『ヒカルの碁』――「神の一手」と歴史の慈愛について

以下に載せるのは、かなり以前に「紙屋研究所」という漫画批評サイトに僕がメールで送った、囲碁漫画『ヒカルの碁』についての感想文です。サイト運営者の紙屋氏は、電波なやつから送りつけられた文章を記事として取り上げてくれ、解説を付して公開してくれました。こちらです。当時僕が送ったメールを検索してみたところ、2004年の2月という日付になっていました。まだ学部の学生だったかと思います。

そんな若書きの文章をわざわざここに再掲しようと思ったのは、先日の記事でも紹介した、ものぐさ将棋観戦ブログさん羽生善治論を読んで、昔書いた文章を思い出したからです。たとえば次のような一節。

アガペーとは神の人間に対する愛である。人間的な、相手を愛し憎み奪うエロスの愛とは本質的に異なる。羽生さんは、アガペーのように全ての棋士を平等に愛するが、しかしそれは人間的なドロドロした愛憎とは無縁である。そうした神の愛に対して、深浦はほとんど不可能事なのだが、人間的なエロスで立ち向かっている。それが深浦の尊さでもある。相思相愛ではあるが、それは、双方向の平等な愛ではなく、人間が神に無謀に挑む壮絶な相思相愛である。
(・・・)
一方、仏教的に言えば、羽生は深浦に対して慈悲を抱くが、深浦は羽生を愛している。むしろ、菩薩のように、羽生は深浦が自分の位置にたどり着くことを誰よりも切望している。菩薩は、全ての人間が仏陀にならないかぎり、自分は可能でも仏陀になることを拒むという。

ものぐさ将棋観戦ブログ「羽生のアガペーと深浦のエロスーー相思相愛問題をめぐって」

ヒカルの碁』では、周知のように「神の一手」をめぐって物語が展開していきます。将棋あるいは碁というものを考えるとき、はからずも人は「神」という模糊とした名に引き寄せられてしまうというただその一点の共振を拠り所にして、過去の若書きを載せてみることにしました。神の名においてご容赦ください。

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 紙屋さんは「『ヒカルの碁』の面白さというものは、「成長物語」は「成長物語」なんだが、実は、この「成長物語」をこれまでの少年漫画にないほどくわしく、段階的に描いたことではないかと思っている。」という風に書いています。

 読み返してぼくが思ったのは、もちろん「ヒカルの碁」は「成長物語」であり、類のないくわしさでもってその段階が描かれているわけですが、それを超えたところにもっと本質的なものがあるんじゃないか、ということでした。

 「成長」というものを可能にするのは、まずは表面的には佐為の存在です。

 佐為との出会いによって、まず塔矢アキラに火がつき、それが跳ね返るようにしてヒカルも真剣に碁をはじめます。この段階では佐為は碁の絶対的強さを示すものとして現われているように見えます。

 たとえばヒカルが塔矢アキラを目標と感じ始めると同時に、塔矢がヒカル(つまり佐為)に期待するものと現実のヒカルとのあいだに分裂が生まれることになり、その分裂が決定的に明らかになるのが、囲碁部の大会での二人の対戦です。

 ヒカル=佐為と対戦するために塔矢はわざわざ中学校の囲碁部の大会に出てくるわけですが、結局はヒカルが自分で打ち始めたため、塔矢は混乱と幻滅を味わいます。かつて自分を圧倒的な力で凌駕したヒカル=佐為と自分が対戦したヒカルとのギャップが理解不可能であったわけです。塔矢の幻滅を目の前にしてヒカルが覚えた悔しさは、自分が佐為ではないことの悔しさであり、自分も佐為のように強くなりたいという悔しさです。

 「佐為のように」とは、この段階では佐為が究極の強さを体現している存在、ある意味で碁の完成の位置を指し示している存在のように現われているため、それを超えることは不可能であると思えるからです(少なくともヒカルには)。

 直接的にはヒカルは塔矢の背中を追っているのですが、その塔矢が追いかけているのはヒカル=佐為であるので、つまりはヒカルも間接的に佐為という地点に牽引されているわけです。

 この佐為という地点が、まずは「成長」というものを牽引しているように見えます。しかし、一見完成の地点にいるように思える佐為は、実はいまだ完成していない存在です。その佐為もまた「神の一手」というものを追求していまだ到達できていないのです。

 ヒカルが驚異的な速度で力を付けていくにつれ、佐為における未完成というものが次第に感じられてくるようになります。そのことは具体的には佐為を襲う曖昧な不安という形で現れます。永遠だと思われた自分に残されている時間は、実はもうあと僅かなのではないか――この危惧は、ネット碁において実現した佐為と塔矢名人との対戦のあと、確実なものであると佐為は確信しました。

 自分はこの一戦をヒカルに見せるために存在したのだ、これで自分の使命は終わったのだ、神の一手に到達するのは自分ではなかったのだ――佐為がいなくなったあと、ヒカルは強烈な後悔とともに徹底的な自己否定を始めます。この自己否定は佐為を絶対的な存在であったと想定したために生じたものです。

 つまり佐為は碁において完全な存在であったのだから、不完全な自分など存在しないほうが良かった、ということです。そしてヒカルは碁をやめてしまおうと決心しますここでヒカルはひとつの思い違いをしていますが、その思い違いとは、つまり佐為を絶対的な存在であったと想定してしまうことということです。

というのも、佐為が佐為であったのは完成した強さを持っていたからなどではなく、つねに飽くなき欲望をもって「神の一手」を追求していたからであり、また その際限のない追求の足取りこそが、佐為という存在を生み出していたからです。その足取りが止まってしまった瞬間に、佐為もまた消えてしまいます。

 とすれば、佐為が消えてしまった理由は明瞭です。つまり碁の千年の歴史において「神の一手」の探求の足取りの中で、佐為という一人の天才の使命が自らの使命を終えたからです。言い換えれば、塔矢名人との一局をヒカルに見せるとともに、「神の一手」の追求が、ヒカルの使命へと転移したということです。

 それにもかかわらず佐為を絶対的な存在、碁の完成の地点に立っている存在であると考えてしまったという点で、ヒカルはまちがっていたわけです。

 そしてまた伊角さんに請われて、もうけっして打たないと決心した碁を打ったとき、そこに佐為の存在をはっきりと感じたというのは、使命を終えた佐為という人間をふたたび見出したということではなく、「神の一手」を追求し続ける碁の歴史のうちに命をつないでいた佐為の呼吸を、自らもまた「神の一手」の追求に参与することで、いわば歴史の共犯者として感じ取ったということなのだと思います。

 プロ試験を受けに来た元学生三冠の門脇さんは、ヒカル=佐為に圧倒的な力を見せ付けられたとき、茫然としながら囲碁を何年やっているのかとヒカルに尋ね、そのときヒカルは「千年」と答えました。

 これは単に佐為がすごしてきた年月をさしているのではなく、「神の一手」を追求する碁の歴史が経験してきたあらゆる新陳代謝の総体を指してのものでしょう。それゆえ誰かが「神の一手」を目指すとき、そのしぐさのあらゆる細部はこの「千年」という時の流れを知らぬうちに受けてとめつつさらに先へと展開させているわけです。

 歴史の根源から風を受けて飛び立とうとしている、そして永遠に新たに飛び立ち続けているパウル・クレーの歴史の天使のように、「神の一手」を追求する天才たちは、つねに何らかの形で碁の歴史の根源に触れるとともに、その瞬間に直線的な時間の流れというものを突き破って、垂直のほうに飛び上がり、そうしてたとえばヒカルははっきりと佐為の存在を感じることができるのだと思います。

 こうした歴史の運動は、天才たちの苦悩や苦闘や際限のない切磋にもかかわらずけっして完成することがありません。本因坊の桑原先生は、佐為の消失から立ち直ったヒカルの顔を見ていいます。

「碁を打つには二人必要だということじゃ」

 「神の一手」とは誰か一人が到達することのできるものではなく、二人の天才の出会いのなかでのみ、ある奇跡的な瞬間にほとんど不可能な一瞬として浮かび上がってくるものなのでしょう。とすれば「神の一手」が現われるのは、ヒカルにおいてでも塔矢においてでもなくて、その二人の中間でしかありえません。この決して自分のものとはなりえないある中間の領域に「神の一手」を浮かび上がらせるために、天才たちは自分のすべてを投じます。

 そうした終わりなき祈りのなかで、おそらくはその終わりなき運動そのものとして、はじめて「神の一手」は可能になるのだと思います。というのも、「神の一手」が二人の対戦者の中間にしかありえないのだとしたら、二人が碁を打つのをやめた瞬間に、その中間に浮かび上がったはずの「神の一手」もまた消えてしまうからです。

 その一瞬に浮かび上がったはずの「神の一手」を定着させようと試みたところで無駄です。聖書に現われる神のように、はっきりと見出されうるのは後姿だけ であり、人々はその痕跡をしかつかむことができません。すべての打ち手の中間においてのみ可能となる、ある無限遠点としての「神の一手」に牽引されるのが、それぞれの「成長」であり、それゆえそれは際限がありません。その気の遠くなるような運動のなかでは、あらゆるものが愛されることになります。というのも、ヒカルや塔矢だけでなく、「神の一手」とは、碁に触れるあらゆる人々の中間に、あるいは碁を取り巻いていながらも碁に触れないあらゆる人々の中間に浮かび上がってくるものなのかもしれないからです。

 それはいわば歴史の愛です。

 完成することのない歴史だから可能な種類の、それは愛なのだと思います。「ヒカルの碁」の、さまざまな場面に現われる苛烈さというものを包み込んでいる慈愛というのはこの歴史の愛なのだとぼくは思いますし、またこの歴史の愛というものがあるから、登場人物はそのつど勇気をもってまったく新しい一歩を踏み出すことができるのだと思います。

 この慈愛と、それを巻き込みつつも突き破っていく「神の一手」という無限遠点とのはざまで、「ヒカルの碁」という物語はつむがれていくのでしょう。