ボーン・シリーズにおける人格と能力の乖離

最近公開されているマット・デイモン主演の『ボーン・アルティメイタム』は、『ボーン・アイデンティティー』、『ボーン・スプレマシー』につづく、ボーン・シリーズ第三作にして最終作らしいです。僕はこのシリーズの名前だけは聞いたことがありましたが、『セブン』の二番煎じクソ映画であるモーガン・フリーマン主演(ここも節操ない)の『ボーン・コレクター』に類するものかと勝手に思い込んで、まったく視野に入っていませんでした。

しかし愛読している伊藤計劃氏のブログで次のように書かれているのを読み、興味を覚えたのでした。

よく、「燃えドラ」世代は「ヌンチャク買った」だの「空手の通信教育」だのを自分のボンクライズムとしてネタにする(『マトリックス』のときよく言われてましたな)わけですが、

翻って「スプレマシー」「アルティメイタム」の感想を観るに、

・ 劇場を出ると早歩きになる
・ 周囲に(必要もないのに)視線を走らせる
・ 車のナンバーを覚えようとする

…このボンクラども(include俺)の大量発生を見るに考えるのは、

「ボーン」は我らの世代の「燃えドラ」ではあるまいか、

というどうでもいいといや心底どうでもいいことなのだが。ただまあ、ランボーコマンドーへの同化願望というのはあまり聞かなかったわけで。
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20071203参照。

で、さっそく近くのゲオで借りてきて鑑賞したのでした。期待通りにとても面白かったのですが、しかしそれと同時になにか気になるところがあって、今日一日ずっと、それがいったい何なのかを考えていました。で、いまさっき、やっとその理由がわかった気がしたのでした。

この映画の設定を説明すると次のようになります。

CIAのプロジェクトで人間兵器として教育されたジェイソン・ボーンはある出来事によって記憶を喪失してしまう。しかし培われた超人的能力はそのまま残っており、CIAから送り込まれてくる刺客をつぎつぎとやっつけ、最後は親玉をやっつける。

こう説明してしまうと見も蓋もないですね。

この映画はいってみれば「超人系」というジャンルに入るのですが、とりあえずいくつかのこの映画に特徴的な基本要素を二つ取り出してみます。
・主人公が記憶喪失
・超人的能力は訓練の成果である
この二つの要素の共存というのが、おそらくとても興味深い結果をもたらしています。

「超人系」というジャンルがあるとして、そのなかの一つのスタンダードは変身系だと思います。『スーパーマン』とか『バットマン』とか『スパイダーマン』とかみんなそうですね。で、この変身系の場合は、生身の人間と変身後とでは異なる次元に位置します。いってみれば人格と能力とに乖離があるわけです。こちらを仮に非人間的超人系と呼ぶとします。

この非人間的超人系に対比されるものとしては、もちろん人間的超人系が挙げられます。伊藤計劃氏が挙げているランボーとかあとブルース・リーとかもそうですね。この人間的超人系は、主人公の経験や修行によってその超人的性格が獲得されているがゆえに、人格と能力とが不可分に結びついています。

と、このように非人間的超人系と人間的超人系という二つの超人系の系譜を、前者が人格と能力との乖離を、後者が人格と能力との結びつきを導き出すものとして捉えるならば、ボーン・シリーズを性格づける「記憶喪失」と「訓練の成果」という二つの要素が、超人系の系譜の中できわめて異色であるということがわかります。つまりボーン・シリーズでは、ジェイソン・ボーンの超人的能力はあくまでも訓練によって獲得されたものであるにもかかわらず、記憶喪失のせいで主人公の人格とその能力とが完全に切り離されているわけです。

このボーン・シリーズの設定の面白さを遺憾なく引き出しているのはマット・デイモンの演技です。デイモン演じるジェイソン・ボーンは、堪能なドイツ語やフランス語の能力や戦闘能力、状況分析能力などを、それが必要な場面ではたんたんと活用していく。そのことによって浮かび上がるのは、訓練によって体に染み込んだ能力や習慣は、それを活用する人格とは切り離されたところでほとんど非人格的に機能していくのだという事態です。僕がよく使う比喩を用いれば、それらの能力は亡霊のように生身の人間に取りついて勝手に自分の仕事を遂行していくわけです。

CIAから送り込まれてくる刺客を撃退していく中で、ボーンは最後にとうとうCIAの黒幕を引きずり出すことに成功するのですが、ボーンがこの黒幕に襲撃をかけるシーンが僕にはとても気になったのでした。ボーンは厳重に警備されたビルに侵入していくのですが、こういう場面では侵入する側にカメラの主観を置いて描いていくのが一般的であるように思います。でもこの映画のこの場面では、主観は襲われる側の黒幕の方に置かれます。ビルの前に駐車された車が一斉に警報を発し、警戒した黒幕が銃を探しているといきなりビルが停電し、ネットワークが遮断される。黒幕は銃を手にして部屋の中を確認して回る。で、廊下に出るといきなりボーンに銃を向けられ手にしていた銃を捨てさせられる。

この場面を見て、カメラの主観が侵入される悪玉の側に置かれていたことがとても気になって、しかもそこにはなにか必然的な理由がある気がしてならなかったのでした。で、今日一日考えた末に気づいたのが、主人公ジェイソン・ボーンにおける人格と能力との乖離です。端的にいえば、CIAを脅かしているボーンの能力は、そのほかならぬボーン自身にとっても他者であります。で、「侵入」というのうは、いつも「自己」が「他者」によって侵入されるものであるわけです。だから、親玉のもとへと侵入していくジェイムス・ボーンはそもそも他者的なものであり、その他者的なものを前にしては人格的をもった存在である親玉とボーンはともに「自己」の側に位置するわけです。

このとき面白いのは、ボーンの超人的能力という「他者」が、CIAが3000万ドルかけて作り上げた能力であるということです。ジェイソン・ボーンが記憶を喪失する以前は、その能力と彼の人格とは結びついていて、それゆえにCIAによって統御可能であった。しかしその能力がいったん人格と切り離されると、ほとんど目的なき自己防衛本能と化して、最終的にはCIAそのものを脅かしてしまう。実際ジェイソン・ボーンがその能力を発揮するのは基本的には、刺客が送られてくるためにやむなくその自己防衛を発動せざるをえなくなるときだけです。

とりあえず現時点での仮説としては、「訓練された能力とその持ち主の人格との乖離」という要素と、その要素から由来する能力の非人格性という性格を十二分に表現しているマット・デイモンの淡々とした演技、この二つがボーン・シリーズの魅力の根幹なのではないか、と僕は考えています。