人間の欲望

たまに公務員なんかが痴漢で捕まって新聞に載る。そういう記事を読むたびに覚える違和感があります。痴漢が悪いのは当然です。でも記事を読むと、なにか性的欲望を持つことそのものが悪いという風に書かれているように感じるものがあります。

当たり前のことですが、悪いのは満員電車のなかでムラムラすることではなく、実際に手を出してしまうことです。つまり非難されるべきであるのは、欲望を持つことではなく、欲望を我慢しなかったことであるわけです。でも痴漢や猥褻関係の逮捕記事は、まるで欲望を持つことそのものを断罪するような傾向にあるような気がして、これが気持ち悪い。

しかしまあ、心情的にはわかりますし、このことは本質的な傾向でもあるのでしょう。社会というのは、とりあえず公的な場では、誰もが性的欲望を持っていないかのように振る舞うことで成立しているわけです。みんなウンコをしているけどウンコなどしたことがないような顔をして泣いたり笑ったりしているのと同じことです。だから小学生は学校でウンコするとからかわれるんです。

万引きとかの場合、痴漢や猥褻の場合とはちがって、ものに対する欲望自体を断罪するような調子というのは生まれません。批判されるのははっきりと、欲望を持つことではなく欲望を我慢しなかったことであり、さらにいえば、働くなりなんなりしてお金を手に入れることで合法的にものを手に入れる手段があるのにその手段をとらなかったことに対してです。

心情的なものを別にすれば、欲望というものに関して、痴漢と万引きとは同じ態度で扱われるべきでしょう。すなわち、断罪されるのは欲望そのものではなく欲望を我慢しないことであり、もしなにか(異性、商品)が欲しければ、正規の手段(説得、お金)を通して手に入れなければならない、ということです。

と、これはまあいいと思います。まとめてしまえば、「欲しいものがあればしかるべき手続きを踏め」という常識的な金言が手に入るだけです。ただ、ここには暗に、「しかるべき手続きを踏めば欲しいものは手に入る」という前提があります。そしてこの前提を疑わない限りで、上の常識は一種の格率として機能しうるのでしょう。

しかし、世の中は複雑です。性的犯罪に関するものとして、ロリコン的なものを考えてみます。とすると途端にあの格率は通用しなくなります。いわゆる「おにいさん」が少女に無理矢理「いたずら」をした。これはむろん悪いことです。この類いの事件に関しては、一般的な痴漢や猥褻におけるよりもはるかに、「欲望をもつことそのものが悪い」という風潮があると思います。この風潮に関してはどうでしょうか。断罪されるべきは「欲望を抑えなかったこと」であり、「欲望をもつこと」自体を批判するのはおかしいといえるでしょうか。この場合はそうはいきません。

「欲望を抑えなかったこと」を批判するというのはつまり、「欲しいものがあればしかるべき手続きを踏め」ということの裏返しです。しかし、ロリコン的な欲望は、それを正規に満たすべき「手続き」というものがある段階からは存在しません。つまり、この場合は、欲望そのものが社会的に承認されていないのであり、とすると批判の対象は正確に、「欲望を抑えなかったこと」
ではなく「欲望をもつこと」だということになります。これは形式上そうならざるを得ません。

このことは、いわゆるシリアル・キラーという存在に関して明瞭になります。シリアル・キラー、つまり連続殺人鬼というのは、偶発的な、あるいは金銭や恋愛や怨恨やといった理由に基づく殺人者ではなく、殺人そのものを目的とする、つまり人を殺すことを欲望してしまう人種のことです。そのような欲望と、社会はどのように接することができるのか。その欲望を満たすべき正規な手続きが絶対に存在しえない以上、社会はその欲望そのものを断罪するしかありません。そしてその欲望がひとりの人間の一番の深奥に根差しているのだとすれば、その人間が存在しているということそのものを断罪しなければなりません。この断絶の深さはいったいなんだ。

もちろん、その断絶を埋める方策はあります。つまり、その欲望を病気であるととらえ、治療という形でのコミュニケーションを想定するのです。このことはつまり、正常と異常という境界を設定し、人間は「本来」みな正常であるのだが、なにか「悪い」原因があってときには異常になってしまう人間がいるのだと考えるということです。さらに言えば、「その欲望は本当の欲望ではない」と欲望自体の存在を否定して、本当の欲望(人間らしい!)に目覚めることに希望を見いだすということです。

そのような普遍的で正常な「人間」像から出発できるのならば、社会に苦悩はありません。しかしもあらゆる欲望が、特定の「人間」像には回収できない絶対的な固有性というものをもつのだとすれば、社会はあの断絶と向き合わなければならなくなります。

いま僕の膝の上にはコリン・ウィルソンの『現代殺人百科』が載っています。その目次を開くと、一年半で13人の女性を陵辱し惨殺したアルバート・ヘンリー・デサルボをはじめとして、おそらく七、八十人のシリアル・キラーの名前が並べられています。多すぎるので、めんどくさくて数えられません。彼らはおそらく、その存在そのものを社会が承認することのできない人種なのでしょう。

それは単に事実であり、そしてそれが良いのか悪いのかを簡単に判断できるような次元を越えた、禍々しい現実です。そして、その禍々しさを本当に真に受けるのだとすれば、このとき恐ろしいのは、その禍々しさがシリアル・キラーの欲望にあるのかそれを排除せざるを得ない社会にあるのかが判断しえないという点です。シリアル・キラーの例は極端であるとしても、個々人がもつ固有の欲望というものが社会と折り合うことができるかどうかなんてことは、その個人には決めようがないのであり、もしいままでは折り合って来れたのだとすれば、それには何の根拠もなく、たんに幸運だったというだけなんでしょう。そしてその幸運がいつまでつづくかなんてことも誰にもわからない。これが禍々しいということであり、その禍々しさは、つまり、最初に触れた痴漢事件や猥褻事件における欲望そのものの断罪に直接つながっているのだというのが今日のお話。