『ロスジェネ』との縁

「超左翼マガジン」なる、穏やかならざるコピーで銘打たれている新しい雑誌、『ロスジェネ』。その中心人物の一人である杉田俊介氏(id:sugitasyunsuke)とは、以前、ひょんなことから『エフェメール』という名前のCDROM雑誌に参加させていただいたという縁があるのですが、この雑誌の表紙を見てみたら、もう一人、自分と縁のある人物を発見して驚きました。

その人物というのは、紙屋研究所*1を主催されている紙屋高雪氏です。

おそらく5年とか6年とか昔のことですが、マンガ評論を行なっている氏のサイトに、杉浦日向子経由でたどり着いたのでした。そこではどちらかといえばマイナーな漫画家の作品が主に批評されているのですが、そのなかに、当時大人気だった『ヒカルの碁』についての批評も混じっていました*2。ちょうどそのころ、僕もこの『ヒカルの碁』にはまりつつ、またその面白さの理由について考えていたので、紙屋氏の文章を読み終わると即座に氏のメールアドレスを調べて、そのまま自分なりの『ヒカルの碁』論を書いて送信したのでした。

すると紙屋氏から返事が来て、なんやかんやで、僕が書いたメールとそれに対していただいた返事とをあわせて、「読者からのメールと返事」として、サイトにアップしていただくことになったのでした*3

ヒカルの碁』には「神の一手」というものが出てきて、全体としてはこの「神の一手」の追求のプロセスとして、物語の全体が展開されていきます。僕はこの「神の一手」をいわば無限遠点とする囲碁の道の追求のプロセスを、一種の歴史哲学として捉えてみようと考え紙屋氏に文章を送ったのでした。

その文章に対していただいた返事を読むと、紙屋氏は、僕が捉えようとした歴史のイメージを、マルクス的に解釈された弁証法的なプロセスのモデルで捉えようとしているようでした。個人的には、もちろんそのように解釈することもできるとは思いますが、それだと面白みがちょっと減ってしまうなあという気がしました。

僕は文章の中ではもろもろの人文的な理論についての参照は行なっていないのですが、一箇所、パウル・クレーの「歴史の天使」に言及することで、ベンヤミンの歴史哲学をそれとなく暗示することだけはしておきました。こういう場合には、マルクスよりもベンヤミンのほうがやっぱり魅力的である気がします。

自身をマルクス主義者であると公言している紙屋氏とは、その後、マルクスの『資本論』についてほんのささやかなやりとりもしました。「僕も『資本論』読んでみたいのですが、どこから手をつければいいんですかねえ?」というような、そんなことです。

僕自身は、全身CTスキャンをしてもどこにもマルクス主義はみつからない類の人間ですが、しかし思想家としてのマルクスにはとても興味があります。ただしとはいってもそれは、価値形態論のマルクスではありません。僕にとってマルクスは、ダーウィンの延長線上にいる人物です。社会はどのように再生産され、またその繰り返される再生産のプロセスを通してどのように変容していくのか。社会組織の進化論というものを、あやしげな社会進化論としてではなく、地に足をつけて考えていくためには、マルクスは必須だろう、と僕は感じています。

と、そんなことはどうでもよくて、『ロスジェネ』の表紙に紙屋氏の名前を見つけのが、たまたま筑摩書房から出ている新訳マルクスで「経済学批判要綱」を読んでいるときだったので、「ああ、縁だなあ」と思ったのでした。