構造主義について考える4

id:finalvent氏が「混同」として指摘されてきた部分については、その指摘が要求している「精度」が意味をもつ議論の水準は当然存在するのでしょうが、この「シリーズ」で考えようとしている物事の水準ではそこは大雑把にやって問題はないだろうというのがまずあって、とするといわゆる「空気嫁」的な対応になってしまうかと思いきや、そうでもありません。氏の「指摘」のおかげで今日は浅草で映画を観ながらいろいろ考えることができたので、その点は感謝です。

まず、エートスとしての構造主義と原理としての構造主義というのをわける必要がある、ということに今さらながら気付きました。乱暴にまとめると次のようになるでしょう。
● エートスとしての構造主義=「参照先としての人間の乗り越え」
● 原理としての構造主義=「関係性のネットワークに準拠した科学的厳密性の確保」
この両者というのはおそらくさまざまに入り組んでおり、たとえば「科学的厳密性の確保」もまた構造主義の強力なエートスをなしていたとは思うのですが、しかしここではあえて「人間の乗り越え」をエートスとして挙げます。その妥当性は、くしくもfinalvent氏自身が示してくれているように思えます。

finalvent氏は次のように書いていました。

ちなみに、実存VS構造、というとき、基本的な問題は、サルトルVSフーコー、あるいは、サルトルVSコジェーヴ、なんで、そのあたりの、経緯や、実際的なフランス社会の社会運動とソビエトとの関連があり、いわゆる思想側で浮き出たエクリチュールを追っているとよくわかんなくなる。

このあたりも個人的には大きく?だったのですが、まあどうでもいいやとスルーしたのでした。しかし今から思うとここにはとても興味深い問題が潜んでいたのでした。この引用部分では実存VS構造とがサルトルVSフーコーとなっていますが、一般的にいえばサルトルVSレヴィ=ストロースというのが、時系列的にいっても思想の内容からいっても挙げられるのが必然的ななりゆきです。さらに、finalvent氏は構造主義を科学的厳密性への指向と結びつけて捉えているようなのでなおさらです。レヴィ=ストロースの議論にどれだけの科学的厳密性あるいは実証性があるかどうかは別として、そこにははっきりとそういったものを指向するエートスは存在しました。他方でフーコーの場合には、「構造主義について考える3」(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070428#p1)で書いたように、そこには科学的厳密性への指向は基本的には存在しません。そしてそこに、finalvent氏が引き合いに出したピアジェが、そしてすでに述べたようにグレマスが、科学的厳密性への指向という観点からフーコーを批判する理由があるわけです。

それではなぜ、にもかかわらず実存VS構造という対立がサルトルVSフーコーという対立へと置き換えられるという連想が強力に働くのか。それは、いわゆる構造主義というものが、「科学的厳密性のエートス」よりも「人間の乗り越えのエートス」において受け止められているからだと思います。レヴィ=ストロースには「科学的厳密性のエートス」と「人間の乗り越えのエートス」が共存していましたが、フーコーにはそのうち後者だけが強力に顔を見せており、だからこそたとえばfinalvent氏のような人も、サルトルVSレヴィ=ストロースではなくサルトルVSフーコーを引き合いに出したのでしょう。このような連想を巡る事情は、おそらくフランスにおいても強かったでしょうが、なによりも狭義の構造主義とそれ以降の思想とがないまぜになって輸入されてきた日本においてより強く働いたのではないか、と推測します。ただの推測ですが。

finalvent氏の身振りが示唆に富むのはそこだけではありません。当初は構造主義の原理、すなわち「科学的厳密性」に焦点を当てて「テクニカルな指摘」を行ないつつ、ピアジェの本についてのアマゾンでの書評に触れながらフーコーについて否定的に捉える態度を示していました。この態度自体はとてもよくわかりますし、一貫したものだと思います。実際、原理としての構造主義という観点からいえばフーコー構造主義者ではありませんし、だとすれば「人間の乗り越え」というよりおおまかなエートスにおいて構造主義を考えようとしている僕に対して、ある種の「原理」の立場から批判を向けるというのは、むろん「空気嫁」問題は存在するにしても、理解できるものではあります。この記事の最初に「精度」について僕が触れたこともそこに関わっています。しかしよりあとの記事で氏が、「哲学的な構造主義」として社会的な次元での構造主義的な発想について触れている部分については、ちょっと事情が異なります。というのもそこではもはやフーコー自身が述べているように科学的厳密性は担保しえず、それゆえそれは原理という点では厳密にはもはや構造主義とはいえないわけです。

ただし、もちろんfinalvent氏が間違っているというわけではまったくなくて、結局はそこにはなんだか「微妙な」問題がある、というだけのことです。「哲学的な構造主義」は厳密には構造主義とはいえないのだけど、しかしそれでもやはりそれは「構造主義」と説得的に呼ばれうる。その理由はいうまでもなく、「人間の乗り越え」というエートスとしての構造主義にあります。そのエートスによってマークされているが故に、「哲学的な構造主義」なるものもまた構造主義と呼ばれることになるわけです。「構造主義について考える2」において僕は、「フーコーはいかにして構造主義者であり構造主義者ではないのか?」という点に自分の興味がある意味では集約されていると書きました。今から思えばこの問いに対する答えは、「フーコーは原理においては構造主義者ではないがエートスにおいては構造主義者である」といえるかと思います。むろんその場合には、構造主義エートスからは科学的厳密性への指向は削ぎ落とされることになりますが。

僕の見るところでは、finalvent氏の基本的な姿勢からすれば、「哲学的な構造主義」に関しては、「しかしながらそれは実際には構造主義などとは言えない」と批判を向けなければ一貫しないような気がします。むろん一貫すればそれでいいというわけではなくて、そこには、なぜ「哲学的な構造主義」というのは構造主義ではないにも関わらず構造主義と呼ばれるのか、という問題が残るわけであり、すでに述べたように僕はまずもってその問題を考えようとしていたのでした。この点を踏まえるとなおさら、構造主義の原理という観点から「テクニカルな指摘」を行なうという身振りの「空気嫁問題」が再燃してきてしまうわけですが、しかし即座に鎮火しておきます。

さて、今度は逆に原理的な立場から一貫すればどうなるのか、と考えてみるとやはりそこにはチョムスキーが出てくるのでしょう。僕の先生が言うには、チョムスキーがあのように政治的活動に身を投じているということ、しかもそれを学問的営為とは完全に切り離してそれはそれとして展開しているということには、必然的な理由があるとのことでした。というのも、チョムスキーの言語論は純粋に言語の次元で完結するものであり、そこにはいかなる社会への通路も内在的には存在せず、それゆえチョムスキーにとって社会的次元との関係は純粋に学問から切り離されたものとしてしか存在しえないからです。別の言い方をすれば、社会の生成文法というものは科学的厳密性の観点からいって存在しえない、ということにもなるでしょう。このチョムスキーの態度は、その当否は僕には判断できませんが、しかしとにかく首尾一貫したものであり、僕には敬意を払うに充分値するものであるように見えます。別に他の誰かの非首尾一貫性を責めているわけではありません。

以上に書いてきたような自分の問題意識の文脈について、その文章を読む限りfinalvent氏がこれまで考えてきたことがあるとは思えなかったので(だから「空気嫁問題」)、前の「困った」と題した記事で「どうでもいいや」と放り投げてしまったのですが、しかしそのままにしなくてよかったです。とにもかくにもfinalvent氏のおかげで自分の頭の中が整理できました。ありがとうございました。

自分としてはとても有益だったこの「寄り道」を踏まえつつ、次回以降はまた「構造主義について考え」ていってみようかと思います。