ジョバンニは富士ヶ丘高校演劇部の夢を見たか

5月24日の日曜日夜8時頃、ももいろクローバーZ主演の舞台版『幕が上がる』が最後の公演を終えた。2012年出版の平田オリザの原作小説を元に、映画、舞台へと展開されていった『幕が上がる』プロジェクトがひとまずの終わりを迎えたわけだ。このブログでは以前、平田オリザの原作小説については感想を書いたことがあった(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20141214#p1)。そこでは、『幕が上がる』という小説が、青春物語というジャンルのなかでどのような異質性を有しているのかということについて論じた。

映画版『幕が上がる』は、青春物語という点では明らかに小説版とは異質であった。スクリーンに最終的に映し出されたのは、信頼し信奉してもいた吉岡先生の一方的な辞職という喪失に遭遇しながら、それでも力強く前に歩みを進める青春の圧倒的な輝きであった。結果として、少女たちが喪失という出来事そのものにどのように向き合い、どうそれを乗り越えていったのかというプロセスはほとんど描かれることなく、ももクロのメンバー(とりわけリーダーの百田夏菜子)が体現する得体の知れないリアリティが、その瞬間にしか起こりえない何かという青春性を一気に説得しきってしまった。これはおそらくまったく平田オリザ的ではない何事かであり、青春映画がももクロという稀代のアイドルに出会うことで起こりえた、一種のミラクルであっただろう。

さて、では舞台版『幕が上がる』がどうかというと、平田オリザ自身が台本を手がけたこの作品は、きわめて平田オリザ的な作品だというほかない。というよりも、映画版『幕が上がる』を踏まえ、そこで生み出された達成をも飲み込むことで、平田オリザが自身の処女小説『幕が上がる』を取り返したのではないかという印象さえ受ける。舞台版の台本では、映画版の脚本を手がけた喜安浩平が新たに持ち込んだ台詞が、繰り返し捉え返されている。ここに、二人の脚本家同士のある種の緊張感溢れる角逐を見たい欲望にも駆られるが、そこに踏み込むことはしないでおく。いずれにせよ舞台版『幕が上がる』が、まったくもって非オリザ的であった映画版を踏まえたその上で、再びオリザ的な焦点を結んでいるということがここでは重要である。

以上の前置きを踏まえて舞台版『幕が上がる』について書いていこうと思うのだが、ただしこの記事で扱うのは、作品全体の大枠が見定めているテーマ設定についてのみだ。したがって、個々の俳優やその演技についてはほとんど言及しないし、細部の演出についても同様である。全体のテーマ解釈にかかわる演出については多少触れるかもしれないが、しかしこの記事が照準を当てるのは作品の骨組みとなっているもっとも大きな枠組みの部分なので、やはり台本そのものがもっている構造が議論の中心になっていく。
※結局「分析」は途中で頓挫し、最後はカオスなことになっていますが、「わからなさ」の経験のドキュメントとしてカオスのままにしてあります。ご容赦ください。

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■ 青春、祝祭、死
青春とは人生における祝祭だ、と仮に宣言してみる。すると、祝祭には必ず終わりがあるわけで、青春という祝祭の終わりとは、すなわち大人になることだろうという推論がつづく。そしてもう一つ付け加えるならば、祝祭を終わらせるには象徴的な死という犠牲が要求される。この図式の普遍性は、祝祭としての青春を描いた映画作品の数々が証明している。たとえばジョン・トラボルタ主演の『サタデーナイトフィーバー』。ディスコでのフィーバー=祝祭を終わらせたのは、少しばかりやり過ぎて橋から転落した友人の死だった。たとえば相米慎二監督の『台風クラブ』。台風という祝祭の通過後に残されたのは、校舎から転落し頭から地面に刺さった少年の墓標だった。まずはこの基本的な図式を覚えておこう。

翻って『幕が上がる』はどうか。なにせ「都市に祝祭はいらない」と言い放った平田オリザである。オリザが描く青春は祝祭としてのそれではないはずだ、というのが当然の想定であり、事実、小説版ではあまりに淡々とした、ミクロな成長のプロセスが描き出されていったのだった。しかし映画版では少し事情が異なる。それはおそらく、演技経験がほとんどないアイドルももクロが主演したということに由来する。というのも彼女たちにとって、映画撮影は初めて経験する一種の祝祭であり、そしてその出来事の一回性にともなうリアリティが、フィクションの世界のなかにはっきりと刻印されるとともに、そのことが作品そのものの魅力と切り離しえなくなっていたからだ。

で、舞台である。舞台版もまた、小説版が描く日常性からは逸脱しているように見える。ただしそれは演者によるものだけではなく、平田オリザ自身による脚本に内在するものだ。舞台版の脚本には、「震災」という、日常性の対極ともいえる出来事が書き込まれているのだ。そして舞台版で新たに導入されたこの「震災」というテーマと深く結びつく形で、作品全体のテーマ的焦点も大きく変貌を遂げている。その震源地は、劇中劇「銀河鉄道の夜」である。

■ 「銀河鉄道の夜」の変容
小説版さらには映画版でも、「銀河鉄道の夜」は「孤独」をめぐる作品として位置づけられていた。そこではカンパネルラの「死」は、中心的テーマとしての「孤独」の背景に退いていた。しかし舞台版では、「震災」という具体的かつ生々しい出来事と結びつけられることによって、「死」そのものが前景化している。そして、誰もがそう感じるように、「震災」やそれに結びついた「死」は、日常からは最もかけ離れたものであるはずだ。さらに作品内の「銀河鉄道の夜」は、そのテーマ性においてだけでなく、形式面においてもまったく新たな性質を付与されている。舞台版『幕が上がる』では、「銀河鉄道の夜」はたんなる劇中劇というステータスを明らかに超え出て、『幕が上がる』という作品そのものの枠組みと半ば融け合ってしまっているのだ。

舞台版『幕が上がる』には、0場という、芝居が始まる前の時間というものが用意されているのだが、しかし、いつどの瞬間にこの0場から本編に移行したのか、観客には正確にはわからない。そしてここで重要なのは、0場から本編の移行の瞬間には、すでに「銀河鉄道の夜」の台詞が読み上げられているということだ。つまり、『幕が上がる』という劇がまず始まり、そのなかのどこかに劇中劇としての「銀河鉄道の夜」が挿入されるという構成にはなっておらず、『幕が上がる』と「銀河鉄道の夜」は、言ってみれば同時に始まっている。あるいはもしかすると、「銀河鉄道の夜」の台詞の朗読が0場ですでに始まっていることを踏まえるならば、劇中劇たる「銀河鉄道の夜」は、『幕が上がる』本編よりも前に始まっている、とさえ解釈することができるかもしれないのだ。

オープニングだけではない。『幕が上がる』のラストにおいても、「銀河鉄道の夜」の終わりと『幕が上がる』の終わりはほとんど融け合っている。『幕が上がる』の謎をはらんだラストシーンを解釈する際には、この事実を考慮に入れる必要があるだろう。この記事の最後でも、「銀河鉄道の夜」がたんなる劇中劇ではなく、『幕が上がる』という作品全体の枠組みというなっているという事実から部分的に出発した、一つの解釈を提示したいと思う。

■ 『幕が上がる』における「震災」と「死」
舞台版で一気に前景化させられることとなった「死」というテーマ。問題は、そこで「死」として名指されているものの内実だ。『幕が上がる』が扱っているのは、どのようなタイプの「死」であるのか。この点について考えるには、当然ながら、この「死」というテーマを前景化させた中心的な要素である「震災」というものが作品内でどのように位置づけられているかについて考察する必要がある。

劇中で、転校生の中西さんが岩手県出身だということが明らかになる。この事実と、カンパネルラの台詞を言えなくなったという出来事を組み合わせることで必然的に予想されるのは、中西さんには「震災」にまつわる個人的なトラウマがある、という可能性だ。実際劇中でもさおりが、「誰か亡くなったのかな、家族とか」とつぶやいている。しかしこの予想は、カラオケ屋での中西さんの独白によって裏切られることになる。

中西さんが語ったのは、個人的なトラウマとしての身近な誰かの死ではなく、より一般的な生と死の問題だった。「なぜ他の誰かが亡くなり、なぜ自分は生きているのか」という、生きていることの「偶有性」。この偶有性とは、見方を変えれば、「今は死んでしまった誰かが生きていて、代わりに自分が死んでしまっている」というパラレルワールドについての想像力だ。自分は死んでいたかもしれない。でも実際は生きている。そしてそれは「たまたま」である。中西さんにとって「震災」は、個人的なトラウマに結びついたものではなく、この生の「偶有性」を圧倒的なリアリティをもって体験したそのきっかけであった。

この「震災」の位置づけられ方は、平田オリザ作品として『幕が上がる』を捉えるとき大きな意味を持つ。中西さんは「震災」というきっかけによって生の「偶有性」に深く揺さぶられることになったが、しかしこの「偶有性」そのものはけっして特定の瞬間にしか現われない特権的なものではない。日常のあらゆる瞬間において、生はつねにすでに偶有的である。いつ交通事故に遭うか、深刻な病に見舞われるか、そんなことは誰にも分からない。潜在的な死は日常のそこかしこに散らばっているのだけれど、それらは普段は目に見えない、というだけのことなのだ。つまり生の「偶有性」というテーマは、死というものを日常とは明確に区別される非日常の側に置くのではなくて、いわば日常のただなかに位置づける。死は非日常にあるのではなく、日常に対する眼差しの解像度を上げればそこに見つかるものであるのだ。

「震災」という一見すると非日常の極限だと思われる出来事を扱うに際して、平田オリザはそれを日常のただなかに置く。このことによって死は、遠くの特別な出来事としてではなく、誰の傍らにも存在しているものとなる。この選択は間違いなく、『幕が上がる』という作品にとってきわめて必然的な帰結であるだろう。小説版から一貫して、『幕が上がる』は「普通の」高校生を描いてきた。もし中西さんが震災によって特別なトラウマを受けた人物として描かれてしまったら、言葉の選び方が難しいが、彼女は他の高校生とは区別される「特別な」誰かになってしまっただろう。そしてそのときには、『幕が上がる』における「孤独」というテーマの位置取りも根本的に変容してしまう。なぜならそこでは「孤独」は、「特別な」体験によって聖別されてしまった中西さんだけの「孤独」になってしまうからだ。しかし平田オリザはそのような「孤独」を選ばなかった。

■ 誰でもがカンパネルラである
『幕が上がる』がその眼差しを向けるのは、青春を過ごす若者たちの誰もがもつ一般的な「孤独」だ。「孤独」なのは中西さんだけではない。さおりだってユッコだってガルルだって明美ちゃんだって、さらには吉岡先生だって「孤独」なのだ。でも、そのことはみんなが単に「離ればなれ」であることを意味するわけではない。最終的には誰もが孤独であり一つにはなれないけれど、でも「離ればなれ」でもない。それらはいわば寄り添い合う「孤独」であり、そこに青春の力強さとまた同時に覚悟の深さが現われる。

『幕が上がる』で描かれる「死」が「特別な」ものではなく、またそこに結びつく「孤独」もまた一般的な孤独であるということ、この事実は、劇中劇「銀河鉄道の夜」におけるカンパネルラという人物がもつ意味に直結してくる。カンパネルラを演じるのは中西さんだ。では、カンパネルラを演じることができるのは中西さんだけだろうか。中西さんは、カンパネルラを演じるべき特権的な存在だろうか。もしも中西さんがトラウマをもつ存在として描かれており、そしてカンパネルラを演じることでそのトラウマを乗り越える、という物語構成になっていたとしたら、カンパネルラを演じるのは中西さん以外あり得ない。またその延長線上で、カンパネルラと中西さんとのオーバーラップを極限にまで押し進め、カンパネルラと同様、中西さんもまた死んでいたのではないかという解釈の余地も生まれるかもしれない。

しかし実際の『幕が上がる』では、中西さんは特別な存在ではなく「普通の」高校生の一人であり、だから彼女に取り憑く苦悩もまた、彼女一人だけのものではない。このことを具体的な演出としてこれ以上なく明確に示しているのが、「台詞渡し」である。演劇部の練習の一環として行われるこの「台詞渡し」では、役柄に関係なく、誰かの台詞を別の部員が次々と引き継いでいく。そのパフォーマンスはそれそのものとして身体レベルで迫力をもって観客に迫ってくるけれど、それと同時にこの「台詞渡し」は、カンパネルラという存在が作品内で持つ意味を鮮やかに示してくれるという役割も果たしている。

「台詞渡し」では、誰もがすべての役柄を演じていく。これはカンパネルラだけでなく、そのほかのすべての役柄においてそうなのだけれど、そのなかでも、誰でもがカンパネルラを演じることができるということがとりわけ重要だ。というのも、カンパネルラの「死」と「孤独」とが、特定の誰かに結びついたものではなく、みなに等しく結びつけられたものであるということがそこで示されるからだ。そのことを強調するかのように、部長のさおりは中西さん不在の「台詞渡し」の稽古のなかで、「みんな、誰でもカンパネルラになれる」とつぶやいている。

中西さんが「震災」を通して直面した「死」の問題、「自分が死んでいたっておかしくはない」という偶有性の感覚、これは中西さんだけの「孤独」ではない。「みんな、ちょっとだけカンパネルラだもん」というさおりの台詞に対するガルルの「みんなちょっとずつ死んでるってこと?」という反応はおそらく核心を衝いている。『幕が上がる』では「死」は、どこか遠くで起こった非日常の出来事ではなく、誰でもがあらかじめ分け持ってしまっている何事かであるのだ。だから誰もがカンパネルラを演じられるのだ。

ここまで書いたところで、急に何を書いていいのかわからなくなってしまった。いや、実際には色々と書いたのだけれど、なぜかどこにもたどり着かずに結局は消してしまった。キーボードを打つ指が固まったまま何日か経ち、色々と考えた結果、自分はまだ、自分なりのものとしてでさえ舞台版『幕が上がる』の答えにたどり着けていないのだと理解した。だから書けない。当然のことだ。もう少し詳しく書くと、作品内の個々の要素や、それらがどうつながっているかについてはそれなりに整理できたと考えているのだけれど、ではそうやって組み立てられた全体がどこにたどり着いているのか、というところがまだぜんぜんわかっていないのだ。

だから方針を転換して、ひとまとまりの「感想」や「分析」を書くことはここで放棄し、この記事の残りでは、むしろどこで止まってしまったのかというその地点を指し示すことを目指すことにする。もしかしたら誰かが、欠けていた秘密のスコップを持ってきて、その地点で何か宝物を掘り起こしてくれないとも限らない。

■ 『幕が上がる』の基本シンタックスとわけのわからなさ
「死」、「震災」、「カンパネルラ」、これらは作品を構成する基本的要素のうち、とくに重要であるとみなしたものだ。構成要素の整理のつぎに求められるのは、それらの要素の組み立てである。作品全体のシンタックスが、どのように各要素を結び合わせ、一つの物語へと結実されているのかというそのロジックを整理する必要がある。ただしこのシンタックスの核は、それほど複雑なものではない。

物語の中心にあるのは、自分たちのもとを去って行ってしまった吉岡先生の喪失であり、またその喪失をいかにして乗り越えていけるか、というプロセスである。そしてこの「喪失の克服」というプロセスが、「大人になる」という成長のプロセスに重ね合わされる。これが舞台版『幕が上がる』の背骨となっているという点については異論はないだろう。

次に問われるのは、この物語的プロセスを達成するための手段であるが、これも明確だ。すなわち、「銀河鉄道の夜」である。劇中、部員たちはかなりの時間をかけて「銀河鉄道の夜」を演じつづける。この「銀河鉄道の夜」の稽古を通してその解釈を深めていくプロセスは、物語の構造内においては、「喪失の克服」のプロセスであり、「銀河鉄道の夜」を理解する難しさは、「喪失の克服」の難しさそのものである。少なくとも、『幕が上がる』内での物語的機能としてはそのように位置づけられている。

では、「喪失の克服」の手段としての「銀河鉄道の夜」の難しさを乗り越えていくためのポイントはどこか。これも、中西さんという存在によってはっきりと示されている。すなわち、「死」というものとどのように向かい合いうるのか。そしてこの問題設定は、「カンパネルラの父」という存在によってより明確化されている。なぜカンパネルラの父は、息子カンパネルラの死をたった45分という短い時間で受け入れることができたのか。『幕が上がる』ではこの「謎」が、「大人になること」という観点で位置づけられている。さおり自身の言葉を思い起こしておこう。

そう・・・大人になるって、たぶん、そういうことなんだよ・・・それは、いいことばかりじゃないけど、でも、人のために何かをしたりとか、そういうことは大人じゃなきゃできないでしょ

ここに、「銀河鉄道の夜」に向き合うことでさおりたちがたどり着いた新しい地点が示されているはずなのだ。ただ、それが「震災」という要素によってとりわけ前景化された「死」というものとどういう関係にあるのかはけっして明確ではなく、いくらでも解釈が分かれるところだろう。

さて、問題はここからである。上に挙げた台詞を含むたった三つの連続するさおりの台詞によって、吉岡先生の喪失という出来事に対する物語内での解決が一気に果たされる。ガルルとゆっこの相づちの台詞を省いて、上に挙げたものにつづく二つの台詞を以下に引用する。

私もはっきりとは分からない・・・大人になるのがいいことかも分からない・・・でも私たちは、どうしても大人になっていく。ずっと、ここにはいられない。

私は、吉岡先生を許さない。でもね、私は先生を憎まない、恨まない・・・私たちは、こんなところで、止まってるわけにはいかないから、

この前者の台詞は、カンパネルラの父をめぐる「大人になること」の問題系と、吉岡先生の喪失という問題系を接続する役割を果たしていると思われる。それを踏まえた上で吉岡先生の名前が挙げられるわけだけれど、これはいかにも唐突に思えてならない。そしてこの唐突さが、自分にとってのわからなさのほぼすべてであるのではないか、と現時点では考えている。「死」を受け入れること、他人のために何かをすること、大人になること、これらのことが、どのような通路を経て吉岡先生を「許さないけど憎まない、恨まない」という結論につながるのかが、どうしてもわからない。実際には仮説的に考えていることはいくつかあるけれど、それはまだどうしても文章にはならないということがはっきりとわかったので、ここではこの分からない地点を指し示すことにとどめておく。

■ ラストの中西さんと「ありえたかもしれない世界」
現実なのか空想なのか、時間軸がどうなっているのか、誰がどのステータスで登場しているのかがきわめて両義的なラストシーン、これについても、物語そのもののシンタックスがどこに辿り着いているのか理解できていないのだから、確定的なことが言えるはずもない。でもあのラストシーンは、舞台を観終わった後には個人的にとても腑に落ちていたのだった。この記事ではこれ以上ちゃんとしたことを書くのは諦めて、自分が受けた印象だけを備忘録的につづるにとどめておく。

中西さん不在での稽古の後半、舞台が暗くなり上部から星空の照明が降りてくる。このとき僕は、もう現実の部室には帰って来ないで、それまでの時間の流れや脈絡も全部無視して、「銀河鉄道の夜」の世界のまま舞台が終わって欲しいと咄嗟に思った。そして、まさにそのような形で舞台が終わった、と感じた。実際には中西さんが制服姿であったり、さおりが舞台上にいたり、最後に抱きしめ合ったりという場面があったかもしれない。しかし僕は、そこでも現実の世界に戻ってきたという印象は受けなかった。それは同時に、物語の内容という点でも、現実世界に帰ってくる必要はないはずだと考えていたからだと思う。

もしラストで戻ってきたのが現実の中西さんで、彼女が自分のなかの何かを乗り越え部員たちの元に帰ってきたのだとすると、カンパネルラの物語は中西さんだけの物語になってしまう。でもすでに書いてきたように、カンパネルラの物語は同時に全員の物語でなければならない、と僕は感じていた。『幕が上がる』は、中西さん個人が、彼女だけの問題を克服する物語であってはならないのだ。でもあそこで中西さんは、カンパネルラの衣装ではなく制服を着ていた。もしそこで中西さんがカンパネルラの衣装を着ていたのだとすれば、あれは中西さん個人ではなく、同時にみんなでもあるカンパネルラそのものなのだ、という解釈も成立したかもしれない。しかし実際には中西さんは制服を着ている。それでも僕は、あれは自分自身の苦悩を乗り越えた中西さんなのではなく、みんなが程度の差はあれ同じように持っている苦悩を体現している中西さんなのだと思う。これにはあまり論理的な説明を付け加えられないけれど、直感的にそう思うのだ。

そしてそのことと関連して、最後にきわめて乱暴な仮説を置き石のように放り投げて去って行くことにする。自分が『幕が上がる』のラストから受けた印象を事後的に振り返ってみると、僕は舞台版『幕が上がる』をつぎのようなものとして理解したのだという気がしてならない。ラストシーンでの「銀河鉄道の夜」の稽古の中、照明が落とされ空から銀河が降ってくる。そこでゆっこ演じるジョバンニが目を覚ます。しかし実際にはそこでは、ジョバンニが富士ヶ丘高校演劇部の夢から覚めたのではないか。そしてさらに、カンパネルラが制服を着ていること、さおりが舞台上にいること、彼女らと最後に抱き合うこと、これらは、夢の中の登場人物がジョバンニが目覚めた後の世界に現われたということなのではないか。もちろん相当な飛躍であり、このような解釈が正当化される余地が微塵でもあるかどうかさえ疑わしいけれど、自分自身が作品から受けた印象を後から再構成するときに取り出されるのは、なぜかこのような作品であるのだ。

もう少しだけ加えると、劇中で繰り返される「銀河鉄道の夜」の重要な台詞、「私たちは一つですか、それとも離ればなれですか?」は、人と人との関係として理解するのではなく、一つの世界ともう一つのあり得た世界との関係として理解するべきなのではないのか。カンパネルラが死んでしまった世界とカンパネルラが生きていたかもしれない世界、震災が起こった世界と震災が起こらなかった世界、吉岡先生が去って行った世界と吉岡先生と一緒に全国を目指せていたかもしれない世界、これらの世界は「一つですか、それとも離ればなれですか?」。

世界はひとつしかない、ように見える。いや実際そうだろう。でも想像力は、つねに「あり得たかもしれない世界」をこの現実世界のうちに保持する。そしてそのことによって現実を少しばかり膨らませる。この現実は、あり得たかもしれない世界の墓場だ。その墓地の中心に、実際の現実という一本の道が延びている。幾多の墓石に取り囲まれて。さおりたちにとっては、その墓石のひとつに、吉岡先生と一緒に全国を目指していたかもしれない世界の名前が刻まれている。

さおりたちの青春には、ひとつの大きな墓標が立った。吉岡先生とともに歩めたかもしれない青春という墓標が。このありえたかもしれない世界を、さおりたちは最後に抱きしめる。死んでしまったカンパネルラを抱きしめるように。死んで行ってしまった人たち、生きていたかもしれなかった人たち、喪われていった可能性、一緒に進んで行けたかもしれない人々、これらはすべて、「あり得たかもしれない世界」だ。これらのパラレルワールドを、たんに忘れるのでもなく、モニュメントの向こうに遠ざけるのでもなく、そっと抱きしめる。それは、今生きているこのひとつ限りの世界の肯定ということを超えて、潜在的には、あり得たかもしれないすべての世界の肯定だ。

舞台版『幕が上がる』で描かれているのは、一つの望ましい世界を選び取る青春ではない。「銀河鉄道の夜」が、友達の死を受け入れるために宇宙さえも一周してしまう物語なのだとすれば、舞台版『幕が上がる』は、吉岡先生と一種に進んで行けたかもしれない世界の喪失を受け入れるために、すべてのありえた世界を一周してそれらをまるごと肯定する青春の旅路であったのではないか。一つの世界が現実化されるその裏側で、実現したかもしれなかったそして実際には実現しなかったすべての現実を踏破する、裏返された青春のドキュメントであったのではないか。

さおりたちはジョバンニの夢を見、ジョバンニはさおりたちの夢を見る。一つでも離ればなれでもない、しかし互いに引きつけ合う二つのまったく異なる世界。そこに現われる孤独と優しさと力強さに、僕は思わずくしゃみをしたはずなのだ。