カメラと眼差しの猥褻さ―秋葉原事件報道について

秋葉原での事件の際に、ケータイカメラなどで野次馬的に現場を撮影していた人たちに関する論議を取り上げて、佐々木俊尚氏が非常に興味深い記事を書いていました。
http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2008/06/14/entry_27002476/

この記事は、それらの行為についての単純な賛否を展開するのではなく、そこに浮かび上がる根本的な問題に焦点を当てています。「報道」と「野次馬」とのなんとなく曖昧な境界を、当事者として「巻き込まれること」についての本質的なジレンマとして浮かび上がらせていき、その上で、テクノロジーの進歩にともなって、そのジレンマがこれからどのような形であらわれていくのか、について考察を進めていく。非常に啓発的な記事でした。

この記事のなかで僕がもっとも興味を覚えたのは次の一節です。

実はこの野次馬根性というのは、それらの記事や映像を受け取る視聴者・読者の側とダイレクトにつながっている。大半の人は、野次馬根性でしか事件報道を見ていない。事件現場の映像にゾクゾクするような興奮を感じない人がいるだろうか? 被害者や遺族に対する詠嘆、社会に対する怒りなどの理性的な思考が生まれてくるのはしばらく後の話で、最初の事件発生直後には、報道するマスメディアとその情報を受け取る視聴者を巻き込んだ、興奮の渦しか存在していない。

ここでは、単に<報道/野次馬>といういわば社会制度上の対立軸からさらに進みて、視聴者というもう一つの軸が持ち込まれているだけではありません。それとともに現場に居合わせるカメラマンの「野次馬性」にも言及することで、そこには「眼差し一般」という次元が問題として現われてきます。そこから得られる見通しは、<報道/野次馬>という一見対立する二つの項が、実はなんらかのの光景を見る人の「眼差し」そのものに内在するある両義性を社会的な次元に翻訳したものでしかない、というものです。

秋葉原の事件に関しては、ケータイカメラで惨状を撮影している人たちが非難の対象になりました。では、カメラで撮影してはいなくても、やはり野次馬的な興味で、もしかしたら刺激的な映画を観るような興奮を持って、現場をただ見つけていた人たちの場合はどうでしょうか。彼らも同様に非難されるべきでしょうか。それともケータイカメラでの撮影行為とただ眺めるという行為との間には、決定的な違いがあるのでしょうか。この点を考えるに際しては、「眼差しの猥褻さ」というものを考慮する必要があるかと思います。

佐々木氏の記事のすぐれた点の一つは、事件を見つめる視聴者の、その根っこにおいては野次馬的なまなざしを社会的に正当化する「共同幻想装置」というものの存在に言及することで、「眼差しの猥褻さ」の問題に暗黙のうちに触れている点です。佐々木氏はマスメディアの役割というものを「共同幻想装置」として位置づけることで、同時に、「隠された眼差し」とでも呼ぶべき眼差しのあるあり方を捉えています。

 この興奮のメディア空間の中で、マスメディアはいったいどのような役割を果たしているのか。もちろん第一義的には情報を視聴者のもとへと運ぶコンテナーの役割を持っているのだけれども、それと同時にマスメディアは、野次馬根性を「公共性」という甘ったるい生クリームでからめとってしまい、むき出しの野次馬根性を覆い隠してくれる役割を持っている。
 つまり本当は単なる野次馬根性で殺人事件のニュースを観ている人たちも、「こんなひどい事件は信じられない」「世の中が悪くなっている」と詠嘆してみせて、社会正義を希求しているふりをすることができるのだ。古舘伊知郎キャスターや「ニュースゼロ」の村尾信尚キャスターの深刻そうなしかめ面は、そうした社会正義を保つための共同幻想装置の補助デバイスになっているのだ。

野次馬的な眼差しは、そこに「公共性」というような「共同幻想装置」が機能することで、そのものとしては隠されます。つまりその眼差しの本当の動機である野次馬性が、「公共性」という衣服をまとうことで見えなくなるわけです。「共同幻想装置」は、「そのものとしては隠されながら得られる満足」というものを可能とするのですが、このような満足のあり方を、僕は「猥褻さ」と呼ぶことにしています。

猥褻さは、つねに衣服の下の出来事です。つまりそれは、人々の眼差しから隠されたところで起こる出来事です。その同じ行為が衣服の上に飛び出し人々の眼差しの前に現われると、それは破廉恥になります。まったく同じ行為が、人々の眼差しから隠れた場所で行なわれるか、それとも人々の面前で行なわれるかによって、まったくそのステータスを変えるのです。

だいたいの人間の精神は、剥き出しの猥褻さを直視することができません。だから猥褻さは必ず掩蔽されつつ、それぞれがこっそりと享楽するものであるわけです。佐々木氏がマスメディアの役割として挙げた「共同幻想装置」は、人々が眼差しの猥褻さを安心して享楽することを可能とする、一種の衣服であると理解できます。それに対して秋葉原次元でのケータイのカメラは、いわば衣服を剥ぎ取った猥褻な眼差しであり、それに対して起こった拒否反応は、猥褻さが剥き出しにされたことへの拒否反応であったのではないでしょうか。

秋葉原事件をめぐっての例の議論は、おそらく本当は<報道/野次馬>という対立軸によってではなく、その両者に共にかかわる「眼差しにおける猥褻さの構造」というきわめて一般的な次元から理解しなければならないものであるように思います。その上で、現代のテクノロジーの進歩とともに変化しつつある、猥褻さの組織のされ方、あるいは猥褻さが剥き出しにされるされ方、について考察を進めていく、という順序が正しいような気がします。

この最後の点でも、佐々木氏はとても示唆に富んだ例を挙げて問題提起をしています。額にカメラが埋め込まれ、見られたすべての光景がライフログとして残る時代に、眼差しは、その猥褻さはどうなっていくのか。個人的には、単に見られた光景だけではなく、そこで生じた情動の動き(もちろんそこには猥褻な満足も含まれます)も同時に記録される、という状況を想像した方がより面白いかと思います。そのとき、眼差しとそれに伴う感情は、それを隠すいかなる衣服も頼ることができず、すべてが社会的な眼差しの前に剥き出しにされてしまいます。

最後に、以前まったく別の文脈で引用した*1ニーチェの次の言葉を掲げることにします。

 しかし、かれは―死ぬほかはなかったのだ。かれは、一切を見た目で見たのだ―人間の底と奥を見たのだ、人間の隠された汚辱と醜悪のすべてを見たのだ。
 かれの同情は羞恥を知らなかった。かれはわたしの最もきたない心のすみずみにまでもぐりこんだ。この最も好奇心の強いもの、この過度に厚顔な、過度に同情的なものを、わたしは生かしておくことはできなかったのだ。
 かれはいつも私を見ている。このような目撃者にわたしは復讐しようとしたのだ、―復讐できなければ、自分が生きまいとしたのだ。一切を見た神、したがって人間をも見た神、その神は死ぬほかはなかったのだ。人間は、そういう目撃者が生きていることに堪えることはできないのだ(ニーチェツァラトゥストラ』第四、最終部「最も醜い人間」)

ニーチェによれば「神の死」は、その眼差しが全能であること、つまりその眼差しからのいかなる隠れ家も不可能にしたことによって死んだのでした。さて、ではすでに神が死んで久しい現代において、すべてを見通してしまうテクノロジーの眼差しは、いったいいかなる「死」をもたらすのか。もちろん、僕にはわかりません。