スティグレールによるゲーミフィケーション

ゲーミフィケーション」に関してツイッターに連投したものを、せっかくだからまとめておくことにしました。

不勉強ながら、ゲーミフィケーション(ゲーム化)という言葉についてはTBSラジオの「文化系トークラジオLIFE」の去年の特集で初めて知り、すると不思議なものであちこちでゲーミフィケーションという言葉が使われていることに気づくようになりました。それからは本当にうすぼんやりと、このゲーム化ということについて少しずつ考えていたのですが、そんななか、ベルナール・スティグレールがゲームについて論じている文章(正確には講演記録)のなかで、このゲーム化に関して面白いエピソードを紹介しているのにぶつかりました。

スティグレールのゲーム論については、以下のリンクから読むことができます(原文はフランス語ですが、google翻訳で英語に直せばだいたいは分かるんじゃないかと思います)。
Bernard Stiegler, Questions de pharmacologie générale. Il n’y a pas de simple pharmakon
(「ファルマコンの問い:単純なファルマコンは存在しない」)
http://www.cairn.info/revue-psychotropes-2007-3-page-27.htm

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フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは、銀行強盗の罪で五年間服役したという異色の経歴の持ち主ですが、その経歴が初めて公表されたのは2003年出版の『現勢化』という本においてでした。その本のなかでスティグレールは、刑務所という場所がある種の宙吊りの作用を持っていると指摘しています。日々流れていく日常生活の連関から無理やりに引き離されることで、ふだん人が無意識のうちに前提としているものがすべて宙吊りにされるという状況に投げ込まれる。スティグレールはこの状態を「実践的エポケー」と呼び、それをくぐることで自分の存在を根元から見つめ直し、哲学者として生まれ直したのだと証言しています。事実スティグレールは刑務所内でプラトンを読み込み、出所後はジャック・デリダのもとを訪れ弟子入りをし、哲学者としてのキャリアを開始していくことになります。

ある日、この『現勢化』を読んだ元麻薬中毒患者(のちに教育者となった)が、スティグレールを訪れてきました。彼の話はつぎのようなものでした。

「あなたの≪実践的エポケー≫といくらか似た経験が、ヘロインとの関係でわたしにあったんです。これまで何度もヘロインをやめようとしては失敗してきました。でもある日、ヘロインのない状態の中毒になったんです。ヘロインのない状態を一つの試練として、一つのゲームとして考えることができるようになったんです。そうすると、ヘロインのない状態から喜びを引き出せるようになったんですよ。」

麻薬中毒者にとって、麻薬の欠如は身体的な禁断症状という耐え難い苦しみとして現われるのだと思いますが、この彼は、その苦しみの状態をあるゲームの中の到達目標に設定し、そのゲームの中毒になろうとしたのでした。麻薬に対する身体的中毒に、ゲームの遂行という精神的な中毒で対抗し、それによって麻薬を克服することができたというわけです。

このときゲーム化という操作は、自分自身の感情や身体から発される直接的衝動を宙吊りにし、そこから距離をとるフレームとしてまず機能します。その上で、直接的リアリティーから距離を置いた地点で独自に目標を設定し、ゲーム内でのその目標の遂行が迂回した形で現実に影響を及ぼす、という回路が生み出される、と言えるかと思います。

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ちなみにスティグレール自身が、刑務所内での精神的サバイバルのためにこのようなゲーム化を遂行したと述べています。哲学の研究を一種のゲームとし、そこへの中毒に自分を持っていくことで刑務所内の現実から部分的に自分を引き離し、自己鍛錬の回路を確立したのだと。スティグレールは刑務所という場所が、日常生活の連関から自分を強制に切り離すという宙吊り(エポケー)作用を有していると繰り返し述べていますが、ゲーム化のついての上記の話を踏まえるならば、刑務所におけるスティグレールの再生は、実際には二つのステップを経たといえるのかもしれません。つまり、刑務所に投げ込まれることによって日常の連関から引き離され、その状態の中で「哲学研究」というひとつのゲームを設定し、その回路のなかでのハイパフォーマンスを目指した、と.

先述の文章ではスティグレールは刑務所が有するエポケー効果について語る一方で、その同じ場所で怠惰に流れてしまう恐怖についても触れていました。そもそもスティグレールの出発点は人間の根源的な有限性(脆さ、弱さ、怠惰さ)にあり、その根源的な欠如を埋め合わせる契機として技術・テクノロジーが捉えられているのでした。そしてゲームあるいはゲーム化という操作もまた、人間の弱さを代補するテクノロジーであるわけです。(このように考えると、死という根源的な有限性と宗教との関係もまた、一種のゲーム化という観点から捉えることができそうです)

人間は根源的に弱いものであり、だから技術が必要となる。このことは刑務所のなかにおいても同じであるはずで、たんに刑務所に放り込まれただけで誰もが哲学者に生まれ変わるわけではないでしょう。スティグレール刑務所の中で、自分の弱さに対抗するために「哲学研究」というゲームを発明し、自分の弱さを補ったわけです。今回参考にしている講演録のタイトルには「ファルマコン」という言葉が入っていますが、この言葉は「使い方によって毒にもなるし薬にもなるもの」を指します。人間の弱さは放っておけばどんどん易きに流れていく(毒)一方で、その弱さゆえに発明された技術が、類まれな強靭さを生み出す(薬)ことも可能であるわけです。

ちなみに、これは間接的に聞いた話ですが、スティグレールは刑務所内で二週間ほどのハンストを行って独房を勝ち取り他者とのコミュニケーションを断絶した上で、哲学研究に没頭したとのことです。ゲームとしてはガチハードモードと言えるのではないでしょうか。

ちなみにスティグレールは、「よいゲーム」と「悪いゲーム」の分かりやすい区別を提示しています。ゲームという形で現実から距離を置いて遂行されるプロセスが、巡り巡って現実に効果を及ぼす回路が存在しているのが「いいゲーム」、現実から完全に切り離され完結してしまうのが「悪いゲーム」というのです。この場合、「現実」および「ゲームの遂行が巡り巡って現実にフィードバックされる」という二つのことが何を意味するのかについては、それぞれの解釈によって可能な限り広く捉えられていいと思います。

スティグレールが刑務所内で行ったゲーム化の操作は、たとえば「社蓄化」とどう違うのかという疑問も見ましたが、こうした疑問については、上記の区別が参考になるのではないでしょうか。ただしその場合もっとも重要になるのは、「自分にとっての最終的な現実とは一体何か」、言い換えれば「自分が生きていることの最終的なよりどころとなっているのは何か」、あるいは「自分が生きているという感じの最終的な中身とその支えとなっているものは何か」、というこれまたややこしい問いだったりするのですが。