『近松物語』と業

今日は早稲田松竹に、『近松物語』と『雨月物語』という溝口健二二本立てを観てきました。どちらについても書きたいことがあるのですが、とくに『近松』についていろいろ考えました。しかし、どう言ったらいいのか・・・

「業」ってのがありますよね。「業が深い」とか「因業」とかの。もともとは仏教用語なんでしょうが、たぶん日常のなかで使われていく過程のなかで、仏教の文脈からは離れた独自のニュアンスをすでにしっかりとまとっている言葉なんじゃないかと思います。僕もときどき深く考えずに「業が深いねえ」とか使いますが、そのときは仏教のことはまったく考えていませんし、もとより仏教の知識がありません。それでも問題なく通じるし、それに「業が深い」という言葉がいちばんしっくり表現してくれるような事態って、あるんですよねえ。どうでしょうか。

僕が深く考えずに「業」という言葉を他の言葉で言い換えるとどうなるだろうか、とちょっと考えました。「罪」というのでもないし、「宿命」とか「運命」でもない。で、思いついたのが「ダイモン」。ソクラテスについてた守護霊みたいなやつですね。不意にソクラテスの耳元で、進むべき道をささやいてくるやつです。ただし、「業」と「ダイモン」のあいだに(僕のなかで)成立した連想について理解してもらうためには、もうすこし説明が必要でしょう。

ソクラテスの最期というのあまりにも有名です。哲学を説いて回るソクラテスは、若者たちを誘惑していると告発され、裁判の末に死刑を宣告された(正確には自害を命じられた)。脱獄し亡命することを主張した弟子たちにソクラテスは、「自分は命をかけて国を説得し、もしそれが失敗したならば、たとえそれが間違ったものだとしても、国の決断に従う(大意)」と述べ、毒ニンジンを煽って自害しました。僕はこのソクラテスの最期について、「業が深いねえ」となんの違和感もなく呟くことができます。

俗人の僕としては、ごくごく素朴に「あーあ逃げればいいのに」と思うのですが、それと同時に「この人はどうにもこうにもこうするしかない人なんだろうなあ」とも感じます。そして、この後者の感想のほうの「どうにもこうにも」のあたりが、なんとなく「業が深い」という言葉としっくり来る気がするのです。で、これは僕の勝手な解釈ですが、この「どうにもこうにも」を説明しようとしてギリシャ人(というかプラトン?)が編み出したのが、「ダイモン」なのではないかと。ここには、「罪」とか「宿命」とかいう野暮ったいイメージよりも、もっとゆるくてしかしながら深く刺さってくる何かがある気がします。

さて、ソクラテスという人はたいそう立派な人です。しかし立派な人に対してではなくても、「業が深い」という言葉はあてはまります。たとえば僕はよく、島田紳助明石屋さんまという二人のお笑いタレントの対比を考えるのですが、この二人で言えば、僕の考えではさんまの方がはるかに業が深い感じがします。紳助はとても器用な人で、現に財テクもかなりのものだという話を聞きます。僕はよく、環境が異なればこの人はたとえば実業家として大成したかもしれないなあなどと思ったりします。それに対してさんまの場合、どういう環境から出発したとしても、最終的には今と同じようなことをやってたにちがいない、と思わせる何かがします。この人は「どうにもこうにも」この道しかないんだろうなあという「業の深さ」を感じるわけです。

「業の深さ」はポジティブな要素のみにあてはまるわけではありません。たとえばミラーマン植草教授についても、ごくごく自然に「業が深いねえ」と僕は使うと思います。説明は要らないでしょう。「どうにもこうにも」感がぷんぷんします。

人が普段生きていっているときには、「業の深さ」というものは通常あまり感じられるものではないかと思います。しかし人によっては、あるいは誰であれ場合によっては、なにかこの「業の深さ」というものがにじみ出てくる時というのがあるような気がします。「個性」などというよりももっと根が深い、「どうにもこうにも自分はこうするしかないのです」というそんな気配には、毒となるのであれ薬となるのであれ、いずれにせよ劇薬的な強烈さをがある気がします。

さてさてまた枕が長くなってしまいましたが、溝口健二の『近松物語』は、以上に述べたゆるーい意味での「業」にまつわる映画であると僕は感じました。「業」というのは「罪」のように人を罰するものでも、「宿命」のように人を使い果たしてしまうものでもなく、「どうにもこうにも」がいわば一つの「顔」となって結実したものです。この業というものにはおそらく結末もカタルシスもさらにはサスペンスすらもなく、ただひたすらにエスカレーションだけが存在します。

近松物語』は「業の深い」人間で溢れかえっています。そのなかで、一見「業」からは無縁に見える二人の人物がいます。その二人がこの映画の主人公で、一方は大商人以春の後家、おさん、もう一方はその商家で彷徨している茂兵衛。当初は、この二人が周囲の人間の業と、さらには偶然とによって不幸にも追い込まれていくという風に物語が進んでいきます。

物語は、父親から身代を譲り受けたものの商売がからっきしだめなおさんの兄がおさんに金の融通を頼みに来るところから始まります。しかしおさんの旦那である以春はとんだ吝嗇で、こまったおさんは奉公人の茂兵衛に相談するのですが、そこから二人は大変な目に遭うことになる。それを引き起こすのは、まずはおさんの兄の柔弱の業、それからおさんの旦那の吝嗇と色欲の業、そして番頭の貪欲の業の連鎖であり、そこに不幸な偶然が重なって二人は不義密通を疑われることになります。

ここまでは、周囲の悪徳と不運によって翻弄される無垢な二人という構えのように見えるのですが、しかし中盤から事態は急展開します。不義密通の濡れぎぬを着せられ逃げ回る二人は、終わりなき逃亡に疲れて死を選ぶことにするのですが、死を目前にして茂兵衛がおさんにずっと秘めてきた慕情を吐露すると、おさんは「私は生きたい!」と叫ぶ。ここから、無垢に見えていたこの二人の業こそがもっとも根が深いということが露わになっていきます。

もとはといえば、おさんが茂兵衛に相談を持ちかけたのは、浮かない顔をしたおさんに茂兵衛が「なにかありましたか?」と声をかけたからだし、また大旦那に愛人になるようしつこく迫られていた女中に、「夫婦になる約束をしていることにしてくれ」と懇願されながら茂兵衛が断ったのも、後からみればおさんに対する秘められた思いに発した対応だったと考えられます。この対応が、結果的には大旦那の色欲の業を二人の悲劇と結びつけたのでした。つまり、一方的に二人を巻き込んでいっていたように見えた周囲の業の連鎖そのものが、実際にはこの二人自身の業に発した出来事であるように見えてくるのです。

近松物語』にはサスペンスはなく、けっして解消されることも軽減されることもない業の、ただひたすらのエスカレーションがあるばかりです。ふと、岡本太郎の母、岡本かの子の短歌を思い出しました。

年々に
わが悲しみは
深くして
いよよ華やぐ
命なりけり

近松物語』の画面に溢れかえる業は、時間が経てば経つほどいよよ華やいでいきます。そしてその花ざかりとなるのが、ラストシーンです。

捕らえられた二人は、はりつけにされる前に、市内を引き回されていきます。一頭の馬に、縛られて背中を合わせた二人は、難く手を握りながら、お互いに顔をかすかに相手の方に傾けています。この不祥事のせいでお取りつぶしになった商家から、奉公人たちがかけつけてきます。そして、引き回されていく二人をみた一人の女中が、こう述べるのです。

「おいえはんがあんなうれしそうな顔してるはるの、はじめてみたわ。茂兵衛さんも、なんて晴れ晴れとした顔してはるんでしょう。あの二人、ほんとにこれから死ぬんかしら?」

この二人はその罪を罰されるのでも、また運命に翻弄されて抜け殻になるのでもなく、その業のエスカレーションの頂点において、命の華やぎを徹底的に謳歌するのです。そこには一種の永遠が垣間見られるのですが、それはけっしてなにかが凍りつくことで生まれる永遠ではなく、悲しみとないまぜになってどこまでも昂進していく、命のはなやぎそのものの永遠であります。

近松物語』の上映は明日までですが、時間のある人はぜひぜひ観に行ってください。