構造主義について考える2

前回(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070425#p1)のつづきです。

前回はごくごくおおざっぱに、構造主義のメインモチーフを「人間の乗り越え」に見出しながら、しかし構造主義そのものと「人間の乗り越え」のモチーフとの間にはズレが存在し、そのことが構造主義という思潮そのもののただなかにさまざまなひずみを生み出しているのではないか、そしてそのひずみを考えることはなんだかんだと興味深いのではないか、ということを書いたのでした。

今回はほんのちょっとだけ引用を入れることにしますが、構造主義が「人間の乗り越え」というモチーフと結びついているということについては、たとえばジャン=マリ・ブノワが次のように書いています。

意味を与え、意味作用の尽きることなき源泉であった人間は、相互的に生産される記号を接合し、記号の意味生産を取り捌く差異的で構造的で記号的な関係の前で、次第に姿を消していった。記号に取り囲まれている人間は、《語る》ものであると同じ程度に《語られる》ものであることが判明してきた。問題系の在りかも狙いも、すべてが変わってしまっていたのである。(『構造革命』)

「人間の乗り越え」というと、やはり『言葉と物』の末尾で人間の終焉を予言したフーコーが思い浮かぶわけですが、そのフーコー構造主義インパクトについて次のように語っています。

断絶の時点は、レヴィ=ストロースが社会について、ラカンが無意識について、意味とはおそらく一種の表面の効果、きらめき、泡立ちにすぎないということを示してくれた日に遡ります。つまり、われわれを深くつらぬいているもの、われわれが前にしているもの、時間と空間のなかでわれわれを支えているもの、それは体系である、というわけです。(1996年5月のLa quinzaine litt?raire誌に掲載されたインタビュー)

さて、構造主義と「人間の乗り越え」の間のズレ、ということでしたが、この問いは僕にとっては、「フーコーはいかにして構造主義者であり構造主義者ではないのか?」という問いに一番集約される気がします。構造主義にとってフーコーというのはとても特異な立場に立っていると思います。ある時期までフーコーは紛れもなく構造主義者の主要人物だと見なされていましたし、フーコー自身も「構造」という言葉をしばしばポジティブに使っていました。すくなくとも1969年の『知の考古学』あたりまでは、構造主義的な語彙というものを積極的に採用していたように思えます。

しかしその一方でフーコーは、ポスト構造主義者の主要人物の一人であるとも目されていますし、そこに異議を挟む人は少ないでしょう。しかもフーコーは、ある時期まで構造主義者でありある時期からポスト構造主義になった(たとえばバルトの場合にはそのような言い方もあるいは可能かもしれません)、というわけではありません。紛れもない構造主義的著作と見られた『言葉と物』の末尾の人間の終焉の宣言が、そのまま同時にポスト構造主義的なエートスに結びつくものとして理解されているのです。つまり、フーコー構造主義者であった時からつねにすでにポスト構造主義者でもあった、と、このように言えるかもしれません。

フーコーのこの奇妙なステータスはどこに由来するのか。それがつまり、「人間の乗り越え」と構造主義とのズレである、というのがさしあたりの僕の理解なのですが、ただし事情はもう少し複雑である気がします。まずもっとも単純な見方として、構造主義が勃興しそして隆盛を極めた時代にあっては、「人間の乗り越え」を標榜する思想は十把ひとからげで構造主義に数えられてしまっており、フーコーもまた本来は構造主義者とは言えないにも関わらず構造主義にカテゴライズされていたのだ、というのがあります。この見方にも一分の真理はあるかもしれませんが、しかしそれほど深い見方とは言えないでしょう。

フーコー構造主義という思潮に結びつけていたキーワードに、エピステーメーというものがあるでしょう。ある時代はそこにおける知の枠組みをなすエピステーメーというもののなかにあり、それぞれの人間の、いっけん独自のものに見える主張も、実際はそのエピステーメーの効果でしかない、というわけです。ここにははっきりと構造主義的な発想を見てとることができます。ただしフーコーの場合、そのエピステーメーはある歴史的区分として考えられており、そこで見てとられているのは普遍的な構造というようなものではありません。だから、たとえばグレマスのような原理主義的な構造主義者は、フーコーの議論は断じて構造主義などではないと主張したのでした。

だとすれば、歴史的構造主義と非歴史的構造主義が存在するのか、というとそんな単純なものではないでしょう。しかしその辺を解きほぐしていくのは今の僕には荷が重いので華麗にスルーするとして、とりあえずフーコーもまた『知の考古学』においてある種の歴史性の無視という批判に対して応答している、ということを喚起しておきます。フーコーを批判する際にフーコーがそれを無視しているとされる歴史性というのは、おそらくある出来事の絶対的固有性とでも言うべきものでしょう。フーコーはそれぞれの出来事の固有性を、その出来事をあらしめた「歴史的アプリオリ」なるものに還元してしまう、というのがその批判の骨子だと思われます。

フーコーは個別の出来事というものに歴史のエージェントを見ることはせず、より大きな枠組みの規定性を重視した、ということはさしあたり言えると思います。このように見れば、やはりフーコー構造主義者と見なすことは正当であるように思えてきます。それでは結局のところ、構造主義の歴史におけるフーコーの位置をどのように理解すればいいのか。そのためには、構造主義の出発点である言語/記号の問題に立ち返るのがいいかと思われます。構造というもののいわばエレメントをなす言語/記号とそこに見出される差異の体系というものを一つの準拠点として見なして考えてみるならば、やはりフーコーの議論は決定的に構造主義の枠からはみ出ている、ということが見えてくるように思います。

その理由は、また次回。