構造主義について考える3

構造主義について考える1(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070425#p1)
構造主義について考える2(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070426#p1)

前回の末尾で、フーコー構造主義との関係を考える際には、言語/記号というものの位置に注意を向けるのがいいのではないか、ということを書きました。今回はその理由を書いていこうと思うます。

ところで、構造主義という思潮は、人文科学という言葉と強く結びついています。おそらく構造主義の流れについてまとめたもっとも浩瀚な書物であるフランソワ・ドッスの『構造主義の歴史』の訳者あとがきで、訳者が「人文科学」という言葉の系譜について説明していましたが、構造主義というのは、いわゆる人文知といわれる領域に科学性を確立しようとした運動である、という性格ももっています。のちにソーカルとブリクモンに批判されることになりますが、構造主義者が数式や論理式を多用する理由というのもそこにあります。

人文知と言われる領域は、いわゆる科学的な知とはながらく区別されてきましたし、いまでもそういう区別はひろく通用していることと思います。その区別は、それぞれの知が扱うとされる対象の性格に由来します。科学が厳密な検証に耐える対象のみをみずからの対象と選ぶのに対して、人文知がその対象とするのは「人間的なもの」というなんとも曖昧なもので、たとえば文学研究なんかがその代表格でしょう。

文学研究がなされる際に動員される手法というのは、科学的な検証ではなく解釈です。そしてその解釈という営為を支えるのが、作品を裏付けているとされる作者の存在、さらにいえば作者の内面です。つまりそこには「人間」が存在し、その真正な「人間性」にアクセスするための手段が解釈である、というわけです。

いうまでもなく文学研究は、構造主義の流れの主要な戦場でした。日本でもおそらく構造主義うんぬんとしていた人の大部分は文学畑の人々だったのではないでしょうか。構造主義の基本モチーフとは「人間の乗り越え」である、ということは繰り返し述べましたが、このモチーフは文学研究という領域においてはとりわけスキャンダラスであるでしょう。そのモチーフは、「作者」に到達するための解釈という手法を正面から棄却するのです。

それでは作者の不在において構造主義は何をするのか。むろん、作品の構造分析です。構造分析は、作品を裏付ける作者の精神ではなく、作品がそこから生み出されているところの基本的なマトリックスのようなものを取り出していきます。そしてそのとき持ち出されるのが、言語学あるいは記号学であるわけです。つまり構造分析が取り出そうとするマトリックスというのは言語/記号に内在する論理であるわけです。構造主義の父祖の一人であるヤコブソンが、もともとはロシアフォルマリズムという文学的潮流のなかから出てきたというのは興味深いですし、詳しくは知りませんが、そのヤコブソンとレヴィ=ストロースという構造主義の中核をなす二人が共同で行なったボードレールの詩「猫」についての分析などは、まさに言語/記号の次元に照準しての、作者なき構造の分析を体現しているのではないでしょうか。

現実世界は無限に多様だけれど、それを生み出す基本的なマトリックスは有限であり、そのマトリックスを組み立てているのが言語/記号である、という発想を構造主義の中核をなすものとして捉えても、それほどまとをはずしていないように思います。無限に多様な現実世界を捉えようとすれば、そのそれぞれの多様性にあわせた言葉を紡ぎだしていく必要があります。とすると、そこには科学的厳密さなどというものは期待しようがありません。しかし、その多様な現実世界が、実は有限なマトリックスによって組み立てられた現象でしかないとするならば、そこには科学的厳密さの可能性が開けます。現実そのものではなく、その現実をつくりだしているマトリックスの方に焦点を当てればいいわけです。

さて、科学性への指向というのは、構造主義を明確につらぬいているエートスだと思うのですが(その辺はカルナップ、シュリック、ノイラートらの論理実証主義とも通じるところかもしれません。ドミニク・ルクール『ポパーウィトゲンシュタイン』参照)、それではフーコーはどうだったのか。その点でいえば、フーコーは明らかにこのエートスを共有してはいませんでした。たとえばフーコーは『知の考古学』の「結論」で、チョムスキー生成文法の問題意識と自身の考古学の問題意識を比較くしながら次のように述べています。

大量の言われた事柄のなかで、言語〈運用〉の実現の機能として規定された言表に接近することによって、その計画は、言語〈能力〉を特権的領野としてもつ探求からはなれる。つまり、このような記述が、緒言表の受容性を明確化するために生産的モデルを構成するのに対して、考古学は、それらの実現の諸条件を明確化するために、編成の諸規則を確立しようと試みる。

言語〈能力〉というのが人間に生得的に具わった能力であり、それがいってみれば言語というものの基本的なマトリックスをなすのに対し、言語〈運用〉というのは社会の中で実際に実現する言表に関わるものです。ここには一見すると、現実の無限な多様性とそれを生み出す基本的なマトリックスとの対比が存在するように見えますが、実際には違います。

構造主義におけるマトリックスとそれによって生み出される現象の対比でいえば、言語〈能力〉というマトリックスの現象として見出されるのは言語(ランガージュ)であり、それ自体もパロールを可能とするヴァーチャルな枠組みでしかありません。しかしフーコーが相手にしようとしている言表というのは、社会的文脈のなかで実際に具体化した言葉のことです。言語は、それが有限の規則に基づいているのだとしても、権利上はほぼ無限の言葉のパターンを生み出すことができます。そして実際、現実世界のなかで実現しているそれぞれの言葉を見れば、それらが例外なく言語の基本的なマトリックスによって構成されていることが見出されます。フーコーはそのことを認めた上で、自分の関心をもっているのはそこではない、と述べます。フーコーのキーワードの一つに「希少性」というものがありますが、権利上は無限の言表が可能であるはずなのに、実際に実現している言表はけっして無限のものではなく、その無限の潜在的な言表の海からすればごくごくささやかな一部でしかありません。つまり、実現している言表はつねに希少であるわけです。とするとそこには、ある言表が実現し、他の言表が実現しなかったというその理由が存在するはずですが、言語〈能力〉あるいはその発現としての言語(ランガージュ)をどれだけ凝視しても、その理由が見えてくることはありません。そしてその理由をこそ見出そうとするのがフーコーであり、そのとき見出されるのがたとえば「言説の規則」というものであるわけです。

構造主義がヴァーチャルなマトリックスに目を向けるのに対し、フーコーは実際に実現しているもの、アクチュアル化されているものに目を向ける。ここに、構造主義的なエートスフーコーの姿勢とを明確に切り離す要素がある気がします。そして僕はここに見られるフーコー構造主義に対する種差性を、「書き込み」という言葉で焦点化したいと思います。つまり、フーコーの議論は現実の中への「書き込み」を前提としているのに対し、構造主義においては知られるべきことはその「書き込み」以前に見出される、という対比を行なう、ということです。むろん、構造主義においても基本マトリックスは現実世界に現象として姿をあらわすわけで、その限りではそこにも一種の「書き込み」が見出されるわけですが、しかしそこでは「書き込み」にともなって出来事が起こるわけではありません。構造主義的なモデルにおいて出来事は、たんに基本マトリックスの組み合わせのあり方としてしか生じえないからです。それに対してフーコーにおいては、言表はそれ自体が出来事である、つまりそれは「言表ー出来事」であると言われます。それゆえ、その言表についてヴァーチャルな言語や記号といった次元を参照して分析することはできません。

かなり乱暴な書き方かもしれませんが、とりあえず僕はフーコーに見られる「書き込み」という契機に、構造主義の枠組みを明確に越える契機を見出します。ただ、この点については、ハーバーマスアルチュセールデリダなどに触れながらも繰り返し立ち戻ってこようと思いますし、また「書き込み」の内部にも二つの水準を見いだす必要がすぐに出てきます。

とりあえず今回はこんなところで。