スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過ち』その四

↓以下の三回の続きです。
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http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070307#p1

● 現在地

全体のイントロダクション
  第一部 人間の発明
イントロダクション
 第一章 技術的進化の諸理論
 第二章 テクノロジーと人類学 
 第三章 《誰?》《何?》人間の発明 ← いまここ
  第二部 エピメテウスの過ち
イントロダクション
 第一章 プロメテウスの肝臓
 第二章 すでにそこに
 第三章 《何》の救出

● 第一部第三章 「誰?」「何?」人間の発明

『技術の時間』の第一部は「人間の発明」と題されているが、スティグレールはそこでの「の」の両義性を取り上げる。一方でそれは人間「による」発明と解釈でき、他方でそれは人間「を」発明することであるとも解釈することができる。この両義性は、主体と客体をめぐる問題系と深くかかわるものであり、それをスティグレールは「誰qui」と「何quoi」との関係として論じていく。つまり、「誰」が「何」を発明するのか、それとも「何」が「誰」を発明するのか。そしてこの問いは、いうまでもなく人間と技術との関係へとつながっていく。人間が技術を発明したのか、それとも技術が人間を生み出したのか。

そこで問題とされている両者を、一方が他方を生み出すという序列関係とは別の仕方で理解するためにスティグレールが依拠するのが、ジャック・デリダによって編み出された差延という概念である。差延という概念はデリダによって、遅れとともに差異を生み出していく運動であると定義されているが、一般的には言語や記号の働きとして捉えられることの多いこの概念を、スティグレールは生命の働き全体をも説明する最大限の壮大な射程をもつ概念として理解し、展開させていく。そこでは生命の歴史そのものが差延の運動として捉えられ、その生命の歴史のある時点において技術とともに出現する人類の歴史は、その差延の運動をさらに遅らせた差延差延として捉えられる。差延差延とは、人間と技術とがお互いに生み出し合うその運動のことであり、それは差延一般におけるある差延の歴史である。すなわち、「誰」が「何」を生み出すと同時に、「何」が「誰」を生み出していくというその運動圏のことである。

以上のような問題関心から出発して、スティグレールアンドレ・ルロワ=グーランが『身ぶりと言葉』で描き出している人類の進化の歴史を、その差延の運動を跡づけるものとして捉え返していく。ルロワ=グーランが人類という種の開始地点に見出すのは直立歩行と手の解放であるが、そのことは同時に技術の獲得をも意味する。技術を可能とするのは解放された手であるのだ。ここには、技術をあくまでも人間から切り離そうとしたルソーの議論との明瞭なコントラストが見られる。ルロワ=グーランは人間のはじまりの地点にはっきりと技術の出現を結びつけており、そこをスティグレールは最大限に評価する。

手の解放を人類の出現における本質的契機としてみなすこと、それは精神の座としての脳に特権を与えないことでもある。むろん、技術や言語が複雑化するためには一定以上の脳の機能が必要であるわけであるが、しかしそのことは、脳の機能が向上したから技術や言語が複雑化する、という規定関係を意味するわけではない。むしろ、手の解放とされによってもたらされる技術と結びつくことによってはじめて脳の機能の向上というものがもたらされるのであり、その点において脳の機能は二次的であるとルロワ=グーランは主張するのだが、その主張の重要性にスティグレールは注意を促す。スティグレールはそこに、技術の次元の原理的な先行性というものを見出すのだ。とはいってもそこで想定されているのは、単純な先行関係というようなものではない。

スティグレールは技術を繰り返し人工補綴という言葉で言い換える。人工補綴とは、義肢や補聴器など、身体上の欠如を技術的に補う装置のことである。しかしスティグレールが想定しているのは、常識的な観点から言えばきわめて奇妙な人工補綴である。その人工補綴は、それによって補われる欠如そのものを生み出していくものとして理解されているのだ。そして人間という存在は、そのような人工補綴によって欠如を補われている存在として定義される。人工補綴は自然のうちに欠如を持ち込むと同時にそれを補うのだが、そこに現われるとされるのが人間であるのだ。とすれば人間とは根源的に自然の欠如のプロセスとして存在するものであり、それゆえスティグレールは、本質=自然をもたないことこそが人間の本質=自然であると述べる。その脱自然化のプロセスを展開していくのが人工補綴としての技術であり、人間はそこにつねに遅れてやってくることができるだけである。

直立歩行の獲得と手の解放とともに技術が可能となり、その時点から技術に先行されることで人類の進化の歴史が展開していく、という見通しを立てたという点についてスティグレールはルロワ=グーランを大きく評価するのだが、しかし同時に、ルロワ=グーラン自身も結局は形而上学的な二項対立、精神と技術という伝統的な二項対立を持ち込んでしまっている、という点については厳しい批判を向ける。たとえばルロワ=グーランは「技術的意識」と「非技術的意識」という区別を導入し、前者の意識の持ち主であるジンジャントロプスはいまだ前人類であり、後者の意識の持ち主であるネアンデルタール人は現代にまで連なる人類に属しているとする。そこでは、たんなる「技術的」操作しか遂行しない意識と、象徴的思考を駆使する意識とが区別されているのだが、その区別を支えているのは人間の本質には属さないとされる技術と、人間の本質に属すとされる精神との対立設定である。あるいはルロワ=グーランは、象徴的分節によって構成されているいわゆる言語と、あくまでも具体的状況に密接した「具体的言語」というものを駆使し、前者には「非技術的意識」が、後者には「技術的意識」が対応するとする。スティグレールはルロワ=グーランによってなされたこの区別に対して、言語が言語であるのだとすれば、それは象徴的に分節されており、それゆえつねにすでに抽象化と一般化の操作がなされているからであり、「具体的言語」などというものはナンセンスであると端的に批判する。結局のところルロワ=グーランもまた、自身が批判したルソー的な身ぶりをなぞっている、とスティグレールは述べる。

スティグレールの見るところによると、ルロワ=グーランが最終的に精神と技術という形而上学的な二項対立へと回帰してしまわざるをえないのは、彼が「誰」と「何」とがお互いに生み出し合うという差延の運動を捉えることができなかった点に由来する。実際には「誰」と「何」、内部と外部はお互いに生み出し合うという共-措定の関係にあるのであり、その関係性をとらえる概念としてスティグレールによって見出されるのが差延の概念である。スティグレールは「何」を痕跡と呼びながら、人間が痕跡を差異化させると同時に、その痕跡を通して人間自身が発明されていくのだと述べる。そしてその痕跡の場に与えられた概念が、「組織された無機物」である。

「組織された無機物」は、生物の進化のプロセスにおける人間独自の場である。というのも、生物一般があくまでも遺伝子を通して進化のプロセスを進めていくのに対して、人間の進化の場は、遺伝子の外側にあるこの「組織された無機物」であるからだ。スティグレールはこれを記憶のプログラムが作動する次元の違いとして捉える。生物学的記憶とは遺伝子を通して伝承される遺伝的記憶でしかなく、獲得形質は伝えられることはない。しかし技術を手にした人間は、それぞれの個体によって獲得された記憶が技術という痕跡へと刻み込まれ、それが受け渡されていくことで独自の記憶の系列を構成する。諸個体の神経系に生み出される後成的な記憶が系統として接続されていくのであり、この人間独自の記憶の系をスティグレールは「後成系統発生」と呼ぶ。

生命一般の歴史としての差延の運動をさらに遅らせるものとしてスティグレールが見出す差延差延が意味するのは、後成系統発生的な記憶が刻み込まれた痕跡の集合体としての組織された無機物という場の出現である。この場の出現によって、「誰」と「何」との間の共-措定の関係もまた可能になる。遺伝的記憶とは異なり、後成系統発生的記憶は「誰」における個体的記憶との相互交渉を通してのみしか展開していくことができないからだ。そして民族的なものが可能となるのもここにおいてである。民族的記憶もまた後成系統発生的なものであり、それは個々人の記憶との絶えざる相互交渉のうちにある。

スティグレールは進化論的なプロセスを差延の概念を通して捉え返すことで、生命の歴史の中に人間の歴史を位置づける。その人間の歴史の出現はひとつの「切断」を意味するのだが、しかしそれは生命の歴史との切断ではなく、生命の歴史における切断である。人間の歴史は、たとえば精神というようなまったく新しいものを生命の論理の中に持ち込んだわけではなく、それ自体が遺伝型から表現型への遅れを組み込んだ差延の運動として展開されていく生命の運動に、もう一段階の遅れの契機を持ち込んだにすぎない。その遅れが生み出されるが技術という名前で名指される組織された無機物という場であり、精神というものはそこで組織される遅れの事後的な効果として生み出されるものでしかない。

スティグレールは痕跡としての技術を通してはじめて自己を見いだすという精神のあり方を、ラカンを念頭に置きながら「鏡像段階」という言葉で説明する。しかしながらその鏡はその前に立つものの姿を映し出す鏡ではなく、それぞれの痕跡としての技術である。そのような痕跡としての技術を、スティグレールは歴史と結びつける。ラカンにおける抽象的な鏡とは異なり、痕跡としてのそれぞれの技術は歴史的なプロセスの中にあり、時代とともに鏡は姿を変える。とすればそれに応じてそのそれぞれの鏡を通して自己を見いだしていく人間自身が根本的に変わっていくことになる。スティグレールはここに「さまざまな鏡像段階の歴史」の可能性を見出すのだが、しかし鏡と歴史との関係はこれだけではない。スティグレールはさらに、それぞれの技術という鏡が歴史の中にあるというだけではなく、それぞれの鏡そのもののうちにすでに特定の歴史が刻み込まれているのだと述べる。つまり、痕跡としての技術という鏡に自分を映し出すとき、そこに見出されるのはある歴史連関の中に投げ出された自己の姿である、ということだ。スティグレールはこの問題を第二部において、ハイデガーにおける「事実性」と「すでに-そこに」という概念を通して詳細に分析していくことになる。

簡単に振り返っておくと、第一部第一章においてスティグレールは、産業化時代以降の近代技術の出現という事態に応答するものとして、ベルトラン・ジル、ルロワ=グーラン、ジルベール・シモンドンらの技術論をみていくことで、人間にとっての手段という枠組みには収まりきれない自律的論理を有するものとしての技術の性格に関する議論を追い、同第二章においては、ルソーの自然人論をみていくことで、技術を排除し純粋なる自然=本質を確保しようとする形而上学的な試みがつねに失敗せざるを得ず、技術はつねに起源の内側に入り込んでいる、ということを示した。そして第三章においては、デリダ差延の概念を発展的に継承することで、人間と技術とがともに生み出し合うというその根本的な論理の見取り図を描き出した。そこではもはや形而上学的な精神と技術、内部と外部という二項対立は乗り越えられ、人間と技術とは遅れとともに差異を生み出す一つの運動として捉えられている。これらの議論の道のりは、大まかには進化論なパースペクティブから人間と技術との関係を考察していくものであったと言える。

その進化論的なパースペクティブに従った分析の末に、人間という存在の独自性を徴づける記憶の後成系統発生的な層は、個々人の記憶と相互交渉することによってしか展開することができない、ということが見出された。個々人の記憶、というのはスティグレールが「誰」と呼んでいる契機のことであり、より限定していえばそれは人間の意識のことである。この意識が集団的、歴史的な系列として構成されていく後成系統発生的な記憶と結びつくことによって、人間の歴史は展開されていく。とすれば、ここにはそこにおける人間の意識のあり方に関する問いが要請されることになる。むろん人間の意識についてはこれまで数えきれないほどの議論が捧げられてきてはいるが、しかしスティグレールはその議論を、人間と技術の発達に関する進化論的なパースペクティブから出発して取り上げ直す。そこで焦点が当てられるのが事物の道具性に注目することで現存在分析を開始するハイデガーの『存在と時間』であり、第二部では、エピメテウスとプロメテウスの神話を足がかりにしながら、ハイデガーの切り拓いた可能性と限界とが丹念に切り分けられていくことになる。