ラカン、ソシュール、デリダ

この文章の目的は、ジャック・ラカンジャック・デリダの思想的関係を、あいだにソシュールを挟むことでちょっと考察してみよう、というものです。それに際して、ジョアン・コプチェクの『わたしの欲望を読みなさい』の三章「切り刻むこと」における議論を参照します。目論まれているのはごくごくささやかなことで、両者を鮮やかに架橋してみせようなどという大それたことではなく、両者の争点の違いと、またその違いを考える際に避けることのできないであろう課題とをわずかにでも浮き彫りにしようとすることだけが目指されます。ちなみにラカンデリダに関しては、中野昌宏氏の『貨幣と精神』についての感想を書いた際にも少し触れました。(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060413#p1参照)。はい、ここまでが枕。

● シニフィアンと恣意性

ソシュールと言えば、言語を差異の体系として捉えなおした人、ということがよく言われます。ここで重要なのは二点。
1、物理的な音の特徴である音韻と区別して、意味的な分節を担うものとしてのシニフィアンに焦点を当てたこと。
→ここにシニフィアンというキーワードが出てきます。
2、シニフィアンにおける分節には実体的な根拠はないと主張したこと。
→ここに恣意性というキーワードが出てきます。
こうして言語的な意味というものが、シニフィアンの恣意的な戯れの効果として生み出されるシニフィエとして捉え直されるわけです。シニフィアンのあいだのもろもろの差異が、それを通して指し示される現実をさまざまに分節していく、というモデルです。

● 「時間モデル」

ところで、意味の実体など存在せず可能であるのはシニフィアンの戯れのみである、という主張は原理的な困難を呼び込むことになります。コプチェクは次のように語っています。

弁別的な語あるいはシニフィアンは、別のシニフィアンを参照することによってのみ意味を獲得するのだが、この別のシニフィアンが意味を獲得するには、また別のシニフィアンを参照しなければならず・・・というように、このプロセスはどこまでも続いていき、意味が決定される瞬間は際限なく延期される。(『わたしの欲望を読みなさい』p83,84)

とすると、シニフィアンの戯れという発想を文字通りに受け取るならば、あるシニフィアンの意味は永遠に決定されえず、それゆえそもそも意味など存在しえない、という結論に至ってしまいそうです。とりあえず、このような無限背進に行きついてしまうシニフィアンの戯れのモデルを「時間的モデル」と呼ぶことにします。

● 「空間モデル」

結局ソシュールはこの「時間モデル」にともなう困難を解決するために、ある時点におけるシニフィアンの静態的なネットワークを取り出すことになります。これがいわゆる「差異の体系」というやつです。

すなわち、ソシュールは一時的に、意味を受け取る瞬間だけに意味作用の示唆的な戯れを認めたのだ。そのとき、〔言語という〕体系の際限なく続く通時態は括弧に入れられ、共時的な閉域が重要性を持たされた。つまり、あるシニフィアンは、意味を与えてくれる後続のシニフィアンをもはや待たずして、同時的に存在する別のシニフィアンから価値を受け取ることになったのである。シニフィアンは、相互的に、同時的にお互い〔の意味〕を決定すると見なされ、過去と未来、時間性と変化は、シニフィアンの体系から切り捨てられていったのである。(同上,p84)

時間という契機を切り捨てることでここに取り出された共時的な「差異の体系」を、「空間モデル」と呼ぶことにします。

● ラカンソシュール

この「空間モデル」が、レヴィ=ストロースをはじめとする構造主義の発想の根源にあることは言うまでもないことですが、ラカンデリダも、どちらもシニフィアンの「時間モデル」から出発する、という点では共通していると思います。ただし、その出発点がそれぞれどこに向かっていくのか、という点では大きく異なる。まずはラカン。コプチェクはラカンによるありうべきソシュール批判というものを取り出しているのですが、それは、「時間モデル」が有する原理的困難を克服することを放棄し、安易に「時間モデル」を採用してしまった点に向けられることになります。その批判から出発してラカンが行なうのは、シニフィアンの「時間モデル」から出発しながら、いかにしてそれが実際に意味を生み出すことができるのか、というそのメカニズムを、人間の意識の構造に定位して分析していくことになるのだと思います。その具体的な分析の内容には立ち入りませんが、結論だけを大雑把に述べると、去勢とそれによってもたらされる大文字の他者によって、シニフィアンシニフィエに固定される、ということになるのだと思います。

● デリダソシュール

周知のようにデリダは『グラマトロジーについて』においてソシュールの批判を行なっているわけですが、そこでのソシュール批判は、ラカンにおける(コプチェクによって取り出された)ソシュール批判とはまったく方向性が異なっています。そこで(直接に)批判されているのは「空間モデル」ではなく、シニフィアンを声の隠喩へと還元してしまっているという点においてです。そしてデリダはそこで還元されてしまっているものを「エクリチュール」と呼びます。「エクリチュール」とはなんらかの媒体に書き込まれたものであり、それゆえ痕跡を残すものです。そのような痕跡への迂回の手前においてシニフィアンを捉えようとしたという点において、デリダソシュールを批判するわけです。

シニフィアン〉の外在性はエクリチュール一般の外在性であって、われわれはもっと先で、エクリチュール以前には言語記号は存在しないということを示そうと思う。この外在性なしには、記号の観念そのものが崩壊してしまう。(『グラマトロジーについて』上 p37)

この痕跡への外在化という契機は、同時に時間性という契機も不可避に持ち込むものではありますが、しかし痕跡の問題系は、たんに時間の問題へは還元できないものです。デリダソシュール批判は、痕跡という次元の強調を通してなされるわけです。

● 現実性の効果

ソシュールは現実というものをシニフィアンの戯れの効果としながら、そこに生じる無限背進という困難を解決できず、「空間モデル」に帰着しました。その「空間モデル」の批判という点では、実はラカンデリダも一致している。片やラカンは「時間モデル」から出発して現実性が効果として生み出されるその道筋を分析する。片やデリダは記号がつねに痕跡へと迂回することを示す。しかしこのように述べると、デリダは明らかに説明すべきことを説明していないことがわかります。つまり、記号がつねに痕跡へと迂回し、そのことによって「空間モデル」は不可避に破綻せざるをえず、そこには時間的契機が必ず持ち込まれているのだとしても、そこでは、にもかかわらず実際に「現実性の効果」が生まれている、という事態がまったく説明されていないからです。コプチェクがデリダに向ける批判もここに関わっているのですが、その批判は完全に正当なものであると僕も思います。差延の働きがつねに作動しているのだとしても、その主張が同時に、紛れもなく生じている「現実性の効果」をも説明できないのであれば、明らかに片手落ちです。そして実際デリダは、それについての説明を正面から試みてはいないように思います。潜在的には読む摂ることができると思いますが。いわゆる「デリダ派」というような人たちは、この批判、差延はいかにして「現実性の効果」を生み出すのかという批判を避けることはできない、と僕は考えています。

● 痕跡の問いの可能性

ただしその一方で、デリダは「現実性の効果」を説明できず、ラカンはそれを説明できているからラカンに軍配が上がる、とはならないと思います。ラカン派がデリダ派を(こんな争いがあるとしてですが)本当に乗り越えたのだと標榜するならば、デリダが痕跡という概念を通して提示しているものを取り込んでいる、あるいはそれに正当な位置を与える(その概念は自分たちの議論のなかではここに位置しますよという風に)があると思います。しかし僕のみるところでは、おおよそラカン派というような人々が、痕跡という概念の射程を理解しているとは到底思えず、それゆえそこにまだ考察しなければならない課題が存在するということそのものに気付いていない気がします。それが具体的にどのような課題なのか、ということはこの文章では触れません。ここではたんに、「痕跡」という言葉を通して問題の所在をほのかに指し示すだけに留めたいと思います。

● まとめ

はい、まとめです。デリダ派は、「現実性の効果」が実際に生じていると言うその「事実性」から出発してそれを説明しようとする努力をしなければならない。ラカン派は、痕跡という概念のもつ問題圏を理解しそれを自身の理論の中にとりこんでいかなければならない。と、ここで二つの「義務」を示したわけですが、これは、ラカンデリダを架橋する、という大それたことを考えている人のみに課せられるものである、と僕が個人的に考えているものでしかありません、ということを付け加えておきます。ちなみに僕は、ベルナール・スティグレールの議論が、その二つの「義務」に正面から取り組み、かなりのところまでそれを解決しつつある、と考えています。