「アーキテクチャ」と「プラットフォーム」――コミュニケーション的接触についての考察

書こうと思っているテーマがいくつかありながら、わかりやすく書くのが難しくうっちゃっているうちに、ずいぶん間隔が空いてしまいました。今回は「プラットフォーム」という言葉をめぐってちょっと書いてみようと思っているのですが、このテーマについても、以前から何か書きたいと思っていたのでした。書けば書けそうという感覚は少し前から芽生えていて、なんとなく機が熟したような気がするので、書いてみることにします。

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「プラットフォーム」という言葉についてはずいぶん前から繰り返し語られて来ているかと思うのですが、ここでそのキーワードとともに焦点を当てたいと思っている問題をわかりやすくするために、「アーキテクチャ」という概念との対比をまずは考えてみるのがいいかと思います。ローレンス・レッシグの『CODE』に端を発する意味での「アーキテクチャ」という言葉は、「技術的に管理された物理的インフラ」というようなことを意味しているかと思います。日本という文脈では、東浩紀の「情報管理型権力」というキーワードや濱野智史の『アーキテクチャの生態系』という書物が、そのような意味での「アーキテクチャ」に端を発する議論として思い起こされます。

濱野氏の『アーキテクチャの生態系』はいま手許になく、また読んだのもかなり前なのでおぼろげな記憶での話になってしまうのですが、この本のなかでは、「アーキテクチャ」と「プラットフォーム」とが基本的には同じようなものとして理解されていたような印象があります。より包括的な物理的インフラ(アーキテクチャ=プラットフォーム)を生態環境として、より下位のサービスが入れ子状にそれぞれの生態系を紡いでいく、というイメージ。インターネットという一番大きなプラットフォームがあり、それに乗っかる形でフェイスブックなりツイッターなり楽天なりという下位のプラットフォームがあり、またそれに乗っかる形でサードパーティのアプリやそれぞれの焦点があり、という形で、ピラミッドのように一番の基盤となるプラットフォームからそれに依存する下位のプラットフォームが順々に積み上がっていく、というイメージです。

この説明に仕方そのものについては、実際のネット上のサービスのあり方を描き出していると思いますし、それを生態系というフレームで捉えることにはなんらかの発見力があるのだろうとも思います。しかしこの場所では、「技術的に管理された物理的インフラ」としての「アーキテクチャ」とは完全に区別されるものとしての「プラットフォーム」というものを構想することによって、ネット上(あるいはメディア全般)で起こっていることを捉えるための別の視座を提示してみたいと思います。その際のキーワードとなるのは「コミュニケーションの組織」です。結論を先取りして言ってしまえば、「技術的に管理された物理的インフラ」と対比される、「組織されたコミュニケーション基盤」としての「プラットフォーム」というものを描き出していきたいと考えています。

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ところで以前、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」という言葉の差異について書いたことがありました(これとかこれ)。

そこではたとえば次のように書いていました。

従来は「マスメディア」は、マスな人々とのコミュニケーションを実際に成立させていたので、同時に「マスコミュニケーション」でした。しかしインターネットの出現は、「マスメディア」=「マスコミュニケーション」の図式を大きく動揺させることになります。というのも、たとえば個人的に作成されたホームページやブログは、物質的条件としてはマスな人々に届きうる「マスメディア」ですが、しかしその潜在的な可能性を具体化するコミュニケーションを実現することができないので、「マスコミュニケーション」ではありません。書かれたものが読み手に届くためには、それがなんらかのコミュニケーション回路に乗る必要があるのです。

もちろん「メディア」という言葉はもともと「媒介するもの」という意味だったわけで、するとそこには「コミュニケーション」という要素はなんらかの形でつねにすでに入り込んでいるわけですが、ここでは便宜的に「メディア」を物理的インフラという面に限定して捉え、それを「コミュニケーションと対比したいと思います。

このように考えたとき、たとえばフェイスブックというサービスは、たんなる「メディア」ではありません。フェイスブックフェイスブックたらしめているのは、そこで整備されている物理的なインフラ=「メディア」(巨大なサーバやさまざまなプログラムも含め)ではなく、そこで組織されている「コミュニケーション」です。インターネットという「マスメディア」はすでに誰にでも開かれていますが、しかしあれほどの規模のコミュニケーションをあのような効率的かつ活発な形で組織することは、現時点ではフェイスブックにしかできません。ツイッターも同様です。これらのサービスを独自たらしめているのは、そこで「組織されているコミュニケーション」であり、それをここでは「プラットフォーム」と呼びたいと思っているのですが、このように書いただけではその御利益はよくわからないかと思います。そこで今度は、この「プラットフォーム」で組織されている「コミュニケーション」というものの内実について、もう少し細かく考察してみます。

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「組織されたコミュニケーション」を考察する際して、ここではダニエル・ブーニューの「コミュニケーション学」を参考にしたいと思います。ブーニューの議論については以前書いたことがあるので、興味のある方はそちらも読んでいただけると嬉しいのですが、ここでは関連する部分だけを簡単に思い起こしておくにとどめます。

ブーニューの「コミュニケーション学」の核となるのは、指標、類像、象徴という記号の三分類から構成される「記号のピラミッド」のモデルです。このうち、指標という記号作用があらゆるコミュニケーションの開始地点にあり、そこから上昇することによって初めてそれよりも高次なコミュニケーションが起動しうる、とブーニューは主張します。ここではおおざっぱに、簡単な例を挙げながらブーニューが指標indiceという概念で意味しているものを振り返っておきます。

指標的な記号というのは、物理的な接触によって生み出される記号で、たとえば足跡だとか壁についた手の跡などがそれに当たります。この指標的な記号は、接触にもとづく連続性によって、記号とそれが指し示す対象とを結びつけます。コミュニケーションの場合にこれを置きなおすと、たとえば電話口での「もしもし」がこれにあたります。「もしもし」という発話は特定の意味内容を伝えるものではなく、「自分はあなたに話しかけていますよ」という接触の事実を確認するという行為です。この最初の接触によって会話のチャンネルを確立することによって、ようやくなんらかの内容についてのコミュニケーションが成立するわけです。あるいはもう少しハードルの高いコミュニケーションの例として、ナンパというものを考えてもいいかもしれません。ナンパする際にまず重要なのは(ってやったことないですが)、注意を向けてもらうことです。無視されている状態から、とりあえずわずかでも耳を傾けてくれるようにすること、これがコミュニケーションの糸口となる接触を確立するという行為であるわけです。あらゆるコミュニケーションは、まずは接触が確立されなければ起動しえないのです。

このことはメディアを介したコミュニケーションにおいても同じことです。手紙はまず物理的に手元に届けられる必要があり、そしてそれを読む気になってもらわなければなりません。新聞や雑誌であればそれが配達され、手にとってもらわなければなりません。テレビならば受像機とアンテナが用意され、そしてチャンネルをひねってもらわなければなりません。人々は、それぞれに組織された接触の契機を介して、さまざまなコミュニケーションに参入し、またそこに巻き込まれていきます。

ところでメディアを介したコミュニケーションという上に挙げた例では、実は一口に接触といいながらも、それは実は二つの契機に分割されています。たとえば手紙が郵便制度などを通じて手紙に届く、というのは物理的な接触であり、他方でそれを実際に読み始めるのはコミュニケーションな接触です。メッセージは、なによりもまずは物理的に届けられる(物理的接触)必要があり、そのうえさらに相手の興味をひく(コミュニケーション的接触)ことではじめて意味のあるものとなるわけです。むろんこのことは口頭でのコミュニケーションでも同じことで、なんらかの理由で物理的に声が届かなければ、意味論的な接触も起こりえません。

このようにとりあえずは区別される物理的接触とコミュニケーション的接触ですが、この両者は多くの場合、現実としては制度的に深く結び付けられています。たとえば手紙は郵便という制度によって届けられるわけですが、このような制度を通じて物理的に手元に届いた手紙に対しては、多くの人が自然と注意を向けます。郵便という制度は、物理的接触を組織すると同時に、手紙を受け取った人間の注意を手紙に向けるというコミュニケーション的な接触を組織しているわけです。このことは、新聞やテレビといったマスメディアについても同じく当てはまります。新聞が配達されたりテレビが部屋に置かれていたりするというのは、脈絡なく突然に出現する自体ではなく、ある歴史を有する制度を通して生み出されている事態です。うちに新聞という紙の束が届くという事態には、新聞が社会のなかに広く流通し誰もがそれを読むようになっているという歴史的、社会的な文脈が浸透しています。言いかえれば、新聞の配達制度という、紙の束を各家庭に届けるという制度の確立は、人々がその紙の束に記された情報に向ける組織された興味関心の確立とカップリングされているのです。テレビに関しても同様です。物理的にテレビ受像機が家に置かれる、つまり人々がテレビを買って家に運び入れるという行為には、テレビで放送される番組に人々が興味をもつようになるという、コミュニケーションの流れの組織とカップリングされているわけです。

このように考えると、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」とがほとんど同義扱われている理由がよくわかります。つまり、新聞の配達制度を確立したり、テレビ局のネットワーク体制を確立させるとともにテレビ受像機を各家庭に普及させる、というメディア制度の組織化は、そこで流通される情報に人々の興味関心を向けさせるというコミュニケーションの組織化と同時に進められてきたのです。

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ある情報が流通するためには、まずはそれが物理的に人々に接触する必要があり、そしてまた実際にその人の興味を引く(「もしもし」)という形でコミュニケーション的に接触する必要があります。いわゆる「マスメディア」は、そのマスなメディア体制によって物理的な接触を確保し、またその物理的な接触の確保と平行してコミュニケーション的な接触も確保してきたのでした。そこではマスな物理的な接触が、そのままマスへと届くコミュニケーション的接触を担保するという事態が出現していました。もちろんマスメディアに乗るコンテンツがもつコミュニケーション能力によって視聴率などは変わってくるわけですが、しかしそれでもたとえばテレビに映るというそれだけで、自動的に数百万人オーダーの人がそれを目にする、という状況が生まれていたわけです。「マスなメディア」と「マスなコミュニケーション」とのこの密接な結びつきは、しかしインターネットの出現によって根本から相対化されることになります。というのも、インターネットとともに誰でもが「マスなメディア」を手にすることができるようになった一方で、それは「マスなコミュニケーション」をまったく担保しはしないからです。メディアとしては数億人と接触しうるメディアでありながら、一日に十人も読まないブログなんてのは腐るほどある、という状態が出現したのです。かつては「マスなメディア」を手に入れることがすなわちマスへと届くコミュニケーション的接触を組織することを意味したわけですが、現在では「マスなメディア」は誰にでも手にすることができ、しかしそれとは別に、コミュニケーション的接触を組織していかなければならない、という時代になっているのです。

現代では、何よりも重要なのは「マスなメディア」を手に入れることではなく、誰にでも開かれたインターネットという「マスなメディア」上で、コミュニケーション的接触をマスに組織することです。フェイスブックが重要であるのは、このサービスがマスなコミュニケーション的接触を組織しているからです。毎朝郵便受けから新聞を取り出すように、ブラウザを開いた時にまずフェイスブックを見る、という行為は、そこからさまざまなコミュニケーションが起動していく最初の接触を意味します。フェイスブックはこうした接触をマスに組織しそれをマネタイズすることで収益を上げることができるわけです。あらゆる商売が始まるのは顧客との接触を確保することからであり、そのために宣伝や広告があるわけですから、そうした接触をマスに組織しているものがもっとも強くなるのは当然の道理です。

さて、ここまできてようやく「プラットフォーム」という言葉に立ち戻ることができます。技術的に管理された物理的インフラとしての「アーキテクチャ」と対比する形で、組織されたコミュニケーション的接触を「プラットフォーム」と呼ぶことでなにが見えてくるでしょうか?それは、「プラットフォーマー」とはつまり、コミュニケーション的接触をマスに組織し、それを他者に配分していく存在である、ということです。なぜ多くの人が「プラットフォーム」を必要とするかというと、それはそこにはコミュニケーション的接触が組織されているからです。その「プラットフォーム」に乗ることで、そこに組織されたコミュニケーション的接触から配分を受け取ることができるからです。「アーキテクチャの生態系」と区別されるものとして「プラットフォームの生態系」というものを構想するとするならば、それはコミュニケーション的接触の配分関係を描き出すものになるのだと思います。

フェイスブックでもtwitterでもなんでもいいですが、それらのサービス(プラットフォーム)を、コミュニケーション的接触の配分関係という観点から考えてみると、色々見えてくるかと思います(ツイッターについては「アテンション・エコノミー」というキーワードとともに少し考察してみたことがありました)。たとえばニコニコ動画Ustreamの違いといったことについても。疲れてきたので、個別のサービスについてはそのうちまた書くとして、とりあえずはこんなところで。