ミもフタもない話をしよう

北田暁大との共著である『東京から考える』のなかでだったと思うのですが、東浩紀が「ミもフタもない話」から出発するという姿勢を強調していた気がします。そこで正確にどのように言われていたかはちょっと思い出せないのですが、なんとなく共感した記憶だけはあります。

僕が理解するところによれば「ミもフタもない話」というのは、たとえば「衣食足りて礼節を知る」という言葉が示すように、礼節がどうのこうのといったって、そもそも衣食が確保できなかったらそんなこといってられないよね、といういわばちゃぶ台返し的な話です。他の例としては、ジョリ=カルル・ユイスマンスが『さかしま』のなかで歯痛に苦しむ主人公のデゼッサント氏に、デカルトの「我思うゆえに我あり」に対して「こんなことを考えたやつは歯痛を知らないやつだ」と言わせていた(確か。もしかしたらクンデラの本かも)ことが思い浮かびます。哲学をなにか自律した精神的営為のように考えようとしたところで、歯痛なりなんなりの強烈な身体的苦痛の前ではそんなものは全部吹っ飛んでいってしまうというわけです。まさに「ミもフタもない話」としかいいようがありません。猛烈なちゃぶ台返しです。

僕の考えるところによれば、この「ミもフタもないちゃぶ台返し」的な発想の代表格にあるのは環境問題です。人間の営為についていろいろと偉そうなことをいったところで、環境が破壊されてはそもそもそうした営為そのものが不可能になってしまうのだという認識及び主張は、かなり強力なちゃぶ台返しといえます。思想について語ることができるのは虫歯になっていない限りであるのと同様に、文明について語ることができるのも環境がその文明を支えていてくれる限りであるわけです。文明なるものの存続可能性の核心には、それが地球という特定の環境において「持続可能でなければならない」というある意味ミもフタもない根本的な制限が課されているわけです。

ところで環境問題に関してよく言われることとして、「未来への責任」というものがあります。わたしたちは新しく生まれてくる子供たちに、ちゃんと生きていける地球環境を譲り渡していくという責任があるのだ、という主張です。この「未来への責任」という言葉は、おそらく「人権」という言葉と同じくらいに強力なものであって、この言葉を前にしては基本的には「そうだそうだ」とうなずくことがほとんど暗黙の了解となっている気がします。

この記事の目的は、すでに数多く存在しているであろう「ミもフタもない話」のなかに、新たなバリエーションを一つだけ書き込もうというごくごくささやかなものです。それは「未来への責任」に関わるものです。つまりその「ミもフタもない話」は、「未来への責任というものがそもそも存在するためのミもフタもない条件」に喚起を促すものです。それはこうです。

未来への責任が生じるためには、その未来に子供が存在していなければならない。

あまりに当たり前すぎてバカらしいほどの事実ですが、もし子供が新しく生まれてくることがなければ、そもそも未来への責任というものは存在しえません。ただしこの「ミもフタもない話」は、実は見かけほどには単純ではありません。

上の「ミもフタもない話」には、それと不可分のきわめて根本的な疑問が付きまといます。それはつぎのような疑問です。

未来への責任のなかには、その責任の宛て先である子供をつくっていくことも含まれるのか?

よくよく考えてみると、ここにはきわめて込み入った事態が出現しています。「われわれには未来への責任というものがある」と主張される場合には、「未来への責任」というものが存在しているということ、つまりは未来に新しく子供が生まれてくるということがあらかじめ前提とされているわけです。このことは裏返せば、もし現在に生きる人間がもう子供をつくらないと決意をすれば、この「未来への責任」は消えてしまうということです。これこそ「ミもフタもない話」です。

このことから、「未来への責任」についてミもフタもなく考えると、その責任は、実は存在が定かならないもう一つの責任と切り離せないということがわかります。上に挙げた疑問をより一般的に言い換えればこうなります。

未来への責任を存在させる責任は存在するのか?

すでに子供が事実として生まれてしまっているという地点から出発すれば、そこには同時に「未来への責任」も事実として存在しているということを前提にすることができます。しかし事実はあくまでもたんなる事実であって、つまりそこには「そうではない可能性」というものが必ずともなうわけです。子供が生まれてこないということは事実としては可能であり*1、それゆえつまり「未来への責任」が存在しないということもまた事実としては可能であるのです。この事実について考えていくとどうしても、「未来への責任を存在させる責任」という問題にぶつかることになります。そしてこの事実に関しては、もはや単純に「わたしたちにはその責任がある」とあらかじめ素朴に前提することはできません。

この「責任の責任」問題は、たんに環境問題に限定されるものではありません。たとえば、さまざまな文化的、社会的、歴史的記録を残しておくことについてもまた、しばしば「未来への責任」ということが言われる気がします。しかしこの責任についても環境における場合と同様に、その責任が存在するためには、未来においてその記録に接することになる子供が存在する必要があります。単純化してしまえば、未来への責任というのはすべて子供への責任であり、それゆえその責任はつねに子供が新しく生まれてくる限りにおいてしか存在しえないのです。

「ミもフタもない話」というのは思想や哲学からはつねに敬遠されるものです。「衣食足りて礼節を知る」という言葉で考えてみれば、そもそも哲学が生まれた古代ギリシャ奴隷制の国であったので、「生存する」というミもフタもない次元は奴隷が扱う領分であり、哲学はその次元があたかも存在しないかのような顔をして思索にふけることができたのでした。歴史的にみて思想や哲学というものは、「ミもフタもない話」次元を無視することによって成立してきたわけです。

ただ、だからといって思想や哲学が例外なくこの「ミもフタもない話」を無視しつづけてきたかというと、そうではないと思います。それでも、先に挙げたように「子供が生まれてこなければ」というところまでつきつめた「ミもフタもない話」にまで踏み込んだ人というのは、ごくまれな例外を除いては存在しない気がします。その例外というのは、史的唯物論をとなえたカール・マルクスです。

マルクスヘーゲルの観念論を「転倒」させることからその思想を出発させたことに象徴されるように、このマルクスの思想というのはいわばちゃぶ台返しの思想です。それまでは自律した領域だと考えられていた文化や政治、さらには哲学といった「上部構造」に属する諸領域は、実は経済という「下部構造」をなす産業構造によって生み出されているのだというマルクスの主張は、まさに「衣食足りて礼節を知る」を地で行くものだといえます。そしてこのマルクスは、子供というもっとも「ミもフタもない話」もしっかりと考慮しているのです。

マルクスが分析した資本主義の世界では、大規模に組織された生産手段(工場や商品の材料)に抽象化された労働力を投入するという形で生産の体制が編成されています。そこでの生産のプロセスが目指すのは資本の増大です。単純化して言えば、資本は生産手段と労働力に投下され、そこから上がる利益を資本に組み込んでいきます。このときキーワードとなるのが「再生産」です。商品を売ることでもたらされた利益は、ふたたび生産手段と労働力に投下されていきます。利益の大部分は、生産手段+労働力という生産体制を再生産するための経費として消費され、残った部分が利益となってもとの資本を増大させます。つまり資本は、生産体制を再生産していくプロセスのなかで少しずつ増殖していくわけです。

この再生産のプロセスがうまく回っていくためには、生産手段と労働力とがつねに新たに補充されてくる必要があります。この前者は普通の商品市場で、後者は労働市場に供給されます。そしてここで「ミもフタもない話」が出てくるのですが、つきつめて考えれば、生産手段に関しては環境から資源が繰り返し提供されること、労働力に関しては労働者となる新たな子供が繰り返し生まれてくること、が再生産のプロセスが成立するための最低条件となります。マルクスのすごいところは、こういう徹底的に「ミもフタもない話」を徹底的に考えていく点にあります。労働者に支払われる賃金の最低水準としてマルクスが、たんに労働者が生きていくことのできる金額ではなく、労働者が家庭を維持して子供を育てていくことができる金額を挙げているのは、「そうあって欲しい」という希望を述べているのではなく、そうでなければ事実として資本の再生産プロセスが機能しない、という冷徹な認識からくるのです。ここでは、「子供が生まれてこなければ資本主義のプロセスも成立しない」というきわめて「ミもフタもない話」がなされているわけです。

マルクスのこの「ミもフタもない」発想はたぶんのちのマルクス主義者のある部分には引き継がれていて、たとえばルイ・アルチュセールやイワン・イリイッチが扱っている資本の再生産プロセスにおける教育の役割についての議論なども、まさにこの「子供」という「ミもフタもない」次元を念頭に置いたものであるといえると思います。しかしたとえそうした継承がそこかしこで見られるのだとしても、それらは主に資本主義に対する批判という観点によるものであって、「未来への責任」を可能とする「責任への責任」というものをこれ以上なく「ミもフタもない」次元から考える、という発想はまったくみられないのではないかという気がします。

格差社会というものの存在がとみに叫ばれている現代の日本では、この「ミもフタもない話」がきわめて重要な位置を占めているのじゃないかという気がします。たとえば少し前に、共産党の志位委員長が国会で派遣業務の実態について行なった質問が話題を呼ぶということがありました。

こういうのをみると、現代の社会は労働者を再生産するつもりがないのではないか、という気がします。もちろん「資本家はうんぬん」という左巻きの言い方をする気はまったくなくて、グローバル経済という巨大な経済システムのなかでは、放っておくと労働者の再生産が次第に困難になっていくような形での経済のあり方に傾向的に向かっていってしまうのではないか、という気がするのです。このような状況ではよりいっそう、社会が再生産していくためにはなにが必要かという、もっとも「ミもフタもない」次元を考慮する必要がある気がします。

と、なんか「それっぽい」話になってしまいましたが、ほんとはそんなつもりじゃなかったのでした。「社会保障」や「生活保障」といった社会福祉や再分配といった問題は、「未来への責任への責任」としての子供を作ること、という観点からいえばやはりまだ周辺的な問題になります。僕としては本当は、ほとんど思考停止をやむなくされてしまうほどに「ミもフタもない」次元の話をしたかったのでした。たとえば、子供がまったく生まれてこなくなった世界で一人だけ生まれてきた子供のことなどを考えたかったのでした。その子供には、一緒に遊ぶ同年代の友達もいなければ、恋愛をする相手もいません。そして年を取れば次第にまわりの人が死んでいって、最後の数十年は地球上でまるっきり一人っきりで生きることになります。

今回は疲れてきたので、この「最後の子供」と「未来への責任への責任」については、誰か代わりに考えてくれるとうれしいです。

*1:ちなみに『トゥモロー・ワールド』という映画は、子供が生まれてこなくなった世界というものを描いています