空間、時間、リズム

昨日の日記では、『ブロック・パーティー』という映画に関して空間の可塑性という観点から簡単な感想を書きました。ということでせっかくなので、「そもそも空間って何?」ということに関して簡単な覚書を残しておくことにします。

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その筋の世界で「空間論的転回」なるものが叫ばれ始めたのは90年代のことですが、その先触れとなったのがエドワード・ソジャの『ポストモダン地理学』でした。そこでソジャは、人文知を支配している時間パラダイムに抗して、いまこそ空間の問いを提起する必要があると述べたのでした。それはたんに地理学ローカルの話ではなく、まさしく哲学の核心をなすものとして空間の問いを捉えなおす必要がある、というのがソジャの主張でした。

ソジャの『ポストモダン地理学』が出版されたのは1989年。同じく地理学者であるデイヴィッド・ハーヴェイの『ポストモダニティの条件』が出版されたのと同年であり、このあたりから地理学というなんだか地味そうな学問が、人文知の領域でにわかに盛り上がり始めたといえるでしょう。そしてその盛り上がりは、僕の理解するところではまだまだつづいている、というよりもこれからさらに盛り上がっていく、というような気がします。

ソジャの議論の最大の参照先は、アンリ・ルフェーブルの『空間の生産』です。そして件の「空間の可塑性」という問題を考える際にもっとも役に立つと個人的に考えているのがそのルフェーブルの議論です。よく知られているようにルフェーブルは空間を三つの契機に分けます。
1、空間的実践(知覚される空間)
2、空間の表象(思考される空間)
3、表象の空間(生きられる空間)
ソジャはのちの『第三空間』においてこのうちの「表象の空間」を差異を生み出すヘテロトピア的な場である「第三の空間」と呼ぶことになるわけですが、僕自身はその読み方には懐疑的です。僕なりにまとめるとすると次のようになります。
1、空間的実践は、そこで身体的な身ぶりが展開される物理的な空間
2、空間の表象は、空間の編成を統一的に捉える表象の図式
3、表象の空間は、シンボリックな営為が展開されるヴァーチャルな空間
ルフェーブルによればこの三つの空間は切り離すことはできず、三項からなる弁証法的関係にあるということです。

ブロック・パーティー』の舞台となったあのブルックリンの街角を考えて見ましょう。そこはまず、人々の身体が行き来する空間的な実践の場であります。さらにはそこに存在する建築物や通りは、設計図に現われるような整然とした表象図式(空間の表象)にもとづいて形作られています。そしてその場所でフリー・パーティーが開催されるとなると、そこには声と肉体の運動から放散される情動が書き込まれるあるヴァーチャルな場が現出するわけですが、それが表象の空間です。

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少し脱線します。しばらく前に「構造主義について考える」というシリーズ記事のようなものを書いていたのですが、その続きをずいぶん書けないでいました。それには明確な原因があります。少しはちゃんとアルチュセールを読もうと思ってパラパラと読み始めたら、しっかりとドツボにはまってしまったのです。いまどきアルチュセールをちゃんと読もうなんて人はあんまりいないと思いますが、しかし読んでみると相当に深く、いまもってまだまだアクチュアルなんですね。そして僕の見るところそのアクチュアリティーの一部は、「空間論的転回」なるものが提起している問題系と密接にかかわっています。

アルチュセールマルクスの読解を進めていく際、そこには二つの仮想敵が存在していました。一つはサルトルに代表されるような人間主義マルクス主義、もう一つは経済的下部構造による上部構造の決定を主張する教条的マルクス主義です。アルチュセール構造主義者のひとりに数えいれられているように、前者の人間主義マルクス主義に対しては、主体を構造による効果として捉えるという発想を通して対決されます。しかしかといってそこいわれる構造というものは、教条主義的なマルクス主義で言われるような下部構造のことではありません。というのも、ここにアルチュセールの革命が存するわけですが、アルチュセールは上部構造を構成する諸審級に「相対的自律性」認めるからです。「最終審級における」経済による決定という致命的なあいまいさを残しながらも、しかしこの点においてアルチュセールは決定的な一歩を踏み出したわけです。

アルチュセール以前に上部構造のなんらかの自律性を積極的に認めていく議論を展開したのはミハイル・バフチンとアントニオ・グラムシくらいでした(細かい萌芽的な諸形態についてはラクラウ/ムフの『ポストマルクス主義と政治』を参照)。

このアルチュセールの問題設定はあきらかに、「空間論的転回」の議論の文脈に明確につながるものです。つまりそこでは単一で均質な空間ではなく、多様な空間が交錯しあうトポロジックな空間が想定されているのです。市田良彦は次のように書いています。

構造を決定するのは何よりもその位相的性格であって、構成要素ではない。「構造化された全体」は諸要素の、語の強い意味における「空間的」配置として存在している。アルチュセールはしかし決して、この全体に固有の時間性を無視してはいない。その時間性を、諸審級からなる不均質な時間と名づけてもいいだろう。そこでは、ある審級の現在は他の審級の現在には還元されないし、全体はもはや自己現前する均質な時間をもたない。それでもやはり、『資本論』の不均質な時間は一つの「位相構造」、区間の位相的性格に由来する。諸審級にもろもろの時間を割り当てるのは、空間の役割なのである。
市田良彦ルイ・アルチュセールにおける時間と概念」(『現代思想』1998年12月,p.164)

社会という空間は、それぞれの審級が自律的に構成する独自の空間が交錯するトポロジックな場として理解されているわけです。

さらに、ここに見出されたそれぞれの空間性は、同時にそれぞれ独自に時間性をも有しているとされます。

われわれはそれぞれのレベルに、相対的に自律した、したがって他の諸レベルの「時間」に依存しつつ相対的にそれから独立した、固有の時間を割り当てなくてはならない。われわれは次のように言うべきであり、またそう言うことができる――それぞれの生産様式には、特有の仕方で刻まれた、生産諸力の発展の固有の時間と固有の歴史がある。政治的上部構造の固有の歴史がある。哲学の固有の時間と固有の歴史がある。美的生産の固有の時間と固有の歴史がある。科学的形成体の固有の時間と固有の歴史がある、等々。これらの固有の歴史のそれぞれは固有のリズムによって刻まれるし、それの歴史的時間性とその刻み方(連続的発展、革命、切断等々)の独自性の概念を規定したときにはじめて認識される。
ルイ・アルチュセール資本論を読む』中巻,p.70

相対的に自律した審級はそれぞれが独自のリズムを有しているとされるわけです。アルチュセールの問題設定というのは、おたがいに異質の諸審級が、独自のリズムにもとづいて展開していきながらトポロジックに交錯しているものとしての社会、というものを見据えているのです。

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ところで、ルフェーブルもまた空間とリズムとを結び付けて考えていたのでした。

空間の歴史は、「過程」か「構造」か、変化か不変性か、出来事か制度かといった二者択一を必要としない。さらに空間の歴史の時代区分は、一般的に受け入れられた時代区分とは異なっている。空間の歴史は、当然のごとく時間の歴史から切り離されるべきではない。ここ時間の歴史とは、時間一般に関するあらゆる哲学的理論とははっきりと区別された歴史である。空間の歴史を探究するための出発点は、自然空間の地理学的記述の中にではなく、むしろ自然のリズムの研究の中に、このリズムの変形の研究の中に、そしてこのリズムを人間の活動(とりわけ労働にかかわる活動)によって空間の中に組み入れる過程の研究の中に、見いだされるべきである。それゆえ空間の歴史の研究は、社会的実践によって変形させられた自然の空間的・時間的リズムから始まる。
アンリ・ルフェーブル『空間の生産』,p.187

これ以上あまりぐだぐだ書く必要はないと思いますが、ここでブルックリンの一角でなされたあのフリーパーティーに帰ってくるわけです。可塑性とは、カトリーヌ・マラブーの定義によれば「変形作用に抵抗しながら形に譲歩するもの」であり、またリズムの語源の「リュトモス」はエミール・バンヴェニストが明らかにしたように「かたちの形成運動」を意味します。

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世界は不均質な空間のトポロジックな絡み合いを通して構成されており、そこではそれぞれの空間はそれぞれの時間、それぞれのリズムを有し、ゆるやかに、時には性急に空間の可塑性にたえず新たな形を刻み込んでいっているわけです。ここにランシエールの議論を加味すれば、その「かたちの形成運動」が同時に政治的な運動でもあるということが見えてくるのですが、その件についてはまたそのうち書きます。