『ブロック・パーティー』と空間の可塑性

なんだか最近文章を書くのがどうにもめんどくさいので手短に。

エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリーが監督となり、アメリカの超過激コメディアン、ディヴィッド・シャペルが組織したブルックリンでの街の一角で開催されたフリー・パーティーの模様を撮影したドキュメンタリー映画、『ブロック・パーティー』を借りてきていまさっき見終わりました。

僕はラップのことはよくわからないのですが、それでもこの映画はものすごく素晴らしかった。

冒頭、エンジンのかからない車に難儀している黒人のおっちゃんのそばに、なんだかちょっと抜けた感じの男が通りかかり、その様子を見ながらいっしょにやきもきしている。そのなんともひょうきんな雰囲気がとてもいい感じなのですが、その抜けた感じの男というのがじつはデイヴィッド・シャペルで、その冒頭のほんわかした空気が、映画全体をつらぬく基調音となります。

ブルックリンの街の一角でどでかいフリー・パーティーを開くと決めて、自分が住んでいる街のひとびとに手渡しでチケットを配って回るシャペル。さらにはたまたま遭遇したマーチングバンドに、パーティーへの出演を依頼しもする。そのプロセスの楽しげな様子といったら。

パーティーに出演するメンバーは、よく知らないけどその筋ではすごいメンバーらしい。エリカ・バドゥとかフージーズは僕でも知ってる。カニエ・ウエストっていうのもどこかで名前を聞いたことある。とにかくものすごいメンバーで、そういった人たちを集めてたんなる街の一角でフリー・パーティーをするというのだからすごい。

マスコミにはまったく知らせず、シャペルは車をブルックリンに走らせながら拡声器を通して、そこの街角で土曜にパーティーをやるからみんな来てくれと知らせて回る。しかしネットを通してすぐに情報は広がり、当日にはアメリカ中から多くの人々がブルックリンに押し寄せる。「会場の場所?わからないけどブルックリンに来ればいいんだろ?」

少し前に大学の学園祭というものに行ったときにも思ったのだけど、空間というのは可塑的なもので、だからそこには手形だとか足跡だかとかを残すことができる。祭りの時間は終わってしまっても、日常に戻ったその空間の通りすがりに祭りの記憶がささやかにでも想起されるのならば、その空間にはやはりなんらかの個人的な足跡が残されている。これが空間の想像的可塑性だ。

「ここら一帯には音楽しかないからね。音楽のおかげで、危ないことからは遠ざかっていることができた。」くしくもシャペルと名前がそっくりな写真家、デイヴィッド・ラシャペルが監督した『RIZE』というダンスドキュメンタリー映画を思い出しますが、ブルックリンではラップは、若者の精神の一種の学校あるいは教会を構成しているようです。事実パーティーのラップでは、神の名がしきりに叫ばれる。カニエ・ウエストというラッパーのパフォーマンスには完全にやられました。

もう二年ほど前でしょうか、フランスの郊外で暴動が起こりました。そのころ、僕はたまたま大学のプリンターでプリントアウトをしようとしたとき、前の人のデータが残っていたようでそれも一緒にプリントアウトされてきました。それはフランス語の文章で、フランスの暴動について論じられていました。その主張は明快で、なによりも必要な対策は暴力的な弾圧なのではなく、自分たちが生きている空間を自分たちで作り上げ、そのことによってそこに愛着を持てるようなプロセスをつくることこそが重要である、というものでした。

空間というのはたんに物理的なものなのではなく、それは同時に想像的な可塑性というものも有しています。そしてシャペルによるフリー・パーティーの試みは、まさにその可塑性を舞台にして、そこに自分たちの証を刻み込もうとするものであると僕は思いました。ラップのリズムに乗せた声と体の動きを通して、一連の情動の連なりがあの可塑的な空間にひとつの出来事を刻み込んでいく。そのことによって空間は、たとえかつてはのっぺりとした疎遠さを示していたのだとしても、ある親密なまなざしを蓄えることになる。

そのパーティーは、そこで飛び交う言葉の表面だけをみればブラックナショナリズムに満たされているように見える。しかし実際にはけっしてそんなことはない。そのことにはシャペルのひょうきんな鷹揚さも資しているだろうけれども、そもそもそのパーティーの場所で起こっていることというのはシンボリックな統一性への同一化などではなくて、あの可塑的な空間への情動の刻印であるのだから、原理的に排他的なものとはなりえない。

かつての痕跡をあとからやってきた痕跡が無残にも打ち消してしまうということもおこる物理的な三次元空間に比べて、それぞれの個人の想像的な圏域を舞台とするあの可塑的な空間は、現実の空間を触媒としておたがいに交錯しあうことはあるとしても、お互いに打ち消しあうなんてことは起こらない。むしろその交錯を通して情動の増幅作用が生じるのだと思う。だって、そういうものでしょう?

この空間の可塑性の問題は、さきごろの高円寺での愉快な選挙騒ぎのときにも感じてちょっとまとまった文章を書こうと思っていたのですけど放棄していたのでした。そのうちちゃんと書くかもしれません。

とにかく、『ブロック・パーティー』、おすすめです。