労働問題とか、再生産とか

さきほどテレビタックルで、派遣問題についてやかましくおしゃべりしてるのをちらっと見てしまいました。朝まで生テレビとかでもそうだけど、こういう討論番組を見てるとすごくいやな気分になると同時に、それでもそこで扱われているテーマについて自分でも色々考えてしまいます。

昨今の派遣問題に関するくさぐさについては、具体的なあれこれの主張をする気は現時点では毛頭ありませんが、ただし、この問題に関して、いずれにせよこのことを考えおく必要はあるんじゃないかと思っていることがあるので、それについて簡単に書きます。

ただそれについて書くには、まず「仕事」というものを大まかに定義しておく必要があるでしょう。そのための準備として、わたしたちの周りに存在しているもののほとんどが、人間によるなんらかの介入によって生み出されたものだ、ということを最初に確認したいと思います。空とか海とかはまあ別ですが、人間社会に存在するまあだいたいほとんどすべてのものは、誰かによって直接的、間接的に作り出されてます。このことは、程度の差はあれ人間の誕生と共に始まった事態であるといえると思います。人間は、その誕生の時点から自分自身が住み着く環境を自分自身で加工していったわけです。

人間は、自分自身が存在する世界を自分自身で作り上げていく存在です。まずはこの「作る」という行為を仕事と呼ぶことにしましょう。現代において「仕事」というと、賃金をもらう労働のことを誰でも思い浮かべるわけですが、上に書いたように広い意味で仕事というものを捉えれば、たとえば花見の会を組織することだって仕事です。それだって、自分自身が生きる広い意味での「世界」というものをなんらかの形で作り上げる営為であるわけです。

さて、ではそのように広い意味で仕事というものを考えたとしても、そこにはやはり幾つかの種類の仕事が存在します。分類の仕方の候補は、それこそ無限にあると思いますが、ここではハンナ・アレントが『人間の条件』で提起している古典的な区別を参考にしようと思います。その本のなかでアレントは、「労働」、「仕事」、「活動」の三種類の仕事を区別しています。ここではその区別を少し改変して、それぞれ次のように定義しようと思います。

・労働=「食べるもの」を作り出す仕事
これは、人間の生物学的な身体を再生産するために必要な仕事のことで、具体的には農業や漁業などを想像してください。この労働によって、人間は自分自身を再生産していくことができるようになります。

・仕事=生活していく環境を作り出す仕事
アレントは「耐久性」という言葉を使っていたと思いますが、これは家や道路、道具など、人間が生きていく持続的な環境を作っていく仕事です。食べ物がすぐに消えてなくなってしまうものであるのに対して、この仕事によって作り出されるものは時間を超え、場合によっては幾世代をも超えて存在していきます。この仕事は、社会の物理的な環境を再生産していきます。

・活動=象徴的な環境を作り出す仕事
アレントはこれによって政治的活動を意味しようとしていましたが、ここではもっと広く、言語や記号などを作って象徴的な意味活動を行う営為をすべて含めようと思います。ですから狭義の言論活動だけでなく、芸術制作のようなものもここに含めたいとも居ます(アレントはこれを「仕事」の方に分類していた)。この活動は、社会の象徴的な関係を再生産していきます。

以上はごくごくおおざっぱな分類ですが、いずれにせよ多くの層からなる仕事によって、社会というものは作り上げられ、たえず再生産されていっているわけです。まあこれはほんとに何ということのない、単なる確認です。

つぎに、これらの仕事と賃金との関係を考えます。

仕事が自分たちの住む世界をさまざまに作り上げていく営為であるのなら、別に賃金の報酬がなくても人は仕事するはずです。というか、仕事しなければ死んでしまいます。人は放っておいても、自分の食べるものを調達し、住むところや衣服を確保し、また目に見える世界を飾り立てていくはずです。歌も歌うし踊りも踊るでしょう。賃金とは関係なく、仕事の動機(モチベーション)が存在するわけです。

あんまり細かいことはよくわかりませんが、歴史のある時点から、資本の原初蓄積やテクノロジーの発展や人口動態の変化やなどなどのさまざまな要素が組み合わさって、分業による大量生産を通して資本を拡大再生産していく資本主義、というものが立ち上がったようです。資本主義の出現は仕事という観点から考えるならば、いわば仕事の動機の賃金への一元化、といえる気がします。資本主義はその盲目的な運動によって、仕事を循環させていた既存の動機連関を解体して、賃金を稼ぐという動機に一元化した、といえるのではないか、と。

資本主義と共に、労働者というまったく新しい人種というか、仕事の担い手が歴史的に出現します。そして労働者という存在が一般的になるということは、社会を構成するさまざまな物質的、象徴的事物を生み出す仕事が、賃金=資本を必ず通過するようになった、ということを意味します。労働者によって生産されるあらゆる生産物は賃金の対価であるわけです。驚くべきことに、いま部屋のなかで自分のまわりを見て、労働者によって生み出された商品でないものは、ほとんど一つもありません。もちろん商品そのものだけでなく、その商品がこの場所にあるということにも、流通や販売という労働が関与しているわけですから、事態はきわめて重層的です。

以上のことが意味するのは、仕事を通しての社会の再生産が、資本の再生産と切り離せなくなった、ということです。

ところで、この社会の再生産と資本の再生産は、同時にそれらの再生産を実際に担う人間の再生産でもあります。社会の再生産は社会の成員の再生産でもありますし、資本の再生産は価値を生み出す労働者さらには消費者の再生産でもあります。

ただ、一言で再生産といっても、その内実は相当に込み入っています。たとえば労働者の再生産と一言に言っても、たんに人間が新しく生まれてくればそれだけでいいというわけにはいきません。生まれてきた子供は健康に育たなければならないので、そこでは同時に衛生環境や栄養環境、住環境も再生産されなければなりません。また、現代における労働の需要を満たすには一定程度の教育が必要ですから、教育環境も同時に再生産されなければなりません。また、もちろん法が存在しなければ経済活動も回りませんから、さまざまな制度的環境も再生産されなければなりません。社会の再生産と資本の再生産は、これら多様な次元での再生産と不可分に絡まりあっており、そのどれかが致命的に破綻してしまえば、自身の再生産そのものが不可能になります。たとえば子供が生まれてこなければ、いかにそれ以外の要素がそろっていたとしても(そもそも子供が生まれてこなければそんなことは不可能ですが)社会も資本も数十年で消滅します。これは地球環境そのものについても当てはまります。

さてさて、ずいぶん遠回りをしているように思われるかもしれませんが、昨今の労働問題に関して僕のいいたいことは、実はこのあたりまででだいたいのところは言われてしまっています。近視眼的に、どこか一つの水準からだけ見てなにかを非難してみたところで、つまるところは何の意味もない、というのは自明のことです。経済での資本の再生産がうまく行かなければ、社会の再生産も社会の構成員の再生産もうまくいきません。ですから短期的な保障は、あくまでも中長期的な再生産のプロセスに寄与する形で要求されるべきでありますし、また経済的な再生産も、それが社会の構成員やまたその構成員を取り囲むさまざまな環境の再生産を可能とするものでなければ、本末転倒です。

一点だけ少し具体的なことを言えば、近年の派遣問題というのは、経済的な資本の再生産にあまりに重きを置きすぎて、人的資本や社会的資本の再生産の問題を無視する政策をとってきたつけであったのではないかと思います。経済的な資本の再生産が、ほかの資本を枯渇させるようなやり方で追求されるとするならば、それはまさしく本末転倒です。何かを一方的に批判するばかりではない責任ある政治家には、社会全体の再生産ができるだけうまくいくように制度を設計していくという観点から、もろもろ頑張っていってほしいと思います。