詩集の紹介

[読書]詩集の紹介

知り合いが本を出しました。詩集です。

紹介するに当たって感想なりを書いてみたいとも思うのですが、いかんせん、詩というジャンルにはあまり馴染みがないもので、さしあたりは基本的な情報に加え幾つか気に入った詩句を引用するにとどめ、しばらく時間を置いて自分なりの理解が少しは深まってきたと感じることができた場合には、さらなる駄文を連ねてみるということにします。

著者は鳥居万由実、タイトルは『遠さについて』。
フランス堂という、句集や歌集を多く出版している出版社からの自費出版。下記のサイトに本の表紙が載っています。
http://furansudo.ocnk.net/product/1384
まず表紙がとても素晴らしい。この写真だとあまりわからないですが、本のコンパクトなたたずまいも魅力的です。本屋で視界の端っこにチラッとでも入ると、反射的にとりあえず手にとってしまいたくなるような雰囲気を醸し出しています。

また上記サイトに載せられているように、帯には鵜飼哲氏がなんとも格好のいいコメントを寄せています。
「こうして読者は、いつか不思議な寒冷地へ導かれ、かつて見たことない空を見るだろう。」
ですって。

出版にあたって、書店に配るポップというものを作成したらしいのですが、それもネット上にありました。フランス堂の編集者(社長?)のブログです。
http://fragie.exblog.jp/9808489/
「注目の詩人」
ですって。

さて、では中身はどうなのかということなのですが、こういうのは説明するのが難しいですね。とくにこの詩集はさまざまなスタイルをもつ詩で構成されていて、さらにそのなかにはページという物理的な空間をかなり自由に活用しているものもあるので、こういう直線的な散文ではそもそも限界がある。たとえばこれは極端な例ですが、マラルメの『骰子一擲』みたいな。
http://www.momoti.com/saikoro.htm

なので、とりあえずは詩集そのものの立体的なふくらみというものについて説明しようとすることは諦めて、詩句の切れ端を幾つか拾ってくることで、この詩集を構成している言葉群のおおまかなイメージを紹介するにとどめることにします。

ということで本題です。もしぼくがこの詩集の帯に載せる詩句を選ぶのだとしたら次のものを選びます。

「百万光年かなたから
けさ撃ちころした鳥のかげが
ブーメランのように戻ってくる」

これは「夜の歌」と題されたとても長い詩の一部で、ここだけを取り出してうんぬん言うのはかなり問題があるのですが、しかしここは暴力的に、ぼくがこの詩集から受け取った印象を、この一節への注釈というかたちで説明してみることにします。

この詩集のタイトルは、すでに書いたように『遠さについて』です。上に引用した一節のなかには「百万光年かなたから」という表現があります。この表現は、いうまでもなくある種の「遠さ」を指し示しています。ただしそれはいささか奇妙な遠さです。この「百万光年かなたから」から戻ってくるのは、「けさ撃ちころした鳥のかげ」です。「けさ」の出来事が、「百万光年かなたから」戻ってくる。これは不思議な隔たりです。

この隔たりの不思議さは、もちろん空間的なものだけではありません。「百万光年かなた」と「けさ」とがこのように結びつく時、空間的な遠さと時間的な遠さとがともども歪んでいるわけです。

奇妙に歪んだこの時空間的な「遠さ」を行き来する存在がいます。それは「鳥のかげ」ですが、ぼくの印象ではここでの「ころした」というひらがなの表現がとても効果的である気がします。「殺した」だとなんだか生々しいですが、「ころした」になると突然それがなにやらふんわりとした出来事に変わります。「ころした」は、生から死への移行という出来事というよりは、むしろ中性的な脱身体化の儀式のようなものに近い気がします。この儀式を通して、「鳥」は時間と空間の制約から取り払われる。

そして、その「鳥のかげ」が「ブーメランのように戻ってくる」。歪んだ時空間的な「遠さ」と、「鳥のかげ」というやたら抽象的なイメージが、ここで「ブーメラン」というとても具体的で物質的なイメージにつながっていく。この結びつき方は、詩集を動かしている言葉の全体的な動きを端的に示しているような気が、なんとなくします。


次に、別の箇所のもうちょっと長い部分を引用します。「トロンボーン」という詩からです(一篇の詩のまとまりとしては、ぼくはこの作品が一番好きです)。

「おかあさんがまちをながれるころ
おとうさんもまちをすべっていった
ほんとうにだれかまっているだろうか
まちくたびれたぼくは
まちつづけるぼくをおいこして
ぼくをおきざりにしてしまったんだろう
ポケットにはミニチュアの地球模型、惑星模型
指先につつしみのような墨汁をひたして
手元の白紙に花の名前をかきつづける
さざんか すみれ ばら
セージ ゆり うこん
淡い色彩のこどもらがあらわれては消える
そういえば ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった
しかし ぼくにこどもがいたことはない」

ここにも脱身体化のイメージがはっきりとありますね。あと、この場所では「手元の白紙に花の名前をかきつづける」という風に、詩を書くことそのものを比喩的にあらわしているような表現があります。脱身体化や、またそれによって生み出されるもの(ここでは「花の名前」、さっきは「鳥のかげ」)などのイメージには、詩というものについての考え方が反映されている、というような気がしないでもありません。


最後にあと一節。「食卓に」という詩の一部です。

「眠る夜の花のように心は放心し、明滅するきみの画面の奥にむくむくまるい生物の気配がする。どんなに強い枝ぶりが折られ、すいかよりもまるい洋梨がなったとしても、わたしの顔の画面の裏に在るものをきみにどうやって与えることが出来るだろう。桃色フラミンゴのみずうみに飛び立ち続けているむすうの手紙。きみの手をわたしが触れる、二つの遠さが空へ向け飛び立ち続ける、きみといると宇宙はまるくなる。きみの顔をわたしは知らない。鏡ごしに伝わってくる体温がわたしを安心させる。マンモスを捕らえる罠のように。」

ここでは「表面」あるいは「界面」のイメージが前に出ている気がします。「画面」や「顔」や「鏡」というイメージ。この表面を通して、誰かが隔てられながらも近くにいる。そこに「むすうの手紙」が飛び立ち続ける。ただしそれはおそらく誰かから誰かへと届けられる手紙というのではなくて、あの「鳥のかげ」のように、歪んだ時空間を飛び越えて「戻ってくる」という奇妙な動きをする手紙なのだと思います。この動きの主体に「詩」という名前を与えるかどうかということはさしあたりはどうでもよく、とにかくここで重要なのは、飛び立ち続けるその「手紙」を通してある誰かの存在が、それが本当は誰なのかはわからなくとも、すくなくとも体温という現実性として触覚的に感じ取られるということなのでしょう。


とまあ、きわめて恣意的に抜き取ってきたいくつかの部分についてのきわめて恣意的なコメントを通して、とりあえず現時点で自分がこの詩集から感じ取ったおおまかな印象のようなものを説明してみた次第です。

興味のある方は、詩集の品揃えが豊富な書店(どこか知らないのですが)で探してみてください。あとアマゾンにも置いてあるみたいです(でも著者の名前の漢字がまちがってる)。
http://www.amazon.co.jp/%E9%81%A0%E3%81%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E2%80%95%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E9%B3%A5%E5%B1%85-%E4%B8%87%E7%94%B1%E7%BE%8E/dp/4781400868/ref=sr_1_3?ie=UTF8&s=books&qid=1228386598&sr=8-3