さっき駅のキオスクで、「小泉劇場の終焉」というような夕刊紙の煽り文句を読みました。
例の、千葉補選での民主党の勝利についてでしょう。

ただ、僕はそもそも「小泉劇場」という言葉が胡散臭くて嫌いで、その胡散臭さは「小泉劇場の終焉」という文言に現れています。先の選挙での自民党圧勝の結果が、「政治の劇場化」の証として論じられていましたが、それについてはそのとおりだと思います。

「政治の劇場化」というのは僕の理解では、選挙を巡る予期/参照の構造変化です。前回の選挙での公約がどうであり、それに対して四年間の間でどのように振舞ってきたのかということを参照し、それとあわせて現時点での公約などを踏まえた上でどの政党が政権をとればどのような結果をもたらすかを予期する、というのがひとつの理念的な選挙の形態であるとすれば、「劇場化」した政治においてはそのような中期から長期のスパンをもった予期/参照の構造が崩壊し、その時点でのさまざまな(郵政改革、新しい小沢一郎)物語が必要とする限りでの記憶のみが参照され、それのみを踏まえて予期も行われる、という「短期記憶」のみをもちいた予期/参照構造が主流になります。このような「短期記憶」の参照のみでは、選挙の時点でうまく物語を構築しメディアを選挙することが中心軸になり、建設的な公約を立てそれを時間をかけて達成していくという方向性が評価されるようなサンクションが機能しなくなります。

とまあ、そのような「政治の劇場化」が起こっており、それをうまく利用したのが小泉自民党である、という点にはまったく同意です。が、「政治の劇場化」とはそもそも構造的なものであり、小泉純一郎あるいはその周辺がそこだけで作り上げたものではありません。小泉周辺はすでに生じていた構造の変化をうまく利用しただけであるわけです。にもかかわらず、「政治の劇場化」と小泉純一郎という固有名詞を短絡して、あたかも「政治の劇場化」が小泉首相一人によってもたらされたものである可能に語り、それを要約的に「小泉劇場」と語る傾向が見られますが、これはよくない。これでは小泉憎しという主観的な思いを表現しているだけで、どうかんがえても一部の人間には還元できない全体的な構造を見逃すことになるからです。

今回の民主党の勝利にあわせて言われる「小泉劇場の終焉」という言葉には、まさにその誤謬のにおいがぷんぷんします。小泉自民憎しのルサンチマンが原動力にある場合、「小泉劇場」の変わりに「小沢劇場」になっただけではないのか、という可能性は目に入りません。しかし、普通に考えれば、一人で政治を「劇場化」した小泉純一郎に代わって、一人で政治をほかのやり方で作り上げる小沢一郎が登場した、なんてことはどう考えてもありえないわけですが、それに気づかない人が多すぎる。実際には、「政治の劇場化」という構造自体は長い時間をかけて緩やかに形成されてきて、それが小泉純一郎という触媒を通して一気に顕在化し、こんどは役者がもしかしたら小沢一郎(あるいはポスト小泉)に変わる変わらないか、という段階にあるわけです。

とまあ、冷静に構造全体を見る必要がある、ということを言いたかっただけです。