先日の射水市民病院での「事件」で「尊厳死」(まだなんとも言えないところですが)についていくらか言われていますが、報道のされ方にちょっと違和感を覚えました。

射水市民病院の院長の会見のあるきわめて重要な点において、伝えられ方が新聞によってまったく違っていました。それは、今回の「尊厳死」を違法だと思うかというような文脈において院長が「倫理」という言葉に触れた場面です。

「事件でなく倫理の問題ととらえている」
と伝えているのが中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060326/mng_____sya_____003.shtml

一方、読売と朝日はこう。
「倫理上問題があると判断」
http://www.asahi.com/national/update/0325/TKY200603250147.html
「倫理上問題がある」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060325it15.htm

前者の中日新聞と、後者の朝日・読売とでの報じられ方の違いは決定的です。前者では、今回の問題が刑法で取り上げられる問題ではなく、倫理の問題として判断されなければならないということを言っているだけですが、後者においては「問題がある」という形ですでに倫理上の否定的な判断を下しています。この違いが何を表しているのかと言うと、つまりこういうことです。

尊厳死」に関して「倫理的に問題がある」と述べる場合にはつねに、末期の患者を激甚な苦痛のただ中でスパゲッティ状態にしてやみくもに延命させることには「倫理的に問題がある」のかどうかも同時に問わなくてはなりません。この両者がセットになって始めて、「尊厳死」は「倫理上の問題」として究極的にはほとんど決定不可能な困難な問いとなります。つまり、問題があるかどうかということで言えば、どちらを選んでも問題はあるわけです。その不可能な重さを耐えるのが「問い」というものです。しかし、上での朝日や読売の「倫理的に問題がある」というベクトルには、スパゲッティ状態に対する問いかけが完全に欠落しています。こういう傲慢さが、僕はどうにも嫌いです。

ただ、そもそも院長はどのようにいっていたのか、という問題があります。僕は会見そのものを見ていたわけではありませんが、探していたら比較的に会見を逐語的に載せている記事がありました。

山陽新聞です。
http://www.sanyo.oni.co.jp/newspack/20060325/20060325010085641.html
これによると、件のやり取りはこうなっています。

 −院長は延命措置中止を違法と考えるか。

 「倫理的道義的な問題だと思う」

最初から決めつけて聞いていれば別ですが、素直に読めば、ここでは倫理的な判断はくだされていないでしょう。つまり、患者に死を与えるのかそれとも苦痛のなかで延命を続けるのかという困難な問いは開かれているわけです。もちろん、医者としての職業倫理という点から言えば、ある程度蓋然的な結論が導かれるのかもしれませんが、やはりここで問題になるのは何より一般的な倫理そのものでしょう。実際の会見が本当のところどのような言葉で語られたのかはよくわかりませんが、まあ朝日、読売にはもう触れないにしても、自分個人としては安易な断罪で安息したくはないです。

ホテル・ルワンダ』の時も感じましたが、困難な問いが目の前にあるときには、それをごまかしうる無意識の手管というものもつねに同時に現れるような気がします。『ホテル・ルワンダ』で言えば、ポール・ルセサバギナ氏をヒーローとして捉えることであったりするだろうし、今回で言えば「倫理上問題がある」や、さらには具体的な手続き論がそれに当たるのでしょう。むろん、今回のようなケースでは手続き論についてしっかり考えておくことは絶対に必要ですが、それに併せて、ひとつの出来事が差し向けてくる問いの本当の重さの所在と、無意識のうちにそれをごまかそうとする自分の心性の所在とをちゃんと把握しておく必要があるなあ、まあ朝日/読売の記事を見て思った次第でした。