平田オリザ『幕が上がる』――青春物語の向こう側について(ほぼ非ネタバレ)

 現代日本を代表する演劇人平田オリザが執筆した小説『幕が上がる』。高校演劇を題材とした青春物語として2012年に出版されたこの作品が、ももいろクローバーZ主演での映画化によって、再び脚光を浴びている。おそらく一般的にはこの『幕が上がる』は、『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』のようないわゆる「青春モノ」の一つとして認知されるだろう。もちろん、高校演劇に取り組むことを通して成長していく高校生たちを描くこの『幕が上がる』が、「青春モノ」の系譜に属する作品であることは間違いない。しかしこの作品は、あるきわめて巧妙な仕掛けを施すことによって、通常の「青春物語」の枠組みを突き抜けてしまっている。「突き抜ける」という言葉がここで意味しているのは、異端的な変化球が投げられているのではなく、王道を進み尽くしたその果てで、「青春物語」そのものの可能性を次のステージにまで押し上げてしまっている、ということだ。この記事では、この一点について説明していく。

(なおこの記事では、物語を構成する要素の配置というメタなレベルで議論をするので、原則としてはほぼネタバレなしになるはずです。ただし断片的な部分、とくに作品内で大きな役割を果たす宮沢賢治の作品の少し引用がされるので、厳密にネタバレ回避したい方は読まない方がいいかもしれません)

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■ 青春あるいは光の物語
 青春モノには基本的な図式がある。
a) ごく普通の少年少女が主人公となる
b) ぼんやりとした夢や目標があるが、その達成方法がわからない
c) 援助者が現われ、少年少女に方法と技術を授ける
d) 夢や目標に向かって確固として歩み始める、という成長がゴールとなる

しかし上記に挙げられた要素の多くは、プロップの物語論を援用するまでもなく、物語そのものの一般的な構成要素である。そのなかで、青春モノに固有の要素として見いだされるのは、a)の「ごく普通の少年少女が主人公」という点である。そしてここにこそ、青春モノというジャンルが有する普遍性がある。すなわち、ほぼほとんどの人々(大人)がかつては「ごく普通の少年少女」であったという点で、青春モノには特権的な情動喚起力が備わっているのだ。
 とはいえ、誰もが「ごく普通の少年少女」であったのだとしても、青春モノのなかで描かれるような輝かしい努力と友情と達成の経験を誰もが持っている、というわけではない。となると青春モノが有する普遍性には必然的に大きな制限が課せられると思われるかも知れない。つまり、青春時代にそうした輝かしい思い出をもたない人々は、青春モノの物語は「自分の物語」にはなりえず、その分だけ普遍性は損なわれるはずだと。しかし実はここにこそ、青春モノというジャンルが持つ魔法の力がある。たとえ青春モノで描かれるような物語の等価物を自分のなかになかったとしても、いやむしろ持っていなければなお一層、人々は青春モノに感情移入することができるのだ。それはなぜか。
 それは青春モノが、人びとの「自分のものであったかもしれない青春」という想像力に強く働きかけるジャンルであるからだ。この「青春」という言葉を「可能性」という言葉に置き換えてもいいだろう。青春時代に限らず、「あのときもう少し頑張れていれば」、「あのときもしも一緒に頑張ってくれている仲間がいれば」といったくすぶった想いは、どんな人の胸の内にも眠っている。「自分のものであったかもしれない(そして現実には自分が逃してしまった)可能性」は、澱のように時の流れのなかで沈淪していき、一種のメランコリーをともなって人びとの精神を年取らせていく。青春モノは、こうした取り逃された可能性をめぐるメランコリーに対する浄化効果を発揮することで、おっさんおばさんたちの心を揺さぶるのだ。もちろん若者たちには、「自分のものにもできるかもしれない可能性」という形で、カンフル剤のように作用するだろう。
 だから青春モノの主人公たちは、少なくともその導入部分では、脆く危くそして心許なく、ちょっとした巡り合わせや特別な出会いさえなければ、そのままなにも為し遂げずに青春を終えていってしまう、そういう存在として描かれなければならない。どんな困難でも自分で乗り越えていってしまうような主人公であれば、そこに描き出されるのは、「そもそも自分のものではない可能性」でしかない。自分は結局なにも為し遂げられていないのだから。放っておけば自分のように何も為し遂げられなかったかもしれない少年少女たちが、自分とは異なりある巡り合わせと出会いを得ることによって、その危うい精神に潜ませていた可能性を花開かせていく、そのプロセスを目の当たりにすることで、おっさんおばさんたちは、胸の底に沈殿している「自分のものであったかもしれない可能性」を救済することができるのだ。
 これが青春モノというジャンルが一般に持つ、強烈な情動喚起力の根本であると考える。


■ 偶然あるいはつきまとう影
 「青春モノは、花開かなかった可能性を救済してくれる」、このテーゼが仮に正しかったとして、しかし、そこには根本的な批判がつきまとう。すなわち、「それは結局その場限りの癒やしではないのか」、「自分自身の弱さや限界と向き合う代わりに、口当たりのいい物語を代償行為として消費しているだけではないのか」。おそらく、この批判は真実を突いていると思う。まったく人に優しくない批判だし、僕自身は誰かに対してこんなことを絶対に言ったりはしないが(自分に対しては言うかも知れないけど)、真実はそもそも人に優しいものではない。
 この人に優しくない批判の射程は、たんに物語や娯楽の消費という文脈に限定されるものではない。たとえば子供を育てるという行為。自分自身の夢や目標を諦めた大人が、その代わりに、子供の可能性を最大限に生かしてあげるため、労働で自分をすり減らす。こんなことは世の中にありふれている。たとえば僕の父親は明らかにそう考えていた節があり、だから僕はかなり好き勝手に自分のしたいことを追求することができた。かなりの年になるまでそのありがたみにまったく気づかないままその贈り物を享受してきた自分が、父親の選択を否定することはできない。それにそもそも、父親が自分の選択をほんのちょっとでも後悔しているかどうか、僕は知らない。それでも父親の選択に、「逃避」とまではいかなくても、ほんのちょっとでも「目を逸らした」という部分がなかったかどうか、僕は最近とくに考える。そこにはきっと、数日後には自分も父親になっている、という個人的な要因も働いているだろう。
 青春モノは、ごく普通の少年少女たちが、仲間とあるいは指導者との幸運な出会いを通して、成長し、自分の可能性をしっかりと自分の手でつかんでいく光を描く物語だ。しかし本当は、光の裏には影がある。素晴らしい仲間にも理解ある指導者にも出会えず、自分の可能性をどうしたら形にできるのかがわからないまま、結局何事も為し遂げえず、ぼんやりとした後悔と燻りを抱えて大人になっていく多くの「ぼくら」がいる。「自分のものであったかもしれない可能性」をつかむことができた主人公たちのような光の「ぼくら」の裏には、その数十倍、数百倍もの影の「ぼくら」がいる。この光と影を分けるのは、「偶然」でしかない。なぜならどちらも元々は「ごく普通の少年少女」なのだから。実際、高校演劇の世界では、優秀な指導者がくればすぐにその高校は全国クラスにまで引き上げられるという。これはどの部活動においてもある程度はそうだろう。そして「ぼくら」が優秀な指導者と出会うかどうか、これはかなりの部分、偶然の産物だ。つまり、ある「ぼくら」は偶然光をつかみ、別の「ぼくら」は偶然そうはならない。ただそれだけのことなのだ。
 物語はほとんどの場合、偶然を必然であるかのように描く。そして、その偶然が生じなかった場合、という可能性を突き詰めることはしない。光はあたかも必然的にもたらされたかのように見える。そして偶然という名の幸運をつかめなかった影の「ぼくら」は、端的に描かれない。それはこの影の「ぼくら」が、自分の見たくないものを突きつけかねない存在だからだ。青春モノは、輝かしい光によって影を消し去ってしまう。そのことが観る者に癒やしを与えてくれるのだけれど・・・。

 以上は、いわゆる青春モノに関する一般論だ。しかし平田オリザの『幕が上がる』は、実はこの青春モノの一般的な図式には収まらない。というのもそこには、ある巧妙な仕掛けによって、青春の影の部分がしっかりと書き込まれているとともに、この影に対する応答までもが組み込まれているからだ。青春モノがもつポテンシャル、すなわち「自分のものであったかもしれない可能性」をめぐる救済力はそのままに保持しながらも、『幕が上がる』は光によって影を消し去ることをしない。それだけではなく、青春の光と影とがどのように和解されるべきかという、正解ではないにしても、すくなくとも示唆を差し出すところまでは確実に行っている。この点で僕は、『幕が上がる』は青春モノを突き抜けていると評価する。そしてこの「突き抜け」を可能としているのが、演劇という題材である。先取り的に少し踏み込んでおくならば、青春物語という光のなかに、劇中劇という形で宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」(「夜」!)を組み入れることによって、青春という舞台上での光と影の本質的対話とでも呼ぶべきものが、そこでは上演されているのである。


■ 「銀河鉄道の夜」あるいは光としての夜
 部活動を素材とする青春物語のクライマックスを構成するのは、主人公たちが一緒に作り上げた成果が提示される場面である。『ウォーターボーイズ』であればシンクロの演技、『スウィングガールズ』であれば吹奏楽の演奏、そして演劇を素材とする『幕が上がる』では、当然ながら芝居の上演がそれにあたる。ただしこうした青春物語の構造という点で、演劇という素材は、その他の素材とは本質的に異なっている。というのも、演劇はそれ自身が物語であり、それゆえ必然的に演劇部を素材とする青春物語は、物語内物語、あるいは劇中劇という構造をとることになるからだ。通常の青春物語であれば、クライマックスとなる成果の発表場面は、作品全体の物語のなかで、主人公たちが困難に打ち勝ってなにかを為し遂げるという物語の構成要素の一つであるにすぎないのに対し、『幕が上がる』においては、その構成要素そのものが物語を構成することになる。つまり、物語とその一要素という関係だけでなく、そこには、二つの物語同士の関係性、というものがどうしても発生せざるをえないのだ。
 『幕が上がる』のなかで演劇部の部員たちが上演する作品として選んだのは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」である。ここでもちろん問われるべきなのは、『幕が上がる』全体の物語と、賢治の「銀河鉄道の夜」とはどのような関係にあるのか、という点だ。ところで、ここまでに述べてきた青春モノの基本構成、すなわち「ごく普通の少年少女」が、ちょっとした巡り合わせと出会いによって、努力し成長していくとによって可能性をつかんでいく、という光の物語と、そこで排除される影という構成を思い起こすと、「銀河鉄道の夜」の物語が、青春モノの図式をいわば裏返したものであることに気づくことができる。というのも「銀河鉄道の夜」が描くのはカンパネルラという少年の死、すなわち、前途に広がるはずの無限の可能性の消滅という事態だからだ。カンパネルラだけではない。主人公のジョバンニだって、家が貧しいせいで働きながら学校に通わなければならず、授業中も眠たく終業後も遊びに行くことができない。つまりジョバンニもまた、生活によってその可能性を早々にすり減らし始めてしまっている少年であるのだ。
 少年という、可能性の塊であるはずの存在が、すでに可能性を失ってしまった、あるいは失い始めてしまっている。このようなきわめて暗鬱な背景を従えながら、しかし周知のように、賢治が描き出す「銀河鉄道」の世界は極めて美しい。そのコントラストが読む者の胸を打つのだけれど、そこに観られる美しさの正体を、光を描く青春物語との関係性という観点から捉え直すとき、そこには一つの仮説が浮かび上がってくる。それは、銀河鉄道の美しさとは、失われてしまった可能性そのものの美しさである、というものだ。
 たとえば。銀河鉄道に乗るジョバンニとカンパネルラと、鳥の狩りを生業とする赤ひげの人との間でつぎのようなやりとりがある。

「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまでも行きますぜ。

また、『幕が上がる』での劇中劇でも重要な役割を果たす次の箇所。車掌さんがジョバンニとカンパネルラの検札にやってくる場面。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえも行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまでも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。

ここで描かれているのは、いうまでもなく「可能性」である。しかしそれはどんな可能性か。カンパネルラは、このときにはすでに川で溺れてしまっている。すこしこじつけかもしれないけれど、こうは考えられないか。死の直前には、人生の記憶が走馬燈のようにめぐるという。ではまだそれほどの人生の蓄積のない子供の場合にはどうなるのか。そのときには、過去を呼び戻す走馬燈の代わりに、「この先に生きることができたかもしれなかった未来の可能性」を見るのではないか。少年は、まだ何にだってなることができる。その「何にだって」が逆回しの走馬燈のように眼前を通り過ぎていく、これが銀河鉄道の光景なのではないか。青春モノが過去の「自分が生きることのできなかった可能性」との関係を作るのであるとしたら、「銀河鉄道の夜」は、少年から見た将来の「自分が生きることができなくなった可能性」を描き出しているのではないか。
 これはもちろんかなり自由な仮説だけれど、しかし平田オリザ自身が『幕が上がる』のなかで、この「可能性」をめぐる問題に意識的であったことは間違いない。オリザは『幕が上がる』の後半のきわめて重要な場面で、宮沢賢治の「告別」という詩をを登場させている。

この詩の前半部分を引用する。

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管くわんとをとった
けれどもちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
(全文はhttp://why.kenji.ne.jp/haruto2/384kokubetu.html:こちらを参照)

ここには、少年(少女)が手にしている無限の可能性に対する希望と、その可能性が途上で萎んでいってしまうことへの圧倒的な恐怖とがはっきりと表現されている。つまりオリザは、青春にともなう希望やその可能性を青春物語として描き出す一方で、その裏側にある、可能性の摩耗という影の側面にもはっきりと意識を向けている。そして宮沢賢治という名は、青春の光からその影の側面へと通り抜けるための、秘密の通路となっている、というのがここでの仮説である。
 青春モノというジャンルに身を置きつつ演劇という素材を選ぶことで、そこに劇中劇という構造を導入する。そしてその劇中劇として宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を選ぶことで、たんに光が影を消し去ってしまう青春物語という構図ではなく、青春という舞台において光と影とが正面から対峙するという構図をオリザは創り出した、これがこの記事の中心仮説である。
 

■ 光と影の和解あるいは止揚された青春
 光と影との対峙、しかしこれはあくまでも物語構成の整理によって導かれる仮説であり、ここにはまだ、ある重要な点が欠けている。それは、この光と影との対峙、実現した可能性と自分のものにはならなかった可能性との対峙という構図を創り出した上で、最終的にその対峙をどのような出口へと導いているのか、という物語的解決についての考察である。ただしあらかじめ述べておくと、この記事ではこの点については詳述しない。というのもこの説明を行うためには、たんに物語の構造を整理するだけではなく、その内容や細部に踏み込まなければならなくなるからだ。この点については、2月末に映画公開がなされたあと、ネタバレの心配がなくなった時点でもしかしたら書くかもしれない。
 とはいえこれだけでは締まらないので、上記の物語的解決の問題が、作品内のどこの部分に集約されるはずであるのかという物語構造に関する基本的な指摘と、また論証を省略した結論だけを最後に記すことにする。
 『幕が上がる』のクライマックスは、劇中劇としての「銀河鉄道の夜」の上演場面である。ただしこの物語における役割として、劇中劇の上演という要素は、たんにうまく演技をできたかどうかというパラメータで価値が計られるものではない。というのも、『幕が上がる』の主人公である演劇部の部長は演出家であり、その成果は、部員たちによる演技だけではなく、この部長による演出、すなわち「銀河鉄道の夜」という作品をどう解釈したのかという点によって、成否が分かたれるからだ。すなわちこの劇中劇の上演の部分は、『幕が上がる』という光の青春物語が、「銀河鉄道の夜」という影の物語をどう解釈するのかが現われる部分であり、ここにこそ、オリザが仕組んだ青春という舞台における光と影との対峙の結果が現われるのだ。
 その対峙の結果については各自に確認、解釈をゆだねるとして、最後に、最終的な結論だけを述べる。『幕が上がる』は光の物語というしての青春モノというジャンルに、その影と正面から対峙させるという新たな課題を持ち込んだ。そしてその試みは成功している、と僕は考える。この点において、『幕が上がる』は青春モノを明らかに次のステージに進め、より根源的な問い、「可能性」というものに対するより根源的な対峙の仕方を提示している。ぜひ、一人でも多くの人にこのマスターピースを読んでいただきたいと考える所以である。


■ 補遺
 ちなみにこの『幕が上がる』についての論は、その全体を通じて、実はももクロ論とも読み替えうると個人的に考えている。『幕が上がる』をももクロ主演で映画化することのインパクトはそれゆえ圧倒的であるはずだ、という主張を本当の結語にしてこの記事を閉じる。

幕が上がる (講談社文庫)

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