、「ものを作る知」が労働者のうちに内面化されることをやめ、機械へと外在化されてしまったという点にある。そこでは労働者は「ものを作る知」の保持者であることをやめ、生産を行う機械の付属物という地位へと還元されてしまう。シモンドンは、労働者が「ものを作る知」から切り離されてしまったという事態をこそ疎外として理解するべきであると主張する。この観点からするならば、マルクスの議論では搾取する存在として理解されていた資本家すらも、一種の疎外状況に置かれていると言える。というのも資本家もまた労働者と同様に、「ものを作り出す知」から切り離されてしまっているからだ。
 

5 ≪日々の交渉negotium≫と≪ヒマotium≫

 シモンドンが扱っている対象は、マルクスのそれと同じく産業資本主義における労働者の疎外状況だ。そこで問題となっているのは身ぶりの次元での疎外であり、身体を通じて何かを生み出す「知」が労働者から取り去られてしまったという事態が、そこでは論じられている。スティグレールはこのシモンドンの議論から出発しながら、それをより後期の資本主義、一般に「ポスト産業社会」と呼ばれ、スティグレールが「ハイパー産業社会」と呼びなおしている資本主義の現在の形に対して拡張する。その上でスティグレールは、現代にはマルクスが想定していなかった新たな種類のプロレタリアートが出現しつつあるのだと断じる。それは、生産のプロセスにおけるプロレタリアートではなく、消費のプロセスにおけるプロレタリアートであり、その現代的な貧困のあり方を指し示す言葉として提示されるのが「象徴的貧困」である。
 産業資本主義は、労働者の身体をいわば組み立て可能な流れとして扱い、そこから得られる生産性を利潤の源泉とした。対してスティグレールが「ハイパー産業化時代」と呼ぶ現代の資本主義は、消費者の意識の流れをそこから利潤を汲み出す源泉としている。そこでは、マーケティングを通して遂行的に消費者の欲望を生産することが資本主義の中心的な活動となり、それゆえ欲望の生産工場としてのメディアが支配的な地位を占めることになる。たとえばメディアはさまざまなブランドを消費者に提示する。ブランドによって消費者は、「自身の≪存在≫の最重要の契機を形作るシステムをもたらす≪世界の表象≫の代用品を内面化する*3」ようになる。このことによって消費者は、生産者が「ものを作る知」から疎外されたように、「生き方を作る知」から疎外されるようになる。むろん、このような疎外はなんらかの形であらゆる伝統社会にも存在するものだ。しかし「ハイパー産業化時代」では、その疎外が経済的利潤の源泉となっているという点に根本的な新しさがある。
 「余暇社会」ということが言われるとき、そこでの余暇とは、購買力を有した消費者があれこれの≪世界の表象≫を購買するための時間だ。この時間には、基本的に「何かを生み出す」という契機はそなわっていない。このことは、生産者と消費者とを厳然と切り離し、後者を純粋な購買力へと還元するという体制がもたらす必然的な帰結だ。誰もが知っている通り、消費者というのは怠け者だからだ。この体制では、日々の時間は二つに分割される。一つは生産者の時間であり、このとき人は過剰に勤勉になる。もう一つは消費者の時間であり、このとき人は過剰に怠け者になる。とすれば問題なのは、このように生産と消費とを完全に切り分けてしまう体制そのものだということになる。ところで改めて振り返っておけば、あのラファルグのオッサンもまた、この分割体制を完全に共有していたのだった。
 スティグレールは生産と消費という不毛な分割に代えて、negotiumとotiumという区別を提案している。この前者、negotiumは、さしあたり≪日々の交渉≫とでも訳しておくことにする。これは、衣食住などの人間が生存していくための物資を確保し、さらには社会を成立させるための基本的なやりとりを維持する活動だ。言うまでもなく、これなくしては人は生きていくことができない。対してotiumの方は、かなり冒険的かもしれないが、≪ヒマ≫と訳しておくことにする。≪ヒマ≫とはいってもこのotiumは何もしない時間のことではなく、生きるために必要な活動とは別のことに向けられる活動のことなので、日本語の≪ヒマ≫という語感には少々そぐわないところがあるが、他に適当なものも思いつかないし、それにラファルグの「怠けること」に対比させる意味でも、この訳語を採用することにする。
 この≪ヒマ≫というのは、ラファルグがイメージするような自然で享楽的な消費とは異なり、蓄積的で反復されていく積極的な実践のことを指す。生産/消費という対比が生み出す契機とそれを消費する契機とを分割するのに対して、≪日々の交渉≫/≪ヒマ≫という対比は、何かを生み出していく際の二つの次元を区別する。その区別の軸となるのが、有用/無用という基準だ。無用、という言葉は少し誤解を招くかもしれないが、よりスティグレール自身の物言いに近づいて、「現実には存在しないもの」と言ってもいい。平たく言えば≪ヒマ≫な行為というのは、日々の営為のなかで確かに存在する何かに向けられるのではなく、いわば日常から飛躍する心の作用のなかにしか存在しない、「現実には存在しないもの」に向けられる行為だ。スティグレールはいわゆる「文化」というものの核心を、このような≪ヒマ≫のうちに見出す。すこし長くなるが引用する。

≪ヒマ≫とは≪日々の交渉≫ではないものだ。すなわちそれとは別のものであり、それは一つの区別であるのだ。つまり、それはある差異を識別することであり、それが可能であるのは、それが信じられる限りであり、そしてそれが信じられるのは、それが行われる限りである。これらのことがなによりも意味しているのは、まさしく、差異がそのようなものとしてあり、またそのようなものになるのは、それが耕される(cultive)限りであり、つまりそれが欲される限りである、ということだ。それが理論として観想されるのは、それが実践される時でしかない。つまり人々が、ただあるがままに放置しておくのではなく、努力してそうあるように、そうなるように、そしてそれを増大させ、高めさせていくようにしていく時だけなのだ。
スティグレール『無信仰と不信1』,p.139

 スティグレールによれば≪ヒマ≫な行為の対象とは、最終的には手で触って確かめることができるような証拠を持たず、むしろそれは、触って確かめることのできるもの――≪日々の交渉≫――ではないもの、というネガティブなやり方でしか感じられる――あるいは信じられる――ことのできないものだ。スティグレールはこの≪ヒマ≫という概念をきわめて広く用いており、そこには宗教的なものも含めたあらゆる「文化的」とされる営為が含まれている。そしてその中心には、単に生きていくために必要なもの「ではないもの」を信じ、日常とは異なる時間軸のなかでそれを耕していく(「耕す」というのは文化cultureの語源です)、という悠長な営為があるのだとスティグレールは述べている。


6 最後に――「怠けること」と「≪ヒマ≫であること」

 最後に、スティグレールが≪ヒマ≫の両義性について注意を促していることを覚え書として残すことで、ポール・ラファルグの『怠ける権利』から書き起こしたこのささやかな一文に区切りをつけたい。
 スティグレールはあらゆる文化的営為の基盤には≪ヒマ≫なるものが存在すると述べているのだが、しかし同時にこの≪ヒマ≫とは両義的なものであり、最良のものに結実することもあれば、最悪のものへと転落してしまうこともあると言う。それゆえスティグレールはラファルグの結論とは正反対に、「怠ける」ということに対して強い警戒心を持っている。ラファルグの「怠けること」とは異なり、スティグレールの≪ヒマ≫とは絶えず耕していくことであり、それは本質的につねに何か新しいものを生み出していく営為だ。そのためには、あまり怠けていることはできない。というよりも、単に怠けるに任すことには大いなる危険が孕まれている、という意識をスティグレールは持っているのだ。
 この文章にとってはきわめて好都合なことに、スティグレールは先にあげた『無信仰と不信』のなかで「怠惰」についても直接に論じている。そこでは、第二次世界大戦直前にポール・ヴァレリーが記した「精神の危機」への懸念を引き合いに出しながら次のように述べられている。

(・・・)ヴァレリーにとっては、問題となる災厄とはまずは精神なるものの全般的な脆弱さ――そこからもたらされるさまざまな災難はその弱さの諸事例でしかありません――という事実であり、そしてそれに関連して、精神の政治であること、さらには精神の政治経済であることを諦めてしまったという政治的な脆弱さという事実である。乱暴に言ってしまえば、そこでは次の事実を前にしての思想の破滅的な怠惰が問題なのだ。「精神によって変容した世界はもやは精神にかつてと同じ展望、かつてと同じ方向をもたらしてはくれない。そこではまったく新たな諸問題が、数えきれない謎が課されている。」
スティグレール『無信仰と不信』,p.141)

 世界が大きく変動しつつある状況を前にして何もできないでいること、スティグレールはこの状態を端的に「怠惰」と呼んで批判している。ここで批判されているような「怠惰=怠けること」に対立するのは、ラファルグが考えていたような「生産」ではなく、逆説的に響くかもしれないが、精神を耕す営為としての≪ヒマ≫である。そしてスティグレールが「精神の政治経済学」と呼んでいるものは、その≪ヒマ≫の政治的活用に他ならない。
 現在という時代には、ヴァレリーが身を置いていた時代のような形で軍事的脅威が差し迫っているわけではない。しかしその代りに、そこでは感性の次元での戦争がより全面的に進行しつつある、とスティグレールなら述べるだろう。とすれば新たな武器を手にする必要がある。それは火を噴く武器ではなく、感性を再構築し、「生きる仕方」を作り上げていくための武器だ。そしてその戦場はさまざまメディアであり、人々がさまざまなものを見たり聞いたりするコミュニケーションの場に他ならない。いずれにせよ、どうやら怠けている場合ではないようだ。

*1:カール・マルクス『経済学批判』、岩波文庫、299頁

*2:同上、300頁

*3:スティグレール『無信仰と不信1』,p.145