後期高齢者医療制度と「世話」の問題

久しぶりに早い時間に家にいたため、「TVタックル」を見ました。番組の後半部分での後期高齢者医療制度についての議論を見て、思うところがあったのでちょっとそれについて書こうと思います。

まったくの不勉強でこの制度についての詳しい知識はまったくないのですが、この制度に関してまず間違いないと思われるのは、この制度の出発点にあるのが「現状のままでは日本の医療制度は立ち行かない」という危機感であると思います。後期高齢者医療制度に対する現在の批判者のなかでこの危機感がどれほど共有されているのかはわかりませんが、でも基本的にはその人たちも含めて、この危機感そのものは広く共有されているのではないかと思います。

「このままでは立ち行かない」のだとすれば、何か方策を考えなければなりません。そこで厚生省は、医療費の支出が多い高齢者層の医療支出を減らすことができないか、と考えました。もっともお金がかかっているところをなんとかしよう、と考えるのは当たり前です。ではそのためにはどうすればいいのか。そこで考え出されたのが、特に医療費の支出が増大する七十五歳以上の方々を「後期高齢者」というカテゴリーでくくり、このカテゴリーに関してはそれを切り離して別枠で保険制度を組み立てる、というものです。

テレビのなかである議員が言っていたところによると、この新しい制度の一つの眼目は、「負担のあり方を明確化することにある」ということでした。そこから敷衍するならば、もっともお金がかかる高齢者には、それに比例したかたちで自身で負担をして欲しい、ということになるかとおもいます。

番組のなかで誰かが言っていたように、結局のところ問題となるのは、避けられない社会的コストとしての医療負担をどのように分担していくのか、というところに尽きるのだと思います。そして後期高齢者医療制度の発想は、もっともコストがかかる年齢層をくぎり、その内部ではある程度は自分たちでコストを負担してもらうことで、コストそのものの圧縮のために努力を促す、より具体的に言えば、「よほどのことがない限り医者には行かない」ようにして欲しい、というものなのだと思います。

自民党のある議員は、このねっこにある「哲学」そのものは間違っていないのだと主張していました。それに対して民主党のある議員はその「哲学」そのものに異を唱え、医療コストの負担の分担という観点からいえば、そこで軸になるべきであるのは「年齢」ではなく「所得」であるべきだと主張していました。一緒にテレビを見ていた82歳の祖母は、この主張に対して「そうだそうだ」とうなずいていました。ただおそらくは、中心的軸をどちらに置くかはべつにして、この二つの軸は両立可能であり、さまざまなやり方で比重を工夫していくことは可能ですし、現在でもその辺の検討はなされているかと思います。

さて、ここからが本題なのですが、僕はそこでのやり取りを聞きながら、根本的な疑義を感じました。言い換えれば、「本当に重要なことがここではまったく議論されていない」と感じました。そのような印象の由来を考えてみるに、そこでの議論の中核にある「負担」というものの捉えられ方のどうしようもない狭さがその理由であるかと思います。

以前、NHKスペシャルで「地域の医療はよみがえるか〜夕張からの報告〜」という番組を観ました*1。この番組では、地域医療に取り組む村上智彦という医師が、夕張での地域医療の再生に挑戦していくプロセスを追っていっています*2。僕は「TVタックル」を観ながら、このドキュメンタリー番組を思い出したのでした。

僕の理解するところでは、この番組で扱われているのは「夕張」という財政破綻した都市で生じた医療体制の破綻を描くというだけのものではなく、日本という国全体が直面している医療問題、すなわち、不可避の社会コストとしての医療費を、社会の成員たちがどのように負担していくのか、という問題をきわめて普遍的な形で提起しています。そしてそこでは単に問題点が提起されているだけではなく、村上医師の試みを通してその問題に対する一つの可能な切り口が明確に提示されてもいます。

医療コストの社会的分担という問題に対する村上医師の切り込み方のもっとも出発点にある発想は、「負担」という概念をより拡張して考える、というものだと思います。「TVタックル」での議論に見られるように、通常「負担」という言葉は「金銭的支出」と同一視され、それゆえ「誰がどのように負担するのか?」という問いは、「誰がいくら金を払うのか?」という問いと同一視されてしまいます。しかしごくごく常識的に考えても、「負担」という言葉は「金銭的支出」に還元されるものではありません。

これは確か民主党の議員だったと思いますが、番組のなかでとても鋭いことをチラッと言っていました。いわく、後期高齢者とくくられる75歳以上の人びとということで言えば、これは医療の問題というよりはむしろ介護の問題なのだ、と。実際には高齢者医療の場合、おそらく医療と介護の境界はとても曖昧になっていて、このことは、年齢的な衰弱と病気とが切り離しえないものである以上、どうしても避けようの原理的な問題です。そしておそらく介護の問題というものを念頭に置けば、「負担」という言葉の現実的な輪郭がもう少し見えてくるのではないかと思います。

極端に言ってしまえば、老人介護に関してはもっとも基本的な二者択一が存在します。それは、その老人を老人ホームに入れるか入れないか、という二者択一です。それは別の観点から見ればつまり、老人介護という「負担」を、金銭的支出で行なうのか、それともそれとは別の仕方で行なうのか、という二者択一です。この場所では仮に、「それとは別の仕方」と述べたものを要約して、「世話」と呼ぶことにします。それは家事から始まったさまざまな精神的交流までをも含む全般的なものです。

むろん二者択一とはいいながら、そこにはさまざまな中間的な段階があって、たとえば老人介護のヘルパーさんに来てもらうことで、老人介護にともなう「負担」の総体を、金銭的支出と「世話」とでさまざまなやり方で割り振る、ということが行なわれます。

ところで、金銭を支出されるためには「資産」が必要ですが、「世話」をするためにも、金銭とは別の次元での「資産」が必要です。もっとも狭くは家族のなかで「世話」をする人がいなければならないし、もう少し広くは親戚のうちに、さらに広くには地域(=近所)のなかに「世話」をする人がいなければなりません。これらはすべて、「世話」のための一種の「資産」であるといえるかと思います。これは子育ての場合と同じでしょうね。家族、親戚、近所の人、さらには地域のコミュニティーなどが「世話資産」となるわけです。

現代的な問題は、家族行動や労働環境の変化、都市環境の変化などによって、この「世話資産」が大幅に縮小してしまっている、という点にあります。このことから、「負担」は可能な限り金銭でまかない、それではまかないきれない部分は、疲弊しきった「家族世話資産」を用いてなんとかやりくりする、ということになるのだと思います。

さて、ここで金銭的資産と「世話資産」との配分的支出として捉えられたこの介護のあり方は、そのまま老人医療の問題とつながります。老人医療に関する「負担」というものを考えるためには、金銭的支出の問題に加えて同時に「世話」の問題も考慮する必要がある、というのが僕がここで言いたいことです。それはまた、例のNHKスペシャルのなかで村上医師が実践的に示そうとしていたことでもあります。

社会全体の医療コストを縮減するためには、高齢者の医療コストを減らすのがもっとも近道である、というのは確かにその通りであるでしょう。しかしそのために、たんに高齢者の金銭的負担を増やすことでそれに対応しようという発想は、考慮する必要がある根本的な問題の無視でしかありません。それは、社会全体での医療コストの負担の回路の中に、どのように「世話」を積極的に組み込んでいくのか、という問題です。僕が思うに、現在における医療コストの増大という問題が意味しているのは、たんに金銭的支出の配分という方策ではもはや医療の崩壊という危機には対応できない、ということであるような気がします。つまり、「世話」の領域に依拠しなければ、もはや医療制度はもたない、ということです。

医療費の値上げという経済的な規制をかけなくとも、「世話」がより充実するようになれば、必然的に医療費は縮減していくことになります。そのことはとくに高齢者医療に関してより当てはまるのだと思います。夕張での病院破綻の事例で言えば、病院を半ば老人ホーム代わりに使うといった住民の姿勢が、結果的に破綻の大きな原因になった、ということが言われていました。また、たんに身近に相談相手や話し相手がいさえすれば、医者にかからなくても済んでいたという場合もある程度あるかと思います。

ただしすでに述べたように、「世話」が行なわれるためには「世話資産」が存在しなければなりません。実はここがもっとも重要な点であり、また困難な点でもあります。すでに述べたように、現代では「世話資産」は著しくやせ細っています。ですから、「世話資産」を活用する医療というのは、たんに病人を家庭に投げ返すだけではなく、同時に「世話資産」を豊かにしていくようなものでなければなりません。村上医師は、そのような視座を持って地域医療の問題に取り組んでいるように見えました。「世話」を行なうのは最終的には家族や親戚、つまり医者ではない一般の関係者であるのですが、しかしその関係者たちの「世話資産」を増やしていくことにも、医者は一定の責任をもつ。

ここでは医療という営みは、病人として送り込まれてきた患者をきれいに治してまた送り返す、というイメージではなくて、いわば家庭と病院とのあいだの連続的なフローの間で、その両者がさまざまなグラデーションで協力し合いながら医療を行なっていく、というイメージです。そのフローのなかで、家族自身の「世話資産」、この場合は基本的な知識であったり病気についての理解であったりを豊かにしていく、というのが理想であるわけです。ただしそのためには、それぞれの家族の一員がその連続的な医療フローの中に位置している、ということを意識している必要があり、この意識改革が、村上医師の医療改革のまず最低限の出発点となっていたように思います。

病院もしくは医療のあり方と、病人を抱える家庭のあり方はいわばカップリングになっています。かつては、というか今でも基本的にはそうだと思いますが、病院というところは、「病気のことは俺たちが一番よく知ってるんだから、家族の人たちはいったん病人を預けたらあとは黙ってみてればいい」というような姿勢をとっているものだと思います。こういう姿勢は、当然ながら病院に預けたらあとは自分たちの問題ではない、という家族側の意識とセットになります。そして番組によれば、日本の医療保険制度そのものがこのような医療のあり方を前提として組み立てられているようです。たとえば重病人を治療して、少しずつでも家に戻れるようにすると交付金が減って病院が損をする、という変な仕組みになっているとのことです。

村上医師が構想している新たな医療モデルというのは、病院と家族がお互いに「資産」を持ち寄って連続的なフローのなかで病人を治療するというモデルです。そして単純に言えば、家族が持ち出した「世話資産」の分だけ、社会全体の金銭負担が減るわけです。このように医療の基本的なモデルを代えていかないと、そもそも日本の医療体制は持たないというのがおそらく村上医師の現状認識であり、そのためのパイロットケースとして、現在の医療体制の矛盾が先駆的に噴出している地方において新たなモデルを試していっているのだと思います。

ただ一番の問題は、そもそも「世話資産」が一定以上存在しなければ、この新たな医療モデルははじめから成立し得ない、という点にあります。NHKの例の番組に出演していた地域医療問題のプロ、井関友伸氏のブログをみつけました。
http://iseki77.blog65.fc2.com/
そのなかで、番組出演について言及した記事があります。
http://iseki77.blog65.fc2.com/blog-entry-3880.html
そのコメント欄に、かなり辛辣なコメントがあり、それは次のように述べています。

在宅往診の取り扱い方も奇麗事過ぎる。夕張は持ち家率は極めて低く高齢化率は群を抜いている。
 取材の在宅患者は家族関係も含めて恵まれた環境の方々ばかりで現実の在宅医療を唱えるには説得力が乏しかった。老朽化した炭住などに住む多くの高齢者には何とも眩しい映像だったと思われる。
 村上医師が今必要なのは、夕張の現状をに目を向け、過渡的な多くの問題に対処することではないのか。

夕張というのはもともとは炭鉱の町であり、そのため地域に根ざした「世話資産」がもとから乏しい土地柄であるようです。そういう環境では、「世話資産」を活用することで医療体制を組み立てなおす、という試みには特段の困難が伴うことになります。

ここでようやく結論に至るのですが、「世話遺産」を作り上げていくという課題は、とても医療という枠内だけでは到底こなしていくことのできない巨大なものです。ここには労働環境や教育やさらには地方分権という問題という問題が複雑に絡んでいます。こういう問題に取り組んでいくことこそ、まさに政治というものが行なっていくべきものであると思います。ロジックは単純です。
1、医療制度を立て直すには「世話資産」を活用しなければならない
1−1、そのためには「世話資産」をうまく活用できるような医療体制を構築しなければならない(村上医師のやっていること)
2、ただしそのためにはそもそも「世話資産」が存在しなければならない
3、しかし現状では「世話資産」はやせ細っている
4、ではどうすれば「世話資産」を増やしていくことができるのか
最終的な医療という出口までもちゃんと見通した上で、地方分権のあり方なども視野に入れてこの4について建設的に考えていくこと、これこそが医療問題に取り組んでいくときの政治のしかるべきスタンスだと思うのですが、「TVタックル」を見る限りそのような視点がまったく感じられず、どうにも不満を感じざるをえなかったのでした。

ただ、そうやって政治に文句を言う以前に、なによりも自分自身の「世話資産」、そして「世話」についての意識を高めていかなければならないわけなのですが。「誰がいくら金を払うのか?」という論議の背後には、「自分は世話をしたくない」という口には出されない思いが控えているような気がしてなりません。祖母と二人で暮らしている僕にとっても、この点は衝かれるととても痛い点です。結局、政治やなんやらを批判するより、この自分にとって一番痛い部分に正面から向き合う方が、やっぱり大変ですねえ。

追記:忘れてました
eyes on tibet
http://www8.atwiki.jp/zali/pages/123.html

*1:http://www.nhk.or.jp/special/onair/071001.html

*2:この村上医師という方は、TBSの情熱大陸や、またNHKの他のいくつかのドキュメンタリー番組、あと検索したところによると北海道のテレビ局のドキュメンタリーでも扱われているので、それなりに有名な方であるかと思います。