弘田陽介『近代の擬態/擬態の近代』

近代の擬態/擬態の近代―カントというテクスト・身体・人間

近代の擬態/擬態の近代―カントというテクスト・身体・人間

● 最近読んだお勧め本の時間がないから簡略感想シリーズその一

カントを当時のコミュニケーション空間の性格との関係から読み直す、というきわめて野心的な本。読書革命によって生み出された際限のない反省的読書空間という歴史的場のなかにカントの議論を置き、一方で『純粋理性批判』と『実践理性批判』という二つの理性批判を超越論的人間像に依拠してのそのコミュニケーション空間に対する応答として、他方で晩年の『人間学』を経験的人間像に依拠してのそのコミュニケーション空間に対する応答して捉え、そのカントの両義性にフーコーによって「超越的=経験的二重体」と呼ばれた近代的人間像の体現を見るという議論の流れは、全体的にかなり乱暴な論理が展開されるにせよ全体的には説得的に感じられました。『言葉と物』でのフーコーによるエピステーメーの区分は、それぞれのエピステーメーの断絶を生み出した動因については触れないわけですが、この弘田陽介氏の議論では、明らかにメディア環境の変化がその動因として暗黙のうちに見出されている、という点も非常に興味深いところでした。キットラーの名前は注でちらっと挙げられるだけですが、フーコーからキットラーのラインがつよく想定されているんだろうなあと思いました。

フーコーによる近代のエピステーメーの位置づけに依拠して、そこからカントを読んでいく、というのが『近代の擬態/擬態の近代』の前半だとすると、後半部は『判断力批判』のなかにそういった近代的人間像を越え出る部分を読み取る、という作業になっていますが、こちらはちょっとどうなんだろう、と思いました。『純粋理性批判』と『実践理性批判』ではそれぞれ悟性と理性とが超越論的な準拠先として見出され、『人間学』では具体的身体が経験的な準拠先が見出されるのだとして、弘田氏の見るところでは、『判断力批判』ではそういった準拠が不可能ななんとも「定義不可能な何ものか=美」が議論の対象になっている、という位置づけのようです。ただ、その「定義不可能な何か=美」そしてそういった「定義不可能な何ものか=美」に対する弘田氏の態度が分裂している、という風に思えました。一方では、そういった「定義不可能な何ものか=美」について論じられるということの必然性を当時のコミュニケーション空間の性格のなかに位置づけながら、他方ではその「定義不可能な何ものか=美」を近代的人間像を越え出る、あるいはそこから逃走する契機としてロマンチックに称揚する、という二つの態度が見られるわけです。普通に考えれば、そういった「定義不可能なもの」を希求するといったポジションそのものが、近代的人間像を生み出した反省的なコミュニケーション空間によって生み出されたものであり、いってみればそもそも近代的人間像と原理的にカップリングされているものでしかありません。弘田氏はまさにそのような分析も行ないながら、同時にそのロマンチックなものを近代的人間像を越える「何か」として実体化しようとしてしまう、という印象を受けました。そういうロマンチックを実体化する発想に対しては、たとえば「定義不可能なもの=愛」をコミュニケーションツールとすることで展開するロマンチック・ラブについて、ニクラス・ルーマンの議論に依拠して論じている高橋徹氏の『意味の歴史社会学』が解毒剤になる気がします。まあここで扱われているロマンチック・ラブは17世紀が舞台なので、「カントの近代」とはすこし時代がずれますが。また、『近代の擬態/擬態の近代』での議論の流れから言えば、そこでの『判断力批判』の性格を、北田暁大氏によるような見方でのドイツ・ロマン主義(たとえば『インターコミュニケーション』での連載)との連続性で捉えることが有益であるように思います。いずれにせよ、ロマンの実体化はダメです。しかし、そういったところと、ところどころに乱暴な議論や、あとはちょっとバランスの悪いように思える現代思想の文脈への参照を斜めに読んでいけば、きわめて面白い本だと思いました。たしか著者の弘田陽介氏は74年生まれ。三十台前半の人が書いたカント本が出版される、というのは、なんだかすごいことのように思います。とにかく、僕はこの弘田氏がこれからどういう議論をしていくか、注目したいと思っています。

思ったより長くなってしまった・・・