マスメディアとマスコミュニケーション――twitterについて考える 


最近、twitterなるものにちゃんとコミットしてみようと思い始めているのですが(アカウント自体はかなり以前から取得していました)、同時に、twitterというツールについても考察してみたい、という欲望も日に日に増してきています。少し前の記事twitterについて簡単に触れたことはありましたが、今回は、もう少しまとまった形で、twitterについて考察してみようと思います。

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先日、ダニエル・ブーニューの『コミュニケーション学講義』という書物についての感想を書きました。このブーニューという人の理論では、コミュニケーションと情報という対がとても重要な役割を果たします。ただしその対は単なる対立をなしているのではなく、コミュニケーション的契機なくしては情報そのものが不可能だが、しかし情報なきコミュニケーションは存在する、という非対称な関係にあります。このことは認知的な発達のプロセスを考えてみても容易に理解できます。人間の出発点にあるのは母親とのコミュニケーションであり、情報という、なんらかの客観性を有するとされる対象との関係は、かなり後になってからでしか可能ではありません。

ここではその議論をかなりおおざっぱに捉え直して、twitterについて論じるための道具にしたいと思います。その出発として、次のような図式を設定したいと思います。

コミュニケーション=連鎖
情報=参照

コミュニケーションにおいては、それが連鎖するということは本質的な契機です。コミュニケーションの主眼は、そこで何かを伝達することではなく、それが際限なく連鎖していくことにあります。もちろんそこでは感情的、情動的ななにごとかが交換され、蓄積されていくわけですが、それらのコミュニケーションの成果は、あくまでもコミュニケーションが連鎖していくことによってのみ存在しつづけるものです。コミュニケーションを通して生み出された信頼というものも、定期的なコミュニケーションが途絶えてしまえば時間とともに着実に薄れていってしまう、ということは誰でも知っています。

情報に関しては、連鎖ももちろん重要な契機ではありますが、しかし情報を情報たらしめているのは、それが何か客観的なものを参照している、という点にあります。ただしここで客観的と呼ばれているのは、フッサールが間主観的と呼ぶもの、つまり、第三者にも共有されていると考えられているもののことです。コミュニケーションが基本的に一人称と二人称(僕と君、そして僕たち)の次元にあるのに対して、情報は三人称の次元にあるわけです。情報というものはつねに、三人称の他者(彼ら、彼女ら)も同様に参照することのできる対象を伝えてくれるものであるのです。

ところで、「マスコミ」という言葉があります。これはマスコミュニケーションの略ですが、ほぼ同じ意味で「マスメディア」という言葉も使われます。それが指すのは新聞やテレビのことですが、はたしてそれらのものは「コミュニケーション」をしていると言えるでしょうか?テレビであれば、まだわかります。「八時だよ、全員集合」の「おいーっす」なんかが象徴しているように、テレビ画面のなかのタレントたちは、しばしば実際に視聴者に語りかけてきますし、また「ながら視聴」という言葉があるように、内容を観るるわけではなく、「ただたんにそこにいてもらう」というようなコミュニケーション的な視聴行動もきわめて一般的です。では新聞の場合はどうでしょう。常識的に考えると、新聞が伝えるのは情報であり、それはコミュニケーションを行っているわけではありません。しかし、新聞が毎朝同じ時間に届き、それを同じ時間に読む、というような習慣的な振る舞いには、コミュニケーション的な要素があります。ヘーゲルが新聞について、「朝刊を読むことは現代人の礼拝行為だ」と述べたのは有名ですが、こういった反復行為には、朝の挨拶にも似た、コミュニケーション的な要素が含まれています。それは、ロジャー・シルバーストーンが「存在論的安全」と呼んだ、ある安心感を保証してくれるものです。

さきほど挙げたダニエル・ブーニューの議論のなかで重要なのは、情報はつねになんらかのコミュニケーションを通して届けられる、という点です。なんらかの情報を知るためには、まずはその情報が自分のもとに届いてこなければなりません。ここでは、この「届ける」ということを行う活動を、ひとくくりに「コミュニケーション」と読んでみることにします。「マスコミュニケーション」という言葉は、この「届ける」という行為をマスな次元で制度化したもので、そこに流通するさまざまな情報は、マスなコミュニケーション回路に乗っかることで広く共有されることになるわけです。

情報というものは、基本的には新しいもの、未知なるものです。そこにはつねに、なんらかの驚きと、そしてなんらかの動揺が生じるはずです。それゆえ、情報はつねにコミュニケーションという皮膜を通して受け取られる必要があります。信じることのできる情報というのは、あらかじめ親しんでいるコミュニケーション回路から届けられたものだけです。マスコミュニケーションというのは、たんに情報を届けるメディアというだけではなく、情報という未知なるものにある信頼や安心を付与する、心理的な保証者でもあるのです。

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コミュニケーションはいたるところで連鎖しており、そこにはさまざまな情報もまた流通しています。そしてこれまで、そうしたコミュニケーションをマスな次元で組織していたのは、いうまでもなく「マスコミ」でした。その状況は、インターネットの出現とともに大きく変わりつつあるようにも見えました。しかしtwitterが存在している現在から振り返ってみるならば、そこでは何が変わり何が変わっていなかったのか、ということが、事後的に見えてくるような気がします。

すくなくとも、パブリッシュすること(つまり三人称のまなざしのもとに情報を提示すること)の敷居と範囲は根本的に変化しました。つまり、限りなくゼロに近いコストで数万、数十万オーダーの人々に対してパブリッシュする、ということが物理的に可能となりました。これは誰でも知っていることです。しかし「コミュニケーション」という要素について考えるならば、物理的には潜在的に可能となった可能性と、それが実際に具体化することとのあいだ、つまり、何事かを書いてアップロードすることと、それが数万人に読まれることとのあいだには、大きな差があります。このことは、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」の違い、という観点から説明することができます。

仮に、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」をそれぞれ次のように定義してみます。

マスメディア=マスな人々に届きうる物質的メディア
マスコミュニケーション=マスな人々となされるコミュニケーション

これまで、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」はほとんど同義で用いられてきました。これは、マスなメディアがつねにマスなコミュニケーションを実現させていたからです。しかしインターネットの出現とともに、この点で根本的な変化が生じることになります。つまり、誰でもが「マスメディア」、つまり物質的にはマスな人々に届くことを可能とするメディアを手に入れられるようになったのです。しかし物質的にはマスな人々に届くことができるメディアに載せられたコンテンツが、実際に受け手に届くためには、それを実現するコミュニケーションが存在しなくてはなりません。しかし、マスなメディアは誰にでも手に入りますが、マスなコミュニケーションを実現することは、相変わらず困難でありつづけました。

もちろん、たとえばヤフーのトップページなどは、さまざまなサービスを組織することによって、ユーザーとの間にマスなコミュニケーション(おそらく新聞やテレビなどよりも強固な)を確立しています。コミュニケーションの回路さえ確保することができれば、マスなメディアであるネットは、原理上は新聞、テレビを凌駕するポテンシャルを有しているわけです。

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さて、このあたりまでを前置きとして、twitterに戻ってこようと思います。twitterというのは、基本的にはコミュニケーションの論理で作動しています。そこでの呟きは、あのアーキテクチャーが可能とした絶妙な距離感でもって、コミュニケーションの連鎖へと向けられています。本来はそのアーキテクチャーのどのような部分がどのような距離感や閉じと開かれを可能としているのか、についても考察する必要があるのですが、それについては誰かがやってくれると想定して、ここでは、「誰もが肌で理解しているあの感じ」を前提として話を進めたいと思います。

twitterでは際限のないコミュニケーションが連鎖しているわけですが、しかしそこにはしばしば情報もまた流通しています。それを行っている代表的なものはどこかのサイトのURLを貼るという行為であり、その行為はリツイートによって増殖していきます。呟かれたURLとそのリツイートによって、twitter上では常時とてつもない分量のURLが流れていると想像されます。

そろそろ結論に入ろうかと思いますが、僕の理解するところでは、twitterによって初めてインターネット上でマスなコミュニケーションの実現の可能性が開かれました。たとえば堀江貴文氏(@takapon_jp)にはいま50万人を超えるフォロワーがいますが、スモールワールド現象の要領で、「フォロワーのフォロワーのフォロワー」という風に広げていけば、数百万というオーダーには容易に達することができます。しかもこれは、堀江氏だけがそのポテンシャルを有しているのではなく、堀江氏にリツイートされたあらゆる呟きにそのポテンシャルがあるわけです。

インターネットというマスメディアに書き記しされた言葉も、それを人々へと届けてくれるコミュニケーションの回路に乗らなければ、チラシの裏に書かれたポエムと変わりません。しかしtwitter上で実現している際限のない(ほとんどマスな)コミュニケーションの回路は、それらの孤独な言葉の連なりを突如そのコミュニケーション回路に乗せることができますし、おそらくすでにそのようなことが繰り返し起こっています。そしてそのポテンシャルは、twitterが社会のインフラ化していくことになれば、ますます増大していくことになります。すでに紹介した以前の記事

Twitter上でのコミュニケーションをもっとも活発にすることのできるコンテンツが、一番多く受容されるコンテンツになるのではないか

ということを書きましたが、これはたんにテレビなどの「マスコミ」のコンテンツに限りません。インターネットによって「マスメディア」が一般化し、そしてtwitterによって、「マスコミュニケーション」もまた一般化しつつある、と書いてしまうと大げさですが、とりあえずメディアとコミュニケーションとの結びつきや、その変遷という観点からものごとを見てみると、かつて起こったこと、いま起こっていることに関する見晴らしが、それなりに良くなるような気がします。