マルクスの資本論を拡張してみる〔追記あり〕

思うところがあるので、「資本の再生産」、というありとあらゆる手垢と色の付いたトピックについて書いてみることにします。参照するのはカール・マルクスピエール・ブルデューです。ただし文献学的な配慮は完全に無視して、「マルクスの言ってることって大まかにこうですよね、ブルデューの(略)」っていったざっくりかげんで進めて行きます。その辺が気にならない人だけが読んでください。

マルクスに対するブルデューの発想の新しさの一つは、経済的な資本以外にもさまざまな資本があって、それらもまた絶えざる再生産のプロセスのなかにある、ということを提起した点にあると僕は理解しています。たとえば象徴資本。一般に社会的な名声と呼ばれるものも一種の資本であり、さまざまな実践を通して再生産されていく。そしてその再生産のプロセスは、経済的な資本の再生産とはさしあたりは別の論理で展開していきながらも、しかしそれと深く結びついている。その結びつきの仕方には様々なものがあり、なんらかの経済力を持っている人間の方が象徴資本を獲得し易いということや、また象徴資本の持ち主は信頼してもらい易くそれゆえ経済的資本の拡大にも有利になる、という例などが挙げられると思います。

ただしこれらの場合、マルクスが焦点を当てた経済的資本と、ブルデューが焦点を当てた社会的、文化的資本は、深く結びつきながらも結局は外在的な関係にあります。たとえば社会的、文化的資本はなくても経済的資本の拡大再生産は可能であり、事実、マルクスはそのように資本の再生産プロセスを論じていると思います。

この記事の目的は、ブルデューの直観、すなわち経済的資本以外にも資本は存在する、という直観を、マルクス資本論の議論に内在的に組み込む道筋を探ることです。言い換えれば、マルクスが扱おうとした経済的資本の再生産を徹底して考える際には、同時に経済的資本以外の資本も考慮する必要があるのではないか、ということです。ただしその議論の結論自体は、おそらくあまりに常識的なものになろうかと思います。ですから最後には、なんでわざわざこんな文章を書く必要があるのか、ということを正当化するひとくさりを書くかもしれません。

さて、さしあたりはまず、マルクスの『資本論』というものがおおまかにどういう議論だったのということを独断的にまとめてみたいと思います(ちなみに以前にも『資本論』について言及したことがありますが、今回はそれとはまったく別の観点から論じます*1)。

僕の理解では、マルクスの『資本論』を一番根本的なところで支えているのは、資本という得体の知れないものがみずからを拡大しながら再生産させていくプロセスのイメージであり、また、それではそのプロセスは具体的にはどのような手順を踏み、また以下にしてみずからを拡大させることができるのか、という問いです。

マルクスは資本の再生産のプロセスを、ヘーゲル弁証法を独自に読み替えながら「形態の推移」という観点から論じます。「形態の推移」というとなんだか得体がしれませんが、もっと即物的に言い換えると、投資された資本が製品となり販売され代金として再び手元に戻ってきて、また新たな投資に回される、というその循環のプロセスのことです*2マルクスはこのプロセスを、資本が形態を変えて推移していく、というビジョンで理解しているわけです。こういうビジョンとか、やっぱり素晴らしいなあと僕なんかは思ってしまいます。

この資本の「形態の推移」のプロセスを構成する諸契機のうち、マルクスは「生産」という契機に着目し、この「生産」においてどのような「形態の推移」が行われているかを解剖します。いちいち調べるのも面倒ですし、またこの記事の範囲では大雑把でかまわないので、なんとなくの記憶で整理します。

「生産」という契機を分析する際にまずマルクスは、不変資本を可変資本を区別します。不変資本というのは、設備とか原料へと投資された「資本」であり、もう一つの可変資本というのは労働力に投資された「資本」です。この段階で資本は、これらの不変資本と可変資本の二つに「形態」を変えるわけです。

マルクスがこのような区別を行うこと浮かび上がらせたいこと、それは労働力というものの特殊性を浮かび上がらせることです。その特殊性とは新たな価値を生み出すという性質です。すでに述べたように、マルクスは資本の再生産のプロセスを分析しようとしたわけですが、そこには一つの謎がともなっています。というのも資本は、ただたんに再生産されるだけでなく、ほとんどの場合そこではおこなわれるのは資本の拡大再生産だからです。

資本がさまざまな契機へと形態へと姿を変え、ぐるっと回って元に返ってくると、その資本は増えている。よく例に挙げられるG-W-G'、すなわち貨幣が商品に姿を買え、再び貨幣に姿を変えるときに貨幣が増大しているという事態を表現しているこの式が指し示しているのもこのことです。このとき、「ではこの資本の増大、つまり剰余価値の産出は、いつ、どこで、どうやってなされたのか」という疑問が持ち上がります。マルクス資本論を通して答えようと試みているのはこの疑問です。

周知のように、そこで持ち出されるのが労働という契機です。ただしこの点についてはマルクスの新しさはまったくありません。労働が価値を生み出すという労働価値説の発想は、ジョン・ロックからアダム・スミスを経てマルクスへと継承されてきたものです。マルクスのすごさは、「形態の推移」を通しての資本の再生産のプロセスの中にこの労働という契機を置いたこと、あえて飛躍的に述べれば、資本を主語にして経済の原理を構想したことにあるのではないか、と僕は思っています。そして僕の理解ではマルクスのこの革命は、明らかにダーウィンによる革命を新たな形で展開しているものです。ダーウィンもまた、遺伝子(当時はまだその正体は判明していませんでしたが)が差異をともないながら自己を再生産していくというその際限のないプロセスを主語として、生命の進化を構想したのでした。むろん、マルクス自身がダーウィンから多大な影響を受けていたという事実については、エンゲルスをはじめいくらでも証言が見つかるでしょう*3

とにかくおおざっぱにまとめるならば、資本の「形態の推移」のなかでの「生産」という契機の、さらに「可変資本」すなわち労働力に投資された分が新たな価値を生み出し、そこで生み出された価値がそれ以降の交換や流通や消費という後続の契機へと転化されていき、最後は資本へと帰っていく、という見取り図が描かれているわけです。ここでは、「価値を生む商品」としての労働力のステータスや、搾取などにまつわる話しは本筋に関係ないのでスルーします。

きわめて乱暴ですが以上のようにまとめられたようなマルクスの議論には、ありとあらゆるつっこみが向けられることと思います。すごーくわかりやすいものを二つだけ上げるなら、新たな価値が生み出されるクリティカルな契機は「生産」ではなく「消費=販売」という「命がけの跳躍」にあるのではないのか、という柄谷行人や、あるいはそのような「跳躍」という契機から遡行的に価値算出の瞬間が規定されるという「事後性」を強調する方向の議論などが思い浮かびます。ただしそれらについてはここではスルーします。

ここではさしあたり、労働が価値を生むというマルクスの基本的な出発点についてはとりあえず「真に受ける」という態度を取ります。その上で、自分の目的からいってマルクスの議論の中でなによりも問題となるのは、「労働力」と述べられているときに具体的に念頭に置かれている労働のモデルです。マルクスが労働について論じるとき、そこで念頭に置かれているのは工場での単純労働です。僕はなによりもまず、その労働のモデルを問題にしたいと思います。

では、工場での単純労働というモデルはいったいどこに問題があるのか。それは、そのモデルが「習熟」という契機を無視してしまう点です。マルクスが『資本論』を執筆する背景にあるのはいうまでもなく大規模な産業化です。そこでは労働は機械化され、それゆえ労働者は抽象的な労働力へと置き換えられます。マルクスが価値算出の基準として繰り返し労働時間に言及するのも、そこで念頭に置かれているのが抽象的な労働力であるからです。そこでは職人が体現するような技能の習熟は、生産のあり方そのものによって積極的に排除されていきます。

ちなみに、疎外の問題をマルクス主義的な「所有」の問題から切り離し、労働のあり方、さらには労働者と生産技術との関係性の問題として取り上げ直した理論家として、フランスの思想家ジルベール・シモンドンの名前を挙げておきます*4

マルクスの労働論は、工場での単純労働をモデルとしてそれを一般化することで成り立っています。そこでの労働者に必要とされるのは健康な肉体だけです。しかしどう考えても、このような労働モデルは現代の多くの労働にはあてはまりません。まず端的にいって、多くの領域でなんらかの「習熟」は必要ですし、それに「習熟」という言葉には収まらない、さまざまな「知恵」も要求されます。工場での単純労働をモデルとするマルクスは、これらの契機にはまったく目を向けません。

さて、ブルデューの議論が意味を持ってくるのは、あるいは、意味を持たそうと僕が考えているのは、この地点においてです。端的にいえば、ブルデューが拡張した資本の概念を、この労働の現場に持ち込むことができないだろうか、ということです。

マルクスが労働という行為として念頭においているのは、文字通り「モノ」を作ることです。工場でモノを作る、これことがマルクスが念頭においている生産です。しかしながら、実際にはモノを作るということは、同時ブランドやらデザインやらといったさまざま社会的、文化的なものを生み出すことでもありますし、またサービス業など、マルクス的な「モノを作る」からは大きくはみでる生産行為はいたるところに存在しています。

別の言葉で言い換えるならば、マルクスは生産を「手」を使うものであると考えていましたが、しかし実際にはそれ以上に生産は「頭」を使ってなされるものである、ということです。

この「頭」を使ってなされる生産は、マルクス的な単純労働から出発して理解することはできません。そこには、さまざまな「知恵」が動員されるからです。それらのある部分はマニュアル化されることで、マルクス的な「手」による労働の延長に近いものになるかもしれませんが(マニュアルという言葉が「手」に由来しているのは興味深いです)、しかしそれだけでは価値の創出という意味での生産性は上がらないでしょう。

この記事で僕が提案したいのは、この「頭」を使ってなされる生産を支える「知恵」を、一種の「資本」として理解することができるのではないか、ということです。ここではかりに、「生産知資本」という名称を作ることにします。

貨幣と資本との違いは、後者が「形態の推移」を通して自己を増殖させていくことができるという点にあります。あるいは、そういった自己増殖の過程に入ったときに、貨幣は資本に転化する、といってもいいかもしれません。それと同じように「生産知資本」もまた、「形態の推移」を通して自己増殖していきます。さしあたりここではおおざっぱに、ブルデューに習って「実践」を「生産知資本」にとってのそこを経由することが不可欠な「形態」として挙げることにします。「生産知資本」はそれだけで増殖することはなく、「実践」という形態へと推移=移行することで、みずからを豊かにすることができる。まあ当たり前のことですね。これを単純化すれば、G-W-G'ならぬ、生産知資本-実践-生産知資本'というプロセスが生じるわけです。

生産者としての企業というものを念頭に置いて考えるならば、この生産知資本-実践-生産知資本'はけっして個人的な作業ではなく、集団的に共有され、また世代を超えて受け渡されていくものであることがわかります。社会資本や文化資本をと同じですね。そして際限のない再生産プロセスのなかで変容していくわけです。

ちなみにこの生産知資本というものの内実はとても曖昧で、具体的な知識、情報整理技術、勉強法、調査法などから、人間関係や遊び方、会社組織自体のさまざまなマネージメントにまつわる「知恵」のようなものまで含まれるでしょう。いずれにせよ、それらが再生産され少しずつ姿を変えながら伝達されていくことで企業の生産性を支えているわけです。

このように資本概念の拡張という形で生産知資本というものを考えるならば、その資本の再生産プロセスについてマルクスのように詳細に分析していくことができるでしょう。ここではそこには踏み込みませんが、しかし次の点だけは指摘しておきたいと思います。

正確なところはよくわかりませんが、現在はこの「生産知資本」の再生産プロセスが大きく変容しつつあるといえるのではないでしょうか。その変容を計る軸は、その再生産が特定の企業に密着しているのか、それとも企業を超えて持ち運べるのか、ということです。たとえば特定の会社のなかだで通用する技能(そういうのって、たぶんありますよね)は他の会社に移った場合には無意味となりますが、さまざまな資格などであればその場合にも意味を持ちつづけます。つまり、後者の資本=キャピタルは持ち運び可能であるわけです。それに対して、特定の会社の中での影響力といった類の資本は持ち運べません。

以上の議論を結論風にまとめれば、つまり現代的な労働というものを考える際には、経済的資本の再生産のプロセスは、必ず「生産知資本」を必要とし、この後者もまた資本として絶えざる再生産のプロセスにある、ということになります。いってみれば、経済的資本と生産知資本は強い意味での共進化の関係にあって、他方なくしてはもう一方も存在し得ないわけです。

そして今回は経済的資本と生産知資本の関係だけを取り上げましたが、そこに関係している資本が二つだけということはありません。あらゆる種類の社会的、文化的資本、さらには欲望という資本までがカップリングされ、それぞれに再生産のプロセスを展開しているのだと思います。もしある時点の資本主義のありかたが、それらのうちのどれかの資本の再生産プロセスを妨害するものであるならば、資本主義は持続可能なものとはなりません。たとえばずいぶん以前から少子化が大きな問題になっていますが、単純に考えて、人間がいなくなれば資本主義そのものも成立しません。資本主義は生命資本の再生産とも不可分にカップリングされているわけです。少子化問題に関しては、いうまでもなくそこには現在のある労働条件の問題が関係しているわけですから、少なくとも現在の日本の資本主義に関しては、持続不可能な資本主義であるのかもしれません。が、実際のところは僕にはよくわかりません。


長々と書いてしまいましたが、まとめると以下みたいな感じになります。

1)マルクスは資本がその「形態の推移」を通して拡大再生産していくプロセスを分析したよ
1-1)その際にマルクスは「生産」という契機に注目したよ
1-2)そのなかで可変資本としての労働力が新たな価値を生み出すと主張したよ
2)でもマルクスは労働を考える際に工場での単純労働というモデルから出発したよ
2-1)そのためにマルクスは「頭」を使った労働のことを考えることができなかったよ
2-2)「頭」を使った労働は「生産知資本」を必要とするよ
2-3)「生産知資本」も資本として実践と通しての再生産を行うよ
結論)経済的資本の再生産には「生産知資本」の再生産がカップリングしているよ。あと他にもカップリングしている資本はあるんじゃないかなあ

このところ、自分のものの考え方の傾向というか、嗜好というか、そういうものに対して反省的になっているのですが、いまのところ「もしかしてこういうことなのかも」と考えているのは、「ものごとをできるだけシンプルに把握したい」ということ動機が一番大きいのではないかということです。ちょっと形式的に書けば、できるだけ少ない概念セットでできるだけ複雑で多様な事象を把握できるようにする、いうことにでもなるでしょうか。最近、自分にはこういう欲求が強いのだということが分かってきた気がします。

少し距離を置いてみると、この欲求にはたぶんに審美的なところがあって、それゆえ「同じことを短く述べることができたところで、じゃあ新しいことは何?」ってつっこみに対しては無力だったりします。そういうのはどうなんでしょうねえ?

まだわかりません。

疲れたので終わり。

〔追記〕
経済的資本や生産知資本とカップリングしている生命資本については、いぜん別の観点から触れたことがあったのを思い出しました。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20080323#p1
ちなみに僕自身の本当の興味関心は、これらのプロセスにテクノロジーの進化がいかなる権利でカップリングしているのか、ということをつきつめて考えることにあります。


マルクスのエコロジー―MARX’S ECOLOGY (こぶしフォーラム)

マルクスのエコロジー―MARX’S ECOLOGY (こぶしフォーラム)

*1:http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070222

*2:より正確には、生産・分配・交換・消費・流通という五つの契機をマルクスは念頭に置いているようです。その点については『経済学批判序説』で述べられていたはずです

*3:僕の読んだことのあるもののなかでは、ジョン・ベラミー・フォスターの『マルクスエコロジー』がもっともまとまっていたと思います。

*4:Cf.Gilbert Simondon, Du mode d'existence des objets techniques, Aubier, 1958