ちょっとした反省

慰安婦問題」というきわめてセンシティブなテーマについて上の記事で書いたのですが、そのあと「南京事件」に関してコメントしていただいたid:bluefox014さんのブログを足がかりにいくつかのサイトの記事を読んでみて*1、自分がいかにこれらの「歴史問題」に関して知識がなく、また積極的に知識を得ようとしてこなかったのか、ということを痛感し、また反省することになりました。ただ、僕の基本的な出発点になっている発想が、いくつかの議論を読んだ限りでは見られなかった、と思いました。それは次のような発想です。

侵略戦争の被害者である「他者」への「配慮」は当然ながら必要だが、実際のところ、中国や韓国をバッシングする「日本の若者たち」もまた僕にとっては他者である。

で、なにかを語る際には、それを受け取る他者との関係を無視することはできず、それゆえ「配慮」ということが問題になるわけですが、「日本の若者たち」もまた自分にとって同じく「他者」であるとすると、そこでの可能な語りの形は途端に圧倒的に不透明になります。もし、「日本」あるいは「日本人」というカテゴリーを自明の所与として受け入れることができ、自分と「日本の若者たち」あるいは全ての日本人を「自己」へと同一化させ、その「自己」にたとえば中国や韓国などの「他者」を対峙させることができるのだとすれば、事態は比較的簡単です。「他者」への配慮をしない「自己」の批判、という形でほかの「日本人」を批判すれば言いわけです。しかし、現実には「日本人」なんていう自明な「自己」のカテゴリーは存在せず、それゆえその簡略化は現実からしっぺ返しを受けることになります。「歴史認識」をめぐる現在の混沌とした状況のある部分は、そのような「しっぺ返し」として生み出されているのではないか、と僕はなんとなく思っています。

それにしても、「日本」という形象の本質化を批判する「左」の人たちが、「歴史認識」あるいはそこでの「他者」との関係という場面においては、「日本」/「日本人」という形象を無批判に本質化してしまっているように見える、というのが僕には気持ち悪くて仕方ありません。むろん、ひとは自分がそこへと投げ込まれたさまざまなカテゴリーから純粋に自由でいることはできず、「日本」/「日本人」という規定もまたそのようなカテゴリーの一つである、というのはいうまでもないことです。それゆえふだんは意識しなくても、たとえば海外に行くと自分を「日本人」として規定する他者のまなざしの絶対的なリアリティーに出会わざるを得ないわけです。しかし、だからといってそこに「日本」/「日本人」などという本質や起源が実態として存在しているわけではありません。じゃあ、一方では紛れもないリアリティーを有し、他方ではあくまでもフィクションでしかない「日本」/「日本人」とはいったい何なのか?むろん、その問いに対する答えを僕は持っていませんが、しかしその問いを忘れておくこともできません。となると自分には、「日本」/「日本人」を無前提に自分と同一化させて、海外の「他者」に対して「日本人」を自己批判する、という身ぶりはとれません。そして、「日本人」とされている他の人たちも、自分にとってはやはり「他者」である、という認識から出発するしかありません。

これらの問題は、そもそも「責任」とはなんなのか、というきわめて難しい問題とも結びつくものだと思いますが、それについてはそのうち改めて考えてみたいともいます。とにかくここで書いておきたいのは、中国や韓国といういわゆる「他者」と、「日本の若者」という他者とに、同時に語りかけうるメディアはなんだろうと考えた場合に、僕には「事実認識」しか思いつかなかった、ということです。むろん、妥当な「事実認識」の獲得は、けっしてゴールではなく出発点でしかありません。しかしそこを出発点としなければ、二重の他者に対して同時に向けることのできる語り方を見つけることはできないのではないか、と思っています。

繰り返しますが、戦争被害についての(父祖の)記憶について感情的になる中国、韓国の方々と、「南京大虐殺などなかった」と感情的になる日本人とが、自分にとっては「原理的には」同様に他者である、というのがもっとも悩ましいところであり、そのことが、なにかきわめて難しい語り方を要請している、ということです。そして多くの人にとって、この認識を持っておくことは、ある言葉を他の人たちに届けようと努力する際に有益なのではないだろうか、とも思っています。「歴史認識」に関して、「右」の人も「左」の人も、同じく「日本人として」語っていることを自明にしていますが、その語りのステータスがいったいなにを意味するのか、ということについて反省することは、けっこう重要である気がします。