「余は如何にして朝日新聞を疑うようになりし乎」

火中の栗を拾うシリーズ第一回。お題は「慰安婦問題」です。基本的には人文、思想関係の記事の多い当ブログですが、なんだかこのところどうにも気持ちが悪いので、いわゆる「慰安婦問題」についてこの場で整理をしてみたいと思います。ただしここで試みられるのは「事実関係」の整理ではなく、「慰安婦問題」なるものに接する際にありうべき(自分の)基本的姿勢に関する批判的反省です。と書くとなんだか小難しい感じがしますが、もっとわかりやすく言えば次のようになります。「朝日新聞に書かれていることは信じられなくなったけど、じゃあどうすっぺ?」ってことです。

まずは「余はいかにして朝日新聞を疑うようになりし乎」という表題について。僕の家庭では昔から朝日新聞をとっており、当然ながら僕もずっと朝日新聞を読んできました。その長年の経験によって培われた朝日紙面への「慣れ」と、また生来の横着とが相まって、他の新聞を読むということもほとんどまったくして来ませんでした。さらに、自分の育った家庭そのものが、どちらかと言えば「左」に傾いた家であり、小さい頃は原発反対運動に連れだされていた記憶があります。当時は石川県の金沢市に住んでいたのですが、青森県六ヶ所村にまで核燃料再処理施設建設の反対のために出向いたこともありました。細かくは書きませんが、つまりは「そういう」家庭環境にあったわけでした。

で、「慰安婦問題」あるいはよりひろく「歴史認識」というものについて言えば、上記の環境と学校での歴史教育が混ぜ合わされるわけですから、どういう考え方をするようになるかは容易に理解できます。端的に、「朝日新聞的な考え方」といってもいいでしょう。より具体的に言えば、「朝鮮人強制連行」、「南京大虐殺」、「慰安婦問題」といったそれぞれのトピックについて、朝日新聞に書いてあることをそのままに信じていた、ということです。だから、「南京大虐殺など存在しない」といった主張の存在も知っていましたが、当然ながらそういった主張は朝日的な視点から、つまり「歴史修正主義者」といったレッテルのもとに受け取られることになり、たとえば「アウシュヴィッツは存在しなかった」という主張と同列に受け取っていたわけです。

それがいつまでつづいたでしょうか?実を言えばかなり最近まで、そういった発想を疑うことをしませんでした。というよりも、そもそもそれほどそれらの歴史的、政治的問題に関心がなかったために、何となく刷り込まれた考え方をそのままに持ち越してきた、というのが正確なところです。しかし、比較的最近になって、朝日的発想というものを疑うようになりました。それはいかにしてか?

ひとなみにインターネットも使いましたから、上記の諸問題に関するネット上の諸情報にも当然触れてはいました。しかし、当初はどれも一緒くたに、「歴史修正主義的発想」だとか、あるいは「思い込みで書かれたネット情報」というレッテルとともに、ほとんど相手にすることはありませんでした。自分にとっての基本的な転機になったのは、「事実関係」についての諸指摘ではなく、純粋に思想的あるいは哲学的議論に関してでした。細かくは書きませんが、要点だけを述べると、哲学的な議論における「左」の人の思い込みの激しさ、イデオロギー的な決めつけの激しさに辟易し始めた、というのがあります。そういったことからまず、「左ヴィジョン」というものに疑いを持ち始めたのですが、そういった「左ヴィジョン」の持ち主は、往々にして、政治的、歴史的認識もセットにもっていて、それがどれもこれも「朝日的」なわけです。自分が朝日的な考え方を疑い始めたのは、こういった迂回した流れを通してでした。

誤解を招かないように予めいっておくと、「右」か「左」かのどちらで自分を規定しろ、と選択を迫られたならば、いくらかは躊躇しますが、基本的には自分は「左」を選択します。「左」、というのは自分の言葉で言い換えれば「批判的」ということです。しかし、朝日的左というのは、「批判的」というよりも権力を一方的に「非難」するだけであり、その「非難」を可能としている地盤をまったく疑うことが内容に見えて仕方ない。つまり、自分自身についてはまったく「批判的」ではないようにみえるわけです。そしてそういった態度に対する否定的な見方が、「左」全般に対する否定的な見方につながってしまう。だから余計に腹立たしいのです。しかしこの辺の話に深入りすることは止めておきます。

さて、朝日的見方に疑問を持つようになると、ネット上で出会われるさまざまな情報もまた別の印象をもって現われてくることになります。ただしいかんせん、残念ながら自分にはそれらの真贋を判断するだけの見識を持っていません。朝日は間違っているから、では朝日に批判的な議論は全部正しい、なんていう直線的な発想にはなれないので、そこで踏み迷ってしまいました。そこでの一番の問題は、どの情報を信頼していいのかわからない、ということでした。とりあえず朝日ならびに朝日的知識人による情報は信じられなくなったのですが、かといってネット上における「戦争の真実」に類する情報は、たいていは中国、韓国への一方的な誹謗中傷とセットになっていて、こちらも信じていいのかわからない。それでしばらくは、どちらの主張にも判断を下すことなく、どちらにも批判的に接しながら自分の態度を宙吊りにしていたのでした。ちょうど一年ほど前ですがこのブログで、映画『ホテル・ルワンダ』のパンフレットに寄せられた町山智浩氏のコメントに関していろいろと議論したことがありましたが、それはそういった時期の話です。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060306#p2
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060310#p1
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060315#p1

それぞれ個々の情報の価値を判断するためには、そこで問題となっている分野に関するある程度包括的な知識と、またその分野において生じている論争点についておおまかなりにでも把握する必要があるわけですが、これはなかなか難しい。とすると次善の策として見出されるのが、信頼できそうな人の議論を参考にする、ということになると思います。簡単にいえば、「多くのトピックに関して妥当なことを論じている人は、ある特定のトピックについても妥当なことを述べているだろう」ということです。これはもちろん絶対に確実な発想ではないですが、しかし一定程度の蓋然的な正しさが期待できるものだと思います。

で、結論からいってしまえば、それまではあくまでも中立的かつ懐疑的であった自分の姿勢を変えたのが、社会学宮台真司氏の意見でした。僕は宮台氏の著作にはそれほど親しんでおらず、また氏の図式的かつパフォーマティブな社会診断に関しても懐疑的なところがありますが、イデオロギー的な問題に対する距離の取り方、それに情報の収集/分析能力には信頼を置いてもいいのではないか、と考えています。その宮台氏はTBSラジオで「週刊宮台」という番組を持っていて、3月2日の回のテーマが「従軍慰安婦問題と河野談話の扱いについて」というもので、僕はその回をポッドキャスティングによる配信を通して聞きました。http://www.tbsradio.jp/pod/ ←のホームページから「週刊宮台」の「番組HP」をクリックし、「2007年3月2日更新分」を選択するれば聞くことができます。そこでは、いわゆる「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」というものは、広く主張されているような形での実態はなかった、という判断がその筋の専門界の間での共通了解として語られています。「慰安婦問題」に関しては、慰安婦を集めたのはあくまでも民間の業者によってであり、もしその際に「強制連行」と言われうるような事例があり、また個々の軍関係者がそのことを知っていたかもしれないということがあったとしても、軍がそれを主導的に組織した、ということは状況証拠から言って「ありそうもないことである」ということが述べられています。そして、日本政府は当然ながら被侵略国に対して充分な「配慮」をする必要はあるが、それはあくまでも「事実」に即した形においてであり、「事実」に即さない糾弾に関しては個別に反論することはきわめて妥当な対応である、と宮台氏は判断していました。

また池田信夫氏もブログでこの問題を取り上げており、宮台氏の判断と一致する方向性で議論しています(http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ab4e9f4e372098e706c47ba5c5d032a2参照)。コメント欄を読んでも、そこから信頼できそうな発言、ということはつまり、池田氏の議論のポイントを踏まえた上で、要点を押さえ論理的に書かれたコメント、を拾い出していくと、概ねのところの妥当な見解というものが見えてきます*1。ということで、すくなくとも「南京事件」と「慰安婦問題」にまつわる「事実認識」に関しては、自分のだいたいのスタンスは決まりました。しかし、いうまでもなくその根拠はこれまでのところ、宮台氏と池田氏(またそこに集められたコメント)だけであるので、それ以上に有力と思われる見解があれば、方向を転換することはやぶかさではありません。それにしても、自分の言い訳しようのない知識不足を完全に開けっぴろげていますね、今回の記事は。

事実認識」の問題に片がついたとすると(ここでは仮にそうだとして話を進めます)、その次のステップとしての諸問題が現われてきます。たとえば「配慮」の問題です。なんらかの「配慮」というものの必要はいうまでもないとして、ではそれは「どこまでの配慮」なのか。一つの発想として、「事実認識」をうんぬんすること自体に「配慮」が欠けている、というものがあります。この発想にも「いくらか」は妥当性はあると思います。たとえば、間違った「事実認識」が広がっていたとしても、「慰安婦問題」というものにほとんど焦点が当たっていない状態でことさらに「事実認識」を主張することは、政治的にも、あるいはより一般的な倫理的「配慮」という観点からも、あまり妥当ではないと思います。しかし、現在の状況、つまりアメリカで「非難決議」というものが提出されている状況では、明らかに事態は別です。宮台氏は、「配慮」は必要であるがこういう状況においてはしっかりと「事実認識」を主張しなければならない、としていました。さしあたり自分の意見は述べないとしても、常識的に考えればこのへんが穏当というか、バランスのとれた発想である気がします。

しかし、問題はさらに混み入っています。国際社会での認識、中国、韓国での認識、日本での学校教育、朝日新聞社民党etcと、「事実認識」をめぐる環境は複雑きわまりないものです。僕には明らかに、これらの諸問題を解きほぐしていけるだけの準備も蓄積もありません。ということで、日本という狭い領域に限って、どのように考えていべきか、という方向に思考を巡らせるならば、基本的には一つしかあるべき形はないでしょう。それは、「事実認識」そのものに関しては客観的に論じられる環境を作り上げること。そしてそのためには、左右を問わず、「事実認識」にすぐに色を付けてしまう発想から距離をとることから始めるしかない気がします。ほかにもいろいろ書きたいことがありましたが、まだうまくまとまりそうにないのでここで止めておきます。

いずれにしても、見識を持った左の方々が、宮台氏のように「事実認識」についてちゃんと発言してくれることを期待します。また、「こんな人がこんなことを述べてるよ」っていう情報をいただけると嬉しいです。

*1:池田氏はこの問題に関して朝日新聞問題についても書いており、当記事のタイトルはそれをなんとなく意識しましたhttp://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1677143840b260e4b0de03304293c882