「慰安婦問題」と「語用論的リアリズム」

南京事件」、「慰安婦問題」などに関する自分の無知を恥じて、[歴史認識]カテゴリーを作ってみました。ただ、これからも地道に「事実」に関する情報を収集していこうと思っていますが、このブログではそれぞれの「事実」に関するまとめや解釈を加えるということはしません。というか、そういうことはどうにも苦手なので、この[歴史認識]というカテゴリーでは、「歴史認識」というものに接するにあたってどういう態度を取るべきなのか、といういわばメタの視点からの考察を試みたいと思います。

さて、まずは自分の無知をさらけ出すことから始めなければならないのですが、前回の記事でコメントを下さったbluefox014さんのブログでのつぎのやりとりを読むまで、僕は「慰安婦問題」というのはつまり、いわゆる「強制連行」があったのかなかったのか、というのが基本的な争点なのだと思っていました。
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20070304/p1
↑の記事とそれにまつわるコメントの応酬を通して、狭義の意味=軍による強制においてはもはや事実ではないという共通了解のとれている「強制連行」の問題は、実は「慰安婦問題」の本質ではない、という主張の存在をはじめて知ったのでした。そのことに関する無知がどの程度の無知なのかを測る基準すら僕は持っていない、というのがなんとも恥ずかしいところなのですが、しかしいまのところは仕方ありません。そこではかなり細かな「諸事実」が挙げられているのですが、僕にはすぐに全てを消化することはできないし、またそのそれぞれの当否の判断する蓄積もありません。ここで取り上げたいのは、それらの「事実」に関することとは別のことです。僕が問題としたいのはむしろコミュニケーションの問題です。

まずごく一般的なを命題を挙げます。

相手にまったく通じない言葉は、存在しないも同然である

あるいは、次のようなヴァリエーションも可能でしょう。

意味は、相手に理解されることによってはじめて生じる

これらの命題はなにも奇異なものではなく、現実的な実感として容易に理解できるものだと思います。相手に理解されようがされるまいが関係ない、という態度をとる人間はしばしば「自己満足」というレッテルを貼られることになります。これは、正しいとか間違っているとかいうことではなくて、コミュニケーションとは現実としてそのようなものである、という身も蓋もない事実に属する事態だと思います。それゆえ、ある意味を誰かに伝えようとする場合には、ちゃんと相手にわかるような仕方でそれを伝える必要がある、という経験則をだいたいの人が獲得しているわけです。この経験則に則した振る舞い、つまり「自己満足」を避け、あくまでも相手に理解できるように伝える努力をするという態度を、ここでは仮に「語用論的リアリズム」と呼ぶことにします。「語用論的」というのはあるいはちょっと耳慣れない表現かもしれませんが、英語にすればプラグマティック、ということです。言語学の世界では、プラグマティックはなぜか「語用論」と訳されているので、ここでもそれを踏襲することにします。

誰かに本当に何かを伝えようとする場合には、「語用論的リアリズム」を避けることはできません。たとえ対話相手が大変に困ったパープーであっても、というかむしろそのようなときほど、人は「語用論的リアリズム」に意識的に徹する必要があります。相手がパープーなのだから相手が悪い、といったところで何も事態は解決しないのですから、なんとかしてパープーにもわかるように工夫しなければならないわけです。相手がパープーであることの不運をしっかりと正面から引き受けて、建設的な態度を模索していくこと、これが「語用論的リアリズム」です。そういえば福田和也の『悪の対話術』っていう本は、基本的にはこういった意識から出発しつつ、たんに「伝える」に留まらず「相手を操作する」ところまでを想定して書かれているものですね。が、ここでそこまで極端な態度はとりません。

ところで、この「語用論的リアリズム」は狭義のコミュニケーションに限定されるものではありません。たとえばいわゆる「事実」を伝えるためにも「語用論的リアリズム」を避けることはできません。小学校の先生だって、まともな人であればちゃんと生徒にもわかるように説明するという「語用論的リアリズム」を採用していることと思います。「事実」を伝えるための「語用論的リアリズム」において、「子供に教える」という行為はどちらかと言えば例外的なものです。というのも、子供には先入観というものがほとんどないからです。だから、先生はたんにわかりやすく説明すれば言いわけです。しかし相手が大人の場合はそうはいきません。というのも、大人というのは自分なりの世界観、価値観というものをもっており、それゆえさまざまな先入観にがんじがらめになっているからです。地動説を唱えて宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイの例なんかが代表的ですね。先入観が強力に作用している相手に対して、その先入観を裏切るような「事実」を伝えようとする時、「語用論的リアリズム」によって要求されるものはほとんど「ハードボイルド」になります。

誰もが知っているように、「事実」というのは透明なガラス箱に入ってそこかしこに置いてあるものではありません。とくに、センシティブな歴史的連関の中に位置する「歴史的事実」などにあっては、その「事実」はかなり「ハードボイルド」な状況に置かれています。「ハードボイルド」な状況、ということはつまり、善/悪や正/誤といった「きれい事」の通用しない徹底したリアリズムが要求される状況、ということです。そんな状況で「きれい事」にこだわっていると、あっというまにマフィアに殺されてしまいます。さいわい「語用論的ハードボイルド」な状況においては殺されるということはなく、端的になにも意味を生むことがないという結果に終わるだけです。しかし、いうまでもなくその結果はコミュニケーションにとっては致命的なものです。

前置きが長くなってしまいましたが、「慰安婦問題」に関する諸事実もまたきわめて「ハードボイルド」な状況に置かれており、そのことは、上に挙げた記事のコメント欄からも十分にうかがうことができます。そこでの登場人物の一人に、SEIKI さんという、「慰安婦問題の」知識に関してはおそらく僕とさして変わらないと思われる方がいます。コメント欄での長きにわたるやり取りの中で、彼は最初の方にすこしだけ出てくるだけなのですが、しかし彼の果たしている役割はきわめて大きいものであるように僕には思えました。というのも彼の発言は、「慰安婦問題」をめぐる「ハードボイルド」な状況をきわめて簡略に提示しているように思えたからです。

当該ブログの記事では、ある2003年に掲示板に指輪さんという方から投稿された次の発言が引用されています。

ネット上のいくつかの掲示板で「従軍慰安婦」問題を議論していると、必ずと言って良いほど、「従軍慰安婦強制連行説ですね」とか「あなたは従軍慰安婦の強制連行はあったと主張されるのですね」と、否定論の信者の側から言われます。
 私は、これまで「従軍慰安婦強制“連行”説」という言い方はしたことがないし、むしろ、「従軍慰安婦」問題の核心は強制連行の有無ではない、と強調してきたつもりです。ところが、「従軍慰安婦」問題と言えば、強制連行問題であると否定論信者は思い込んでおり、強制連行と言えば吉田清治証言、この吉田清治証言はウソなのだから強制連行はなかった、従軍慰安婦は日本の国家犯罪ではない、と殆ど全て、このパターンで否定論を展開してくることになります。http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20070304/p1

これを受けてSEIKI氏は次のように述べます。

従軍慰安婦強制“連行”説」をすぐに持ち出すのは、「従軍慰安婦強制“連行”説」でみんなが騒いだからですよ。で、それに対する証拠が見つかりにくくなったところで「従軍慰安婦強制“連行”説」ではなくて「従軍慰安婦」問題とは“強制連行”問題か? とか言い出しても、心情的には「そこまでして国の責任をいつまでも追及したいの?」って心情に私はなってしまいます。

ここでSEIKI氏は「心情」という言葉を使っていますが、これはかなりマイルドな表現です。こういった問題に関するネット上で活発なコミュニケーションを見るかぎり、一般的には「心情」というよりもむしろ「敵意」の方が強い気がします。勝手に推測してしまいますが、「そこまでして国の責任をいつまでも追及したいの?」というよりもさらに、「サヨはなんでもいいから国の非難がしたいだけだろ?」みたいな態度が(いわゆる「ネット上」では)一般的なのではないか、と。で、SEIKI氏は次のようにも語っています。

おそらく一般?の人たちは、大きく2つに分かれると思います。
慰安婦問題を盛り上げる派
慰安婦問題はもういいです派
で、慰安婦問題はもういいです派としては、慰安婦問題を盛り上げる派の個々人の言説を一つ一つ別々なものとして捕らえないで、ひとつの大きなものとして捕らえます。
なので、新しい人が新しい視点から言ったとしても、
「またこの話か・・・」
となるわけです。
それが、良い・悪いといった意味ではありませんよ。

そしてこの発言は、「慰安婦問題」をめぐるハードボイルドな状況に関する、とても象徴的な表現になっている気がします。

上のSEIKI氏の発言では、「慰安婦問題」を問題視する人たちの言説にあって、「強制連行説」とそれからは距離を置いた「慰安婦問題」に焦点を当てる人との間の区別を、一般の人たちはしていないということが述べられています。ちなみに最初の方に述べたように、僕もこの「一般の人たち」に入っていました。そしてこのSEIKI氏はかなりマイルドな書き方をしているいるわけですが、そんなにマイルドな考え方をしない人も相当程度存在するように思います。というよりも、「慰安婦問題」否定派のひとたちはだいたいがもっと過激であるように思います。そこでは、「強制連行説」とより広義の「慰安婦問題」は区別されないどころか、「サヨ」=社民党朝日新聞という一連の連想的カップリングのもとにラベリングされ、一緒くたに弾劾される、という身ぶりがドミナントであるように感じられます。

上記ブログ記事のコメント欄で幾人かの方々は、SEIKI氏の認識は端的に「間違っている」という主張をしているのだと思いますし、これは推測ですが、「慰安婦問題」を「強制連行説」に集約させ、それを「サヨ」=社民党朝日新聞という連想的カップリングのもとに批判する人に対しても、同様にそれは「間違っている」と主張するのではないか、という印象を受けます。そしてもしそうだとしたら、その主張はおそらく「正しい」ものではあると思います。しかしぼくは「正しい」と「間違っている」とを判断する基準を残念ながら持っていませんし、またそもそもそのことについてうんぬんすることはここでの目的でもありません。僕が試みたかったのは、要するに「慰安婦問題」をめぐる「ハードボイルド」な状況というものを推察してみること、でしかありません。

さて、上記ブログ記事のコメント欄での登場人物のうち、「慰安婦問題」をめぐる「ハードボイルド」な状況という観点からみて興味深い人物がもう一人います。それがhotal氏です。というのも、僕の見るところこのコメント欄の登場人物のうち、このhotal氏だけが「慰安婦問題」をめぐるコミュニケーション状況の「ハードボイルド」さを念頭に置き、どのような議論の展開ならば「慰安婦問題」否定派の人たちとコミュニケーションが成立するのか、という観点に基づいた徹底した「語用論的リアリズム」を遂行しようとしているように見えるからです。たとえばhotal氏は次のように語っています。

超歴史的絶対正義を掲げて正しい/正しくない、善/悪の議論をするのではなく、相手の言い分の背後にある
価値観や欲望を想定し、内破的な対話をしない限り、話自体進みません。拠って立つ価値観や動機が異なる
のですから。政治的否定論者はともかく、うんざり派、誤解派には正論の押し付けでは逆効果です。

しかし、そのhotal氏の「語用論的リアリズム」は、事実認識の「正しい/間違っている」という軸で語っている他の人たちとはまったく噛み合っていません。まあ、ここでの「超歴史的絶対正義」というhotal氏の表現は、氏の意図したであろうことからするとちょっとまずい表現だったと思いますし、そのせいで誤解が生まれているようです。たとえばその後、問題となっているのは「超歴史的」ななにかではなく戦時中という特定の歴史的状況における事実認識なのだ、という反論がhotal氏に向けられることになります。しかし僕の理解したところではhotal氏が言いたかったことは、「慰安婦問題」を巡る状況は「ハードボイルド」なんだから、たんに事実認識における「正しい/間違っている」を一方的に主張しても現実問題としてなに一つ生み出すことはなく、まずは徹底して「語用論的リアリズム」を貫く必要があるんじゃないか、ということだったのだと思います。そしてそのためには相手がどのような考え、どのような前提をもっているかをちゃんと研究する必要があるのだ、と。しかしその意図はまったく通じず、そのうちhotal氏も諦めてしまい退場してしまいました。これは「慰安婦問題」というものにとってもとても不幸な出来事だ、という風に僕は感じました。

なんだか長くなってしまいました。本当はこのあと、このような「ハードボイルド」な状況において「語用論的リアリズム」はどのような戦略を要求するだろうか、といういわば実践編を考察するつもりだったのですが、それはまた次に回します。ただ、最後に一言だけ。

コミュニケーションをめぐる状況が「ハードボイルド」である、ということを別の言い方をすれば、そこでは「他者」とのコミュニケーションが問題となっている、ということになると思います。たとえば戦争責任に関して、「いつまで謝罪すればいいのか、もう十分に謝ったじゃないか」、という主張があります。ここでは「十分/不十分」という評価にはまったく触れず、そこには「他者」とのコミュニケーションという「ハードボイルド」な状況が現われている、ということだけを指摘したいと思います。「謝罪」というのは、相手がそれを受け入れ納得し許してくれることによってはじめて「謝罪」になるのであって、そこには徹底した「語用論的リアリズム」が要求されるわけです。そのことを忘却して、自分で勝手に十分な=正しい謝罪、というのを設定してしまうというのは、「語用論的リアリズム」を忘却した「自己満足」でしかない、ということになります。つまり、謝罪とはつねに他者への謝罪であるのです。そして太平洋戦争に関しては被侵略国の人々がそこでの他者に当たり、具体的には中国韓国がその主たる当事者になるわけです。しかしこんなことは当たり前のことです。

前の記事ではそこからさらに一歩進めて、中国韓国をバッシングする人たちもまた自分にとっては他者である。ということを書きました。すると→id:NakanishiBさんという方からかなり批判的なトラックバックをいただくことになりました。(http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20070305/1173913588参照)。そこで述べられていたことは、僕からすれば「誤解」でしたが、しかし「語用論的リアリズム」という観点からすれば、それは「誤解」ではなく「失敗」であり、その責任は当然ながら僕にもあるわけです。その後、コメント欄でのちょっとしたやりとりで「失敗」は事後的に「誤解」となり、さしあたりのコミュニケーションは「成功」したわけですが、しかし現実におけるコミュニケーションのうちの少なくないものが、最終的に「成功」しないまま終わっている、ということを忘れてはいけないと思います。いうまでもなく、『慰安婦問題」やさらに広く「歴史認識」の問題というのは、そうした「失敗」例に満ちあふれている領域だと思います。ここで重要であるのは、「誤解」というのはその「誤解」が解けたあとで事後的に「あれは誤解だった」と認められるもので、コミュニケーションの担い手の一方の人間が「誤解されている」と感じていたとしても、それはコミュニケーションそのものにとってはあくまでも「失敗」でしかない、ということです。それゆえ「誤解する方が悪い」という主張は「自己満足」でしかなく、コミュニケーションを成功させるために「語用論的リアリズム」に基づいた上で努力する必要があります。

中国や韓国をバッシングする「日本の若者たち」もまた僕にとっては他者である

前回の記事での僕の主張は、日本国内で「慰安婦問題」について語る際には「語用論的リアリズム」が要求される、というコミュニケーション戦略上の現状認識のことを言いたかったのでした。前回はずいぶんと省略的な書き方をしてしまったので「失敗」してしまいましたが、今回はどうでしょうか。