インターネット上では莫大な情報が現れては跡形もなく消えていく、というような印象がありますが、実はキャッシュとかいうのが残っていたりして、消したはずの情報がいつのまにやら出回っている、ということがよくあるようです。ブログ界ブロゴスフィア?)ってところでは、書いた文章を勝手に改変することはなにやら暗黙の倫理規定というのに反するようで、それが原因で悶着が起こる、なんてこともあるようです。キャッシュが残ってしまうから、無断で修正してもばれてしまう。

かつてイランの大学で、ユダヤ法への注釈をデータベース化しようというプログラムがあったそうです。しかしそこでプログラマーは思わぬ困難にぶつかることになった。ユダヤ法では、一度書かれた神の名を消したり神の名が書かれたものを破壊したりすることを禁じている。とすると、画面上の、あるいはディスクやプロッピーに保存された神の名の場合はどうなるのか?この困難に対してラビはこう判断したとのこと。それらの媒体では、書かれたことにはならない、と。

パソコンの画面上にある神の名はまだ「書かれた」とは判断されず、それが紙の上にプリントアウトされて初めてそれは「書かれた」ことになる、ということです。その情報がまだハードディスク内にあっていくらでも自由に編集できる状態にある場合は、それはヴァーチャルな(潜勢的な)文字であってアクチュアルな(現勢的な)文字ではない、と。これは、たぶんこういうことです。つまり、神はパソコンの画面を見ない。すくなくとも見ないものとして扱うということをラビは判断したわけです。でもそれなら、パソコン画面上の猥褻な画像だって神様にとっては存在しなそうなものですが、こちらはそうはいかないんでしょうねえ。

で、ブログ界です。上の話からすると、つまりこういうことになるわけです。ブログ界の神様はキャッシュまで見る。だからなんだか殺伐とする。

うーん、神様にだってつつしみがあってもいいのかもしれないという気がします。そういえばニーチェツァラトゥストラはこう言っていました。

しかし、かれは―死ぬほかはなかったのだ。かれは、一切を見た目で見たのだ―人間の底と奥を見たのだ、人間の隠された汚辱と醜悪のすべてを見たのだ。
 かれの同情は羞恥を知らなかった。かれはわたしの最もきたない心のすみずみにまでもぐりこんだ。この最も好奇心の強いもの、この過度に厚顔な、過度に同情的なものを、わたしは生かしておくことはできなかったのだ。
 かれはいつも私を見ている。このような目撃者にわたしは復讐しようとしたのだ、―復讐できなければ、自分が生きまいとしたのだ。一切を見た神、したがって人間をも見た神、その神は死ぬほかはなかったのだ。人間は、そういう目撃者が生きていることに堪えることはできないのだ(ニーチェツァラトゥストラ』第四、最終部「最も醜い人間」)

ことのはの松永英明氏や、GripBlogの泉あい氏のことなど思い返してこのツァラトゥストラの言葉を読むと、なんだか恐ろしさすら感じます。